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名古屋高等裁判所 昭和45年(う)101号 判決 1975年3月27日

本籍 名古屋市中村区名楽町五丁目一八番地

住居 東京都目黒区中目黒五―九―六美光荘内

翻訳業

騒擾助勢 阿部政雄

昭和三年五月二五日生

<ほか九〇名>

右の者らに対する各頭書被告事件について、名古屋地方裁判所が別紙第一記載のとおり言渡した有罪判決に対し、別紙第二記載のとおり被告人並びに原審弁護人から適法な控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官本多久男、同粟田昭雄出席のうえ審理を遂げ、つぎのとおり判決する。

主文

一、原判決中被告人方甲生、同朴柄采の有罪部分及び同閔南採に関する部分を破棄する。

二、被告人方甲生を懲役六月に処する。ただしこの裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

三、被告人朴柄采を、原判示外国人登録令違反の罪につき懲役一月、同騒擾率先助勢の罪につき懲役四月に各処する。ただしこの裁判確定の日から一年間右各刑の執行を猶予する。

四、被告人閔南採を、原判示騒擾首魁の罪につき懲役一年一〇月、同外国人登録法違反の罪につき懲役一月に各処する。原審の未決勾留日数中八〇日を右騒擾首魁の罪の刑に算入する。

五、その余の各被告人の本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、一弁護人伊藤泰方外二六名(氏名は別紙第三記載のとおり。以下同じ。)共同作成の控訴趣意書総論、二同伊藤泰方外七名共同作成の控訴趣意書総論補説(45・11・30付)、三同伊藤泰方外四名共同作成の控訴趣意総論追加訂正書(46・2・27付)、四同伊藤泰方外三名共同作成の控訴趣意総論補充書(46・9・1付)、五同伊藤泰方外五名共同作成の控訴趣意総論補充書(46・9・6付)、六同伊藤泰方外一二名共同作成の控訴趣意各論、並びに別紙第四記載の各被告人作成の各控訴趣意書記載のとおりであり、これらに対する答弁は、名古屋高等検察庁検事福田巻雄作成の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

Ⅰ  弁護人の控訴趣意総論に対する判断

〔Ⅰ〕 第一点「理由不備または理由のくいちがい」の論旨について

1  第一点、一、「共同暴行脅迫の意思」第一「『共同暴行脅迫意思』の存否に対する認定の欠如」について

所論は要するに、騒擾罪が成立するためには、暴行又は脅迫が集合した多衆の共同意思に出たものであることを要し、かつその共同意思は、現に暴行脅迫が行われる、その時点のものでなければならない、原判決は、デモ隊の先頭が警察の放送車を、やや追い越した昭和二七年七月七日午後一〇時五分ないし一〇分頃、デモ隊列中より大須交差点の東約一四〇米の岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前車道を除行中の右放送車に石及び火焔瓶を投げつけた事実を認定し(第一章、第二節、第一)このときから騒擾が開始されたとし(第二節、第十一結語)さらに民間乗用車に対する「攻撃」各警察官に対する「攻撃」等を順次認定している(第二節、第一ないし第八)しかし原判決は前記の警察放送車に対する火焔瓶、石などの投擲という「暴行脅迫」が、デモ隊という一つの集団の「共同意思」に基づいて行われたものかどうかについて認定を欠いており、また民間乗用車に対する「攻撃」以後の各場面での「暴行脅迫」については、一個の集団としてのデモ隊は既に崩れていたことを認定していながら、なお全体としての一体性が維持されていたのか、あるいは各場面毎に個々のいくつかの集団が新たに形成されていたのか、結局騒擾成立のかなめである集団としての「共同暴行脅迫意思」の存否について、何らの認定をしていない点で、理由不備の違法を犯している、というのである。

ところで、「騒擾罪は、群衆による犯罪であるから、その暴行又は脅迫は集合した多衆の共同意思に出たもの、いわば集団そのものの暴行又は脅迫と認められる場合であることを要するが、その多衆のすべての者が現実に暴行脅迫を行うことは必要でなく、群衆の集団として暴行脅迫を加えるという認識のあることが必要なのである。」この共同意思はさらに具体的には「多衆の合同力を恃んで自ら暴行又は脅迫をなす意思ないしは多衆をしてこれをなさしめる意思と、かかる暴行又は脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思とに分たれ、集合した多衆が前者の意思を有する者と後者の意思を有する者とで構成されているときは、その多衆の共同意思があるものとなる。」しかも右共同意思は「多衆集合の結果惹起せられることのあり得べき多衆の合同力による暴行脅迫の事態の発生を予見しながら、あえて、騒擾行為に加担するの意思があれば足りるのであって、必ずしも確定的に具体的な個々の暴行脅迫の認識を要するものではない。」この意味では、右共同意思は未必的であってもよいのである(最高裁、昭和三五年一二月八日判決、集一四巻、一三号、一八二六頁以下参照)。

原判決が右にいわゆる「共同意思」あるいは「共同暴行脅迫意思」について、特に判示するところがないことは所論のとおりであるけれども、原判決第一章の「罪となるべき事実」の判示自体、特にその第四節「各被告人の行為」のそれによって、原判決は、本件騒擾の実行行為者として有罪と認めた各被告人につき、本件騒擾の時点において右共同意思もしくは未必のそれを、それぞれ認め、本件騒擾が右共同意思に出た暴行脅迫と認められるとしていることは、これを看取するにかたくない。

さらに右原判示によれば、原判決は、その第一章第二節「騒擾」の第一における岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前車道を徐行中の警察放送車に対する右及び火焔瓶の投擲に始まり、民間乗用車及び警察官に対する攻撃等同節第一ないし第八に順次認定している共同の暴行脅迫は、社会現象としても、犯罪構成事実としての法的評価においても、包括的に一個の騒擾を形成し、その犯罪主体たる集団は、原判決が実行行為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群集の一部から成る一個の集団であって、本件騒擾は右集団の共同意思に基づいて行われたものであると認定していることが明らかである。そして右認定は原判決の挙示する各証拠によって正当として是認さるべきである。原判決は、決して本件デモ参加者全員を本件騒擾の実行行為に関与した加担者としてはおらず、従ってデモ隊すなわち本件騒擾の主体たる集団と認定してはいないのであって、この点、所論は原判決を誤解しており、結局原判決には所論の如き理由不備の違法は存しない。

2  第一点、一、第二「原判決における『共同意思』の存在についてのくいちがい」について

所論は要するに、仮に原判決が、警察放送車に火焔瓶が投げられる前後のデモ隊又はデモ隊員達の客観的な行動について「共同意思」の存在を認定しているものとしても、原判決は、放送車に火焔瓶等が投げられるまでのデモ隊につき「以上の通りであるから、警察放送車に火焔瓶が投げられる前の大須球場内及び岩井通におけるデモ行進は、日常行われる平穏なデモに比較すれば、少しばかり異様であったかも知れないが、暴行も脅迫も行われない単なる無届の集団示威行進に過ぎず」(第四章第一)と認定し、放送車に火焔瓶が投げられた後のデモ隊について、「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としては、なお進行を続け」(第一章、第二節、第一)と認定して、結局デモ隊は、全体としては放送車に火焔瓶等が投げられる前後を通じて同じ集団示威行進という行動を継続したという認定に帰着する、しかし集団示威行進は、憲法二一条の保障する集会、表現の自由の行進であって、たといそれが公安条例違反の無届デモであっても、そのことに変りはない、従ってもし原判決が、放送車に火焔瓶が投げられたとき以降、デモ隊が警官隊の実力行使によって解散させられるまでの間について、デモ隊又はデモ隊員達の客観的な行動を暗黙のうちに「共同暴行脅迫意思」と認定しているとすれば、原判決自身認めている「放送車に火焔瓶等が投げられた前後を通じて変らないデモ隊の客観的行動」即ち集団示威行進という憲法上の権利の行使を、「共同暴行脅迫意思」という犯罪意思の発現形態として捉えていることになり、明らかに理由のくいちがいを構成する、というのである。

しかしながら所論の右主張は、原判決に対する二重の誤解もしくは曲解を前提とするものである。すなわち、まず第一に、所論は、原判決が本件デモ参加者全員を本件騒擾の実行行為に関与した加担者、従ってデモ隊すなわち本件騒擾の犯罪主体たる集団と認定しているものとしているが、これが誤解であって、原判決が本件騒擾の犯罪主体たる集団として認定したのは、原判決が本件騒擾の実行行為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群衆の一部から成る一個の集団であって、本件騒擾は右集団の共同意思に基づいて行われたものであると認定していることは、先に控訴趣意(総論)第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示したとおりである。

次に原判決が、放送車に火焔瓶が投げられるまでのデモ隊について、その第四章第一において、「大須球場内及び岩井通りにおけるデモ行進は、日常行われる平穏なデモに比較すれば、少しばかり異様であったかも知れないが、暴行も脅迫も行われない単なる無届の集団示威行進に過ぎず」と認定していることは所論のとおりであるけれども、所論が、原判決の第一章、第二節、第一における放送車に火焔瓶が投げられた後のデモ隊について、「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としては、なお行進を続け」との判示を捉えて、結局デモ隊が全体としては放送車に火焔瓶等が投げられる前後を通じて同じ集団示威行進を継続した客観的行動を、「共同暴行脅迫意思」の発現と認定したことに帰着するとしているのは、原判決を誤解もしくは曲解するものである。右原判示部分は、その前後の文脈の関連において、これを考察すると、後記控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第十、第十一、第五点、四、第一等の論旨に対する判断において反復説示している如く、デモ隊の先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたために、デモ隊列はまず先頭部分の放送車附近で崩れたものの、なお全体としては、特にその最先端部分及び放送車附近より後方の部分は進行を続け(そのうちの多数は、原判決が第一章、第四節「各被告人の行為」において、率先助勢者、附和随行者等について認定している如く、警察放送車に対して右暴行が行われるのを認識しながら、これと共にする意思をもって、引き続きデモ隊に加わって行進を続けた)その後間もなく岩井通り四丁目八番地空地附近で、デモ隊中から乗用車に火焔瓶が投げつけられて右乗用車も発火し、同時に放送車附近の混乱は前方及び後方に漸次波及して行き、ついにデモ隊全体が崩壊するに至った過程の一場面を認定したに過ぎないと解するのが相当である。つまりデモ隊は、警察放送車に対する火焔瓶投擲を契機として漸次隊伍を乱して行き、同時にデモ隊員中の多数は前記の本件騒擾の犯罪主体たる暴徒集団を形成したのである。原判決が共同暴行脅迫意思を認めているのは、この暴徒集団についてであって、その前段階である、単なる無届の集団示威行進を行っているデモ隊についてではない。

結局所論は、その前提を欠き、論旨は採用できない。

3  第一点、一、第三「事前の『共同意思』についての理由の不備ないし理由のくいちがい」について

(一)  所論一、二は要するに、原判決は、デモ隊に参加した者の意識を四つのグループに分け、(3)のグループとして「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者は、その認識はないが、いずれも行進途中に警官隊と衝突することを予想しながら、敢て参加した者が多数あり」と認定している(第一章、第一節、第四款、第二の二)。原判決は、このグループを、昭和三五年一二月八日の最高裁判決にいわゆる「多衆の合同力を恃んで行われる暴行又は脅迫に同意を表わし、その合同力に加わる意思」を有する者と見ているもののようである。しかし原判決の認定によっても、このグループの目的は、「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なう」ことにあったのだから、警官隊の方からデモ隊に攻撃を加えて来ない限り、その目的の実現、すなわちデモ行進を継続したはずであって、この(3)のグループの「予想」のうちには、原判決が本件騒擾の始期としている放送車発火の時点で火焔瓶等を投げるという、いわば警官隊に対して積極的な攻撃を加えるという事態についての表象は論理上含まれ得ないものであった、それに単に「衝突を予想する」ことと「暴行脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思」とは、いわゆる「未必的共同意思論」の立場に立っても、全く別のことである。我が国の警察の、国民大衆のデモ隊に対する弾圧の歴史、殊にメーデー事件、吹田事件における血の弾圧の直後の時点において、本件デモ参加者の多くが、「警官隊との衝突」を予想したのは当然であり、それは「警官隊の弾圧」を予想したことに外ならず、これを以て、「暴行脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思」と見ることは許されない。それはデモ行進の権利の全面的否認である。従って原判決は、デモ隊が行進を始めてから、放送車に火焔瓶等が投げられたときまでの間に、(3)グループの者の予想が、どう変ったか、あるいは変らなかったか、放送車に火焔瓶が投げられるという事態に直面して、これを認容したか、拒否したかを改めて証拠によって認定すべきであったのに、それをしていない。結局原判決が、仮にデモ集団の、デモ前の、事前の「共同暴行意思」を認定したものとすれば、それは後に現実に起った事態と合致せず、理由不備あるいは理由のくいちがいの違法が存する。以上の通り主張するものである。

しかしながら後記の控訴趣意(総論)第五点、一、第四、二、(三)の論旨に対する判断において説示している通り、原判決の挙示する証拠によれば、本件騒擾発生直前の大須球場における七・七歓迎大会の状況は、原判決第一章、第一節、第四款、第一の一、二、三に判示の如く、「会場の同志諸君」と題し、「中日貿易をやらせないのはアメ公と吉田だ、敵は警察の暴力だ、中署へ行け!! 敵の正体はアメ公だ、アメリカ村え行け、武器は石ころだ!! 憎しみをこめて敵に力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街へ散れ」と記載したビラが演説中散布され、帆足計の演説終了後、名大生渡辺修は、「……このように警察はアメリカの手先となって中日貿易を希望する国民の運動を弾圧している。今日も警察は三千五百の警官を動員して会場を取りまいている、我々は何をなすべきか、ただ行動あるのみ、我々は警察に断乎抗議しなければならない」旨の演説をしたので、司会者伊藤長光は直ちに閉会を宣言したが、その頃「やれやれ、やっちまえ」という叫びが起って場内が騒然となり、続いて被告人岩田弘が演壇に上り、「……日本全国民は一致団結して、この敵、吉田政府と戦わなければならない、いよいよこれからデモをやろう、スクラムを組もう」と腕を振り上げて激しい口調で叫んだところ、これに応じて場内の各所から、「そうだ、そうだ」「やれやれ」、「警察をやっちまえ」「デモを組め」、「中署へ行け」、「アメリカ村へ行け」等の叫びが起り、俄かに興奮状態となって、まず演壇北側の名大生三、四十名が赤旗を持って、「わっしょ、わっしょ」「デモに入れ」等と叫びながら左廻りに二、三回廻り、その後に赤旗を掲げた民青団の一団と名電報局員、その他多数が加わり、朝鮮民主々義人民共和国々旗を先頭にした他の一団が場内を左廻りに一、二回廻り、これに西三地区及び東三地区祖防委並びに昭和区天日町方面から参集していた朝鮮人等多数が加わり、球場内を廻って気勢をあげ、両者合流して千名ないし千五百名の集団となって、午後十時頃、球場東門から場外へ出て行ったものである。従って右千名ないし千五百名の集団の中に、右状況を目撃し、前記(3)のグループに分類される「中日貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者はその認識はないが、いずれも、その行進途中に警官隊と衝突することを予想しながら敢て参加した者」が「多数あった」ことは容易に推定し得るところであり、このことは、原判決が、その第一章、第二節において認定した、その後の本件騒擾の発生展開の態様からも窺えるところである。

右の如き球場内の状況を目撃し、その雰囲気に接した右(3)のグループの多数が抱懐した「デモ行進途中に警官隊と衝突する事の予想」は、所論の如く、警官隊の方から攻撃して来ない限りデモ行進を続けるというような消極的なものでなく、またメーデー事件、吹田事件等の連想による警察のデモ隊に対する弾圧といった漠然とした抽象的なものでもなく、積極的、攻撃的で、警官隊に対して暴行を加えるかも知れないという予想であり、かつこれを認容して、「敢てデモ行進に参加した」ものであったのであり、このことは原判決がその第一章、第一節、第四款、第二、二(3)に関して挙示する各証拠によって、前記本件騒擾発生直前の大須球場の状況の個々の目撃者及びこれを単に目撃したのみならず、本件デモにも参加した者の意識内容を具体的に明らかにすることによって、主観的側面から充足確定されている。

このような意識、予想は、前記最高裁判決のいわゆる「多衆の合同力を恃んで行われる暴行又は脅迫に同意を表わし、その合同力に加わる意思」とみなし得るものであって、かかる意識は、所論の如く「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためのデモを行う」という目的と論理的に矛盾するものではなく、十分共存し得るのである。そして右(3)のグループの者が、行進途中に警官隊と衝突し、これに対して暴行を加えるかも知れないと予想しながら、これを認容して敢てデモ行進に参加した以上、本件騒擾の始期とされている警察放送車に対する火焔瓶等の投擲も、右の者らにとって決して予想外のことではなく、その事前の「共同暴行意思」とその後に起った現実の事態との間に不一致は存しない。従って右の者らの前記予想が、デモ隊が行進を始めてから、放送車に火焔瓶等が投げつけられるときまでに如何に変ったか、あるいは変らなかったか、かかる事態に直面してこれを認容したか、拒否したかを、右(3)のグループの者全員について改めて証拠によって認定することは、事実上不可能を強いるものであるのみならず、全く必要のないことである(この点に関して右(3)のグループの者のうち原審被告人については、原判決第一章、第四節「各被告人の行為」において、証拠に基づき認定されている)。警察放送車に火焔瓶等が投擲されたことに端を発する本件騒擾の発生、展開の過程、態様が、右(3)のグループの多数の者にあっては前記意識が終始一貫、不変であったことを裏書しているのであって、結局原判決に所論の如き理由不備もしくは理由のくいちがいは存しない。

(二)  所論三は要するに、原判決は、デモ隊の態様について、「デモ隊は横に五名ないし八名で腕を組み、先頭附近に赤旗二、三本、先頭よりやや後に『反戦』と墨書した莚旗及び朝鮮民主々義人民共和国国旗を押し立て、隊列の所々に赤旗、百本近くの前記木や竹の棒、プラカード、プラカードを壊して木もしくは竹の棒だけにしたもの、及び前に認定したとおりの球場に持ち込んだ火焔瓶約九十個を持って『ワッショ、ワッショ』と叫びながら遅い駈足で行進した」と認定しているが(第一章、第一節、第四款、第三)原判決によってデモ隊の人員は千名ないし千五百名と認定されているのだから(第四款、第一の三)デモ隊員のうち百名前後の者が、火焔瓶や棒を持っていたからといって、それがデモ隊全体の目的と性格を規定するに足りないことは明らかである、しかも火焔瓶は、ポケットなどに隠し持たれ、他のデモ隊員の眼にふれないものであり、原判決の認定した各被告人の行動を精査しても、竹の棒にせよ、木の棒にせよ、プラカードの柄にせよ、その種のものを所持していたという者も、これを使用して暴行したという者も全く存在しない、正に原判決もいうように「警察放送車に火焔瓶が投げられる前の大須球場内及び岩井通りにおけるデモ行進は、日常行われる平穏なデモに比較すれば、少しばかり異常であったかも知れないが、暴行も脅迫も行われない単なる無届の集団示威行進に過ぎず、騒擾罪を構成しない」(第四章、第一)のである、従ってデモ隊の態様についての原判決の前記認定から、それが事前の「共同暴行脅迫意思」の存在を認定したものと解することは許されないというのである。

しかしながら原判決が本件騒擾の犯罪主体たる集団として認定したのは、全体としてのデモ隊ではなく、原判決が実行行為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群衆の一部から成る一個の集団、いわば暴徒集団であることは、控訴趣意(総論)第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示したとおりである。従って所論指摘の、原判決第一章、第一節、第四款、第三における火焔瓶や棒を持って岩井通りを東進したデモ隊員は、所論の如くデモ隊全体の目的と性格を規定するものとして認定されているのではなく、デモ隊員中の暴徒の事前の「共同暴行脅迫意思」の具現として認定されているのである。原判決がその第四章第一において「警察放送車に火焔瓶が投げられる前の大須球場内及び岩井通りにおけるデモ行進は、日常行われる平穏なデモに比較すれば、少しばかり異常であったかも知れないが、暴行も脅迫も行われない単なる無届の集団示威行進に過ぎず、騒擾罪を構成しない」と述べていることは所論のとおりであるが、それは警察放送車に火焔瓶が投げられるまでのデモ行進がそれ自体では共同暴行脅迫行為を形成しないことをいっただけで、そのデモ隊員中に、事前の「共同暴行脅迫意思」を有した者の存在することを否定したものではないから、その間に何ら理由のくいちがいは存しない。所論は原判決を誤解したものという外はない。

4  第一点、一、第四「『被告人等の計画、準備』とデモ隊の共同意思との矛盾」について

所論は要するに、原判決は、その第一章、第一節、第二款、第一から第九まで、本件騒擾についての「被告人等の計画、準備」を詳細に判示した上、「本件は日本共産党名古屋市V、同軍事委員が中心となり、県祖防委、市祖防委が参画して、計画したものである」と結んでいる。そして原判決の認定した右計画の最終的な内容を要約すると、「昭和二七年七月七日のデモは、球場に近い中署、アメリカ村を攻撃するものとし、球場から岩井通りに出て東進、大須交差点から左折北上し、本隊は中郵便局の丁字路で右折して中署を攻撃、朝鮮人部隊は、そのまま北上してアメリカ村を攻撃する」(第二款、第六、七月五日の隊長会議、第八、三、辛島パチンコ店における協議)というのである。ところがデモ隊が現実には、岩井通りを東進し、大須交差点で左折北上せず、また、しようとの気配も見せず、すなわち中署、アメリカ村の方へ向わず、また向おうともせず、上前津に向って直進したことは、原判決が第一節、第四款、第三、第二節第一に認定するとおりである。このことはデモ隊に中署、アメリカ村を攻撃しようなどという「共同意思」のなかったことの証左であり、また警察放送車発火以後、警官隊とデモ隊員及び群衆との間に、原判決が第二節、第一ないし第八に認定しているような一連の事態が発生したとしても、それは原判決の認定する被告人らの計画、準備とは全く異なった出来事である。従って本件が日共名古屋市Vその他により計画準備されたものであるとの原判決の認定は、後に認定されたデモ隊の客観的行動、及びそこに現われているデモ隊の「共同意思」と矛盾し、理由のくいちがいを形成する。以上のとおり主張するものである。

たしかにデモ隊が被告人らの当初の計画、準備とは異なって中署、アメリカ村へは向わず、上前津に向って直進したことは所論のとおりである。しかしながら、それは、原判決が第一章、第一節、第四款、第二の一で認定しているとおり、本件騒擾の計画、準備の中心となった名古屋市Vのキャップで、従って本件の最高指導者、最高責任者であった被告人永田末男が、ピケからの情報により本件当日の市警察の警備が厳重であると判断した結果、当日午後九時過頃、急拠、名古屋市V軍事委員キャップの被告人芝野一三を介して、大須球場内の市祖防委キャップで同時に市V軍事委員であった被告人金泰杏、県祖防委のキャップ被告人閔南採、県祖防委員の同崔乗祚、同李寛承らに、デモ隊が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警備のため出動している警官隊によって解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持しているデモ隊(正確にはデモ隊中の暴徒)が火焔瓶を使用して抵抗することを予想しながら「今日のデモは上前津方面に向わせる」旨指令し、右指令を受けた右被告人金泰杏らは協議の結果、中署、アメリカ村を攻撃するとの当初の計画を変更して、上前津方面へデモ行進し、その途中で警備の警察官による解散措置を受けた場合には、火焔瓶を使用して抵抗することに決してこの旨を順次各下部組織に伝えたことによるものである。すなわち右変更指令が本件における最終の指令となったものであって、結局それは日共名古屋市V、同軍事委員が中心となり、県祖防委、市祖防委が参画して、計画、準備したものに外ならない。従って警察放送車発火以後、警官隊とデモ隊及び群衆との間に発生した原判決が第二節、第一ないし第八に認定した一連の事態、その際のデモ隊中の暴徒(原判決がデモ隊全体を本件騒擾の主体たる犯罪集団とみなしているものでないことは上来再三説示したとおりである)の客観的行動、そこに現われた右暴徒の共同意思は、被告人らの準備、計画と何ら矛盾するものではなく、原判決には所論の如き理由のくいちがいは存しない。

5  第一点、二、「憲法違反及び警察行動の違法性」について

所論は要するに、原判決が原審における弁護人の、刑法一〇六条騒擾の罪の規定は、その構成要件が不明確で罪刑法定主義に反するから憲法三一条に違反し、かつ集会、表現の自由及び団体行動の自由を侵すものであるから同法二一条、二八条に違反する、また本件における名古屋市警察の警備計画、これに基づいて行われた警察の行動は、正当な集団行動に対する弾圧であるから違法である、との主張に対し何ら判断を加えていないのは理由不備の違法を犯すものである、というのである。

しかしながら、被告人あるいは弁護人の主張に対して裁判所が判断を示さねばならない刑訴法三三五条二項の法律上犯罪の成立を妨げる理由となる事実とは、正当防衛、緊急避難等の違法性阻却事由、及び心神喪失、期待可能性の不存在等の責任阻却事由をいうのであって、所論の違憲の主張の如きは、刑訴法三八〇条にいわゆる「法令の適用の誤」のそれには該当しても、前記同法三三五条二項の主張には当らない。また本件における名古屋市警察の警備計画、これに基づいて行われた警察の行動は、正当な集団行動に対する弾圧であるから違法であるとの主張が、右主張に当らないことはいうまでもない(なお刑訴法三三五条二項の主張に対する判断遺脱は、刑訴法三七八条四号の理由不備ではなくて、同法三七九条の訴訟手続の法令違反に該当すると解すべきである)論旨は理由がない。

6  第一点、三、「デモ隊の行動と警察官の行動」について

(一)  所論一、二、三は要するに、原判決は、第一章、第二節、第二において、最初に出動した山口中隊は三列縦隊で岩井通りを西進し、「裏門前町交差点附近で道路一杯に群って喚声を上げていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら前記空地附近に達した」と認定している。これによれば、山口中隊が現場に出動したときには、既にデモ隊は分散してしまっていたものか、又は山口中隊の「制圧」により分散させられたのか分明でない。右の山口中隊が突切り制圧した「暴徒及び群衆」という表現が、既にデモ隊が分散してしまった後の状況を指すものとすれば、原判決は、そのいわゆる各論部分たる第一章、第四節「各被告人の行動」において、多くの被告人につき「第二節、第一認定のとおり、デモ隊列中より警察放送車に火焔瓶を投げつけ発火させる等の暴行が行われるのを認識しながら、これを共にする意思をもって、引続きデモ隊に加わって同第一、第二認定のとおり、警官隊の実力行使によって分散させられるまで行進を続け」と認定しながら、そのいわゆる総論部分たる第一章、第二節、第一、第二において警官隊の実力行使によるデモ隊の分散を認定していないのだから、総論と各論で明らかにくいちがう認定をしていることになる。右の「暴徒及び群衆」という表現が、デモ隊とこれを取り巻く群衆を指し、このデモ隊が山口中隊の「制圧」によって分散させられたものとするならば、それは次に述べるような理由によって、第二節、第一の認定と両立しない。すなわち右認定によれば、本件騒擾の始期とする放送車発火の後も「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としては、なお進行を続け」たことを認定し、この時点では、デモ隊は、まだ分散させられていないとしていることが明らかである。原判決は、これに引き続いて、清水栄が放送車から下車し、警護員等と、これを裏門前町交差点東北角に退避させた後、岩井通り車道の北側を一〇〇米余西に向い、同通り四丁目八番地先空地附近まで来ると、「その附近では既にデモ隊列が崩れていた」事実を認定している。「その附近では」というのだから、他の部分では、まだデモの隊列が崩れていなかったことになる。そして右認定によれば放送車に最初に火焔瓶等が投げられたのは午後一〇時五分ないし一〇分頃で、清水栄が放送車を裏門前町交差点東北角に退避させた後岩井通り四丁目八番地先空地附近まで来て、そこで投石されて拳銃を発射したのは午後一〇時一五分頃であるから、放送車発火の時点から五分ないし一〇分経過していることになる。ところで原判決第二節、第二によれば、警官隊の先鋒である山口中隊は、裏門前町通りに至るまではデモ隊あるいはデモ隊員と接触しておらず、山口中隊が裏門前町通りに達したのは清水栄の拳銃発射より後であるから、デモ隊の先頭は放送車発火後、発火地点である岩井通り四丁目四番地阪野方附近から約二〇米東進し、裏門前町通りにさしかかると、そこで停止してしまい、以後少なくとも五分以上静止し、理由もなく山口中隊の攻撃を待っていたということにならざるを得ないのであるが、このようなことは、とうてい考えられない。結局いずれにしても原判決はデモ隊の分散及び清水栄、山口中隊の行動の認定につき、理由不備あるいは理由のくいちがいの違法を犯している。

以上のとおり主張するものである。

しかしながら、後記控訴趣意(総論)第五点、三、第四の論旨に対する判断において説示しているとおり、デモ隊は、その先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたために、隊列がまず先頭部分の放送車附近で崩れたものの、なお全体としては、特にその最先端部分及び放送車附近より後方の部分は進行を続けたが、間もなく放送車附近の混乱は前方及び後方に漸次波及して行った。清水栄が前記空地北側車道に到り、拳銃を発射した頃には、隊列の崩れは警察放送車の発火した前記阪野豊吉方前附近から右地点にまで及んでいたものの、デモ隊はなお全体としては完全に崩壊するまでには至っておらず、原判決第一章第二節第二判示の如くその頃山口中隊が裏門前町通交差点に達し、附近で道路一杯に群って喚声を上げていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら前記空地附近に到り、さらに西進して大須交差点に達し、群衆を北、西、南へ後退させたことによって、デモ隊は完全に崩壊し、分散させられたのである。そこにいう「暴徒及び群衆」の「暴徒」とは、控訴趣意(総論)第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示した如く、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められるデモ隊員中の多数の者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群衆の一部であって、山口中隊が、右の如く、「裏門前町交差点附近で道路一杯に群って喚声を上げていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら前記空地附近に達した」ときは、デモ隊は、その一部は隊列を崩していたものの全体としては未だ分散するには至っていなかったのである。所論は、もしそうであるとすれば、デモ隊の先頭部分は、放送車発火後約二〇米東進した後、少なくとも五分間以上静止し、漫然と山口中隊の突撃を待っていたことになるというが、前記の如く、デモ隊は放送車発火後、まず右放送車附近で隊列が崩れ、間もなく右混乱は前方及び後方に漸次波及して行ったのであって、山口中隊が裏門前町交差点附近に馳けつけたときは、デモ隊の先頭部分は既に隊列を崩して混乱状態に陥っており、前進を続ける態勢ではなかったのである。従って原判決に所論の如き理由不備もしくは理由のくいちがいの点は認められない。

(二)  所論四は要するに、原判決は第一章、第二節、第一において、放送車発火に引き続き乗用車二台に対する火焔瓶投擲等の暴行脅迫を認定した所の最後の部分で「このようにして空地前附近より警察放送車に至るまでの道路上には、暴徒が投擲した火焔瓶による焔が諸所に燃え上って火の海のようになり、暴徒の中には、『ざまを見ろ』『やっつけろ』『やった、やった』などと叫ぶ者があって、附近一帯は騒然となった」と認定している。右認定によれば、前記空地前附近から警察放送車に至るまでの道路上には、人はいなかったものと考えざるを得ない。けだし「火の海」の中に人はいられないからである。原判決は、ここまでのところでは、放送車発火後もデモ隊は全体としては行進を続け、一部の者が乗用車二台に対し火焔瓶を投げたり叩いたりした事実を認定しているに過ぎない。そうすると空地前附近から警察放送車に至るまでのデモ隊員は、いつの間にか雲散霧消してしまったことになる。デモ隊は行進することを本来の目的とするものであるから、空地前附近のデモ隊が何らかの理由で分散したとしても、その後から行進して来たデモ隊は、どうなったのであろうか。空地前附近から警察放送車(前記阪野方前)までの巾二一・七三米、長さ五〇米(面積一千平方米以上)の路上が火焔瓶の焔で「火の海」のようになったというのであるが、一体これらの火焔瓶は、どこにいた何者によって投げられたのか。それよりも、原判決の認定によれば、この時点では岩井通り路上には当初放送車に乗っていた清水栄以下の警察官が放送車の附近にいただけなのに、何の目的で何に向って火焔瓶が投げられたというのだろうか。次に火焔瓶の個数を考えて見ると、原判決の認定によれば、デモ隊の所持した火焔瓶の個数は合計九〇個である(第一章、第一節、第四款、第三の一)。このうち、乗用車発火後、岩井通り路上が「火の海」になったと原判決が認定している時点の他の時点で投げられた火焔瓶の個数は、原判決第一章、第二節、第一ないし第八の認定によれば、その説示には「数個」とか「盛んに投擲」とか、あいまいな表現が多く、総計で幾個の火焔瓶が投げられたか算出不能であるけれども、そのうち個数の明示されているものの合計だけでも三二個に達し、これに個数が明示されていない場面での投擲、特に負傷者一二名、衣服損傷二一名を出した山口中隊に対し投げられた個数(第二節、第二)浅井、山田(喜)の二つの中隊が生命身体の危険を感じたという裏門前町交差点附近で、右両中隊に対し投げられた個数を考慮に入れれば(第二節、第七)これだけで軽く九〇個は超えそうである。しかも使用されずに球場外で現状のまま押収された火焔瓶が二九個あるのでこれがデモ隊の所持していたという約九〇個の火焔瓶から差引かれねばならない。そうすると、乗用車発火直後の時点で、原判決が岩井通り路上が「暴徒が投擲した火焔瓶による焔が諸所に燃え上って火の海のようになり」と認定した頃に、デモ隊の所持していた火焔瓶は一本もあり得ないということになる。このことは、以後の状況についての原判決の認定が誤っていることを示すと同時に、この時点で一千平方米以上の面積の路上が「火の海」になるなどということは、決してあり得ぬことを明らかにしており、この点においても原判決には理由のくいちがいの違法がある。以上のとおり主張するものである。

しかしながら原判決第一章、第二節、第一認定のとおり、岩井通り南側車道を東進していたデモ隊は、まず、その先頭部分が岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前車道を徐行中の警察放送車に、電車軌道を北に越えて接近して石及び火焔瓶を投げつけ、次いで右放送車附近の岩井通り道路上の諸所に多数の火焔瓶が投げつけられ、右放送車内及び道路上で火焔瓶が発火炎上すると、右放送車附近からデモ隊の隊列は崩れ始めて、それは漸次デモ隊の最先頭部分及び右放送車附近より後方部分へも波及して行った。放送車発火後間もなく、デモ隊中の一部の者は、岩井通り四丁目八番地空地北側車道上に駐車してあった二台の乗用車にも火焔瓶、石を投げつけ、その附近でもデモ隊列は崩れ、デモ隊員は、岩井通り南側、北側各歩道、前記空地及びその東側路地、あるいは裏門前町交差点附近に退避し、あるいは群がり、その間原判示の如く、「空地前附近より警察放送車に至るまでの道路上には、暴徒が投擲した火焔瓶による焔が諸所に燃上って火の海のように」なっていたのである。「火の海のように」なったとの表現が必ずしも誇張でないことは原判決の挙示する関連各証拠、特に現場写真綴の写真3によっても明らかであるが、右写真からも窺い知ることができるように、「火の海」といっても所論の如く、前記空地前附近から前記阪野方前までの巾二一・七三米、長さ五〇米、面積一千平方米以上の岩井通り車道が絨緞のように火焔によって隙間なく埋められたわけではなく、前記原判示のとおり火焔瓶炎上の最も熾烈なのは前記警察放送車及び乗用車の附近であって、その他の車道部分では人が通行したり、群がったりする余地がなかったわけではない。まして右車道の南北両側の歩道上及び前記空地、その東側の路地等、退避する場所に事欠くことはなく、デモ隊列が崩れて、デモ隊員の一部は右各箇所に分散し群がっていたのであって、空地前附近から警察放送車に至るまでのデモ隊員は決して雲散霧消したわけではないのである。そして右車道上に火焔瓶を投げつけて「火の海」にしたのは、原判決第一章、第二節、第一に挙示されている被告人伊藤弘訓、同岩月清、同多田重則、元被告人片山博、被告人李圭元、同金寿顕、同林学、同李聖一、同林元圭、同梁一錫等デモ隊員中の暴徒であって、原判決第一章、第四節の認定によれば、同被告人らは、大須球場内でデモ隊に加わる際、右デモ隊が球場外で警備のため出動している警官隊と衝突して火焔瓶を投げつける等の暴行をすることを予測していたものであり、岩井通りに出ると、デモ隊中の他の暴徒によって警察放送車もしくは乗用車に火焔瓶が投げつけられ発火するのを認識しながら「これと共にする意思をもって」自らも右放送車もしくは乗用車めがけて火焔瓶を投げつけたものである。また原判決が、第一章、第一節、第四款、第三の一において、デモ隊は大須球場に持ち込んだ火焔瓶約九〇個を持って、岩井通りを行進した旨認定していることは所論のとおりであるけれども、後記の控訴趣意(総論)第五点二の三、四の論旨に対する判断において説示しているとおり球場内に持ち込まれた約九〇個の火焔瓶というのは、原判決が証拠上、特定して認められるとしたものに過ぎず、むしろ実際にはそれ以上の数の火焔瓶が球場内に持ち込まれ、デモ隊によって所持されていたことは、本件直後大須球場内において四個、同球場外の岩井通り及びその周辺において合計二九個の未使用の火焔瓶が発見押収されていること、並びに岩井通り路上に約八六個の火焔瓶破裂の痕跡が存することから容易に推測されるところであって、原判決は右九〇個以外に火焔瓶が球場内に持ち込まれ、あるいはデモ隊によって所持されたものがないと認定しているわけではない。このことは原判決第一章、第一節、第二款第三、第五、第六、第七で認定された各種の会合における協議や指令において、相当多数の火焔瓶が七・七歓迎大会参加者によって球場へ持ち込まれることが予定されていたことが認定されていることによっても明らかである。従って原判決には所論の如き理由のくいちがいは存せず、結局論旨は採用できない。

7  第一点、四、「公共の静謐阻害」について

所論は要するに

(一)  原判決は本件における「静謐阻害」につき、その第一章、第二節、第十において「本件現場にいた者の中には、まるで戦争と同じように思ったとか、市街戦のようであったとか、野戦以上に怖く感じたとか、あたかも革命前夜のように感じたとか、内乱ではないかと感じた者があったこと、附近の住民の中には、(1)火事になることを恐れてバケツ、洗面器等に水を入れて消火の用意をした者が多数あり、七つ寺協和会の人達は消防ポンプを用意し、(2)荷物をまとめて逃げる用意をした者があり、(3)子供が怪我するのを恐れて、騒ぎの間布団をかぶせていた母親や奥の間で慄えていた者があり、(4)翌日午前三時頃まで、又は翌朝まで眠れなかった者があった」と認定し、更に同節第十一において「以上の次第で、本件は多衆集合して暴行脅迫をなした結果、初めに火焔瓶が投擲された午後十時五分ないし十分頃より、警官隊の前記警備活動と各部隊が騒擾罪を適用する旨警備本部より通達を受けてデモに参加した者全員の検挙に乗り出したため、諸所に集合していた暴徒が漸く解散して、騒ぎがほぼ静まりかけた同十一時三十分頃までの間、西は伏見通より東は上前津交差点に至る約六百七十米の岩井通りと、その北約百米、南約二百米の一帯の地域にわたり、公共の静謐を害し、以て騒擾をしたものである」と認定している。

(二)  しかしながら(1)公共の静謐、平和というとき、それは国の最高法規たる憲法秩序に基づき、それに適合した社会の静謐、平和でなければならぬ。しかるに本件当時の日本全国あるいは、ここ愛知県の状況は、日米の単独講和条約によりアメリカ帝国主義の占領から半占領へ、文字どおりの政治的軍事的その他の従属状態から名目的独立へと進行しつつあるなかで、アメリカ帝国主義の反共封じ込めの世界政策と朝鮮民主々義人民共和国への前哨的侵略戦争下、その準備、補給、発進基地として、正に憲法はその機能をほとんど占領者に停止させられ、準戒厳令下のように国民の政治的権利、特に集会結社、言論出版等、表現の自由を初めとする基本的人権は無に等しいまで極度の侵害を被っていた。すなわち憲法秩序はアメリカ占領軍とこれに従属する召使に過ぎなかった日本政府の手によって破壊され疎外され、これに反する占領―半占領法規、マッカーサーと占領軍の指示、示唆、あるいは命令を基本とする違憲の法令体系がのさばっていたのである。原判決は、このような状況と、これに反対し真に憲法にそって平和を、全面講和を、中ソ両国との国交と貿易を、朝鮮での残虐な侵略戦争の停止と正義の要求に結集した大衆の行動について一顧もしていない。

(2) 本件において部隊を組み、拳銃を含む強力な武器を持ち、現にそれを使用して民衆に多くの死傷者を出したのは正に警察部隊であり、圧倒的な「静謐阻害者」は武装警官隊であった。大体、デモ集団の側から附近住民や民家への加害行為は全くないし、警官隊さえ出て来なければデモ行進は平穏に続けられたであろう。

(3) バケツ、洗面器等に水を入れて消火の用意をしたとか、消防ポンプを用意し荷物をまとめて逃げる用意をした等といっても、これまた同様であり、当日事前に警察がそのように準備するよう連絡していたという証拠もある。

(4) 原判決は、「静謐阻害」もしくは公共の平和を侵害するに足る危険性の有無を、被告人等を含む何千名の集団の全体としての意識、目的や性格、構成、特に具体的な、その時間と場所でどのように多数が反応し行動したか(圧倒的多数は放送車発火、警官隊の襲撃の時点で逃げ散ってしまっている)これら、いわば厳格に被告人等を含む大衆集団の行為面、行動面とかかわらせて判断していない。原判決は、個々の暴行脅迫を以て、直ちに集団全体の暴行脅迫とし、「暴行等を行なったその人数、態様並びにその際の諸般の状況、特に集団の大多数の者の動向、意識」につき何らの考察も判断もすることなく、これを認めた理由も記載することなく、漫然と「静謐阻害」を独断している。

(5) 原判決は「放送車発火」の時点を騒擾の始期としながら、この段階で「騒擾罪」を成立させる要件たる静謐阻害ないし公共の平和を害するに足る危険の有無を、前述の観点から何ら検討も判断もせず、理由も全然附していない。その後の全局面についてもまた然りである。

(6) 原判決の引用する「現場にいた者」の感想や附近住民の行動は前述のような問題を含む上、「ごく少数」、しかも断片的、部分的なものであり、被告人等を含むいわゆる「多衆の暴行脅迫」の結果ともいえないものである。

結局原判決には「静謐阻害」についても判断遺脱、ひいては理由不備の違法がある。以上のように主張するものである。

しかしながら

(1) 本件の生起した前年の昭和二六年四月一一日マッカーサー連合軍最高司令官は罷免されて間もなく帰国し、同年九月八日には講和条約が調印され、本件に先立つ昭和二七年四月二八日には右講和条約が発効し、連合軍総司令部は解消していた。本件当時は、なお占領政治の後遺症がある程度残存していたとはいえ、一般的には我が国は独立民主主義国家としての体制を確立しており、所論の如く憲法の機能がほとんど占領軍によって停止させられ、準戒厳令下のように国民の政治的権利、特に集会結社、言論出版等、表現の自由を初めとする基本的人権は無に等しいまで侵害されていたとか、憲法秩序はアメリカ占領軍とこれに従属する日本政府の手によって破壊疎外され、これに反する占領もしくは半占領法規、マッカーサーと占領軍の指示、示唆、あるいは命令を基本とする違憲の法令体系がのさばっていたという状況でなかったことは公知の事実であり、所論は極めて特異な見解であって妥当性を欠くものである。従っていかなる目的にせよ、これを実現する手段として、本件の如き集団暴行脅迫行為を正当化する如き状況は存在していなかった。

(2) 本件騒擾は、原判決が第一章、第一節、第二款において正当に認定している如く、日共市V、同軍事委員が中心となって計画準備したものであり、当初の計画によれば、中署、アメリカ村を火焔瓶で攻撃するはずであったが、原判決第一章、第一節、第三款認定の如く、右計画を探知した名古屋市警が本件当日厳重な警戒態勢を布いたため、これを察知した前記日共市Vのキャップであった被告人永田末男が原判決第一章、第一節、第四款、第二、一に認定の如く、急拠右計画を変更して、デモ隊は、その途中で警備の警察官による解散措置を受けた場合には火焔瓶を使用して抵抗することを予測しながら、敢てこれを上前津方面へ向わせる旨指令した結果、本件騒擾が発生したものである。すなわち名古屋市警において右の如き警備態勢を執っていなかったならば、本件騒擾は一層大規模なものに発展し、さらに甚大な被害を招来したであろうことが推定されるのであり、また本件騒擾の実態は原判決第一章、第二節認定のとおりであって、警官隊の行動に何ら違法不当の点は存しなかった。

(3) 附近住民が本件騒擾の発生を見聞して消火の用意をし、あるいは避難の準備をしたことも当然であって、その原因は被告人等を中心とする本件暴徒の騒擾行為にあり、警官隊の行動はその結果であって、原因ではない。

(4) 原判決が本件デモ参加者全員を本件騒擾の犯罪主体としてはおらず、原判決が実行々為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群衆の一部からなる集団を犯罪主体とするものであることはこれまで再三説示したところである。犯罪主体たる右集団の意識、目的、性格、構成、その本件に際しての具体的な反応、行動については、原判決は、第一章、第一節、第二款、第四款、第二節において詳細に判示しており騒擾罪の事実摘示として欠けるところはない。

(5) 本件騒擾の始期とされている「放送車発火」の時点における共同暴行脅迫が公共の平和を害するに足りる程度のものであって、この時点において騒擾罪を成立させるものであることは原判決第一章、第二節、第一の判示によって明らかであるのみならず、右共同暴行脅迫は、原判決によりその後の同節第二ないし第八に摘示された各局面と包括的に一個の騒擾を形成するものとして認定されていることは、先に控訴趣意(総論)第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示したとおりである。

(6) 原判決の引用する「現場にいた者」の感想や附近住民の行動については、その援用する関係証拠に対比して考察すると、所論の如く「ごく少数」あるいは単純に「断片的」「部分的」として閑却し得るものではなく、本件当夜の現場に居合わせた者あるいは附近住民の意識、動静の全般を窺知せしむるに足るものというべきである。もともと騒擾罪の成立には、そこでの共同暴行脅迫自体に公共の平和を害する危険性があれば足り、現実に公共の平和を害する結果を生じたことを必要としないのであるけれども、本件においては、原判決第一章、第二節、第十に判示する如く、現実に公共の平和を害する結果をも生じたものであって、これが被告人等を中心とする本件暴徒の所為によるものであることは原判示によって明らかである。

結局所論指摘の諸点は、すべて理由がなく、しかもこれらはいずれも、刑訴法三三五条二項の「法律上犯罪の成立を妨げる理由又は刑の加重減免の理由となる事実」の主張には当らないから、原判決がその点について直接に判断を示さなかったからといって判断遺脱にはならず、従って理由不備(正確には訴訟手続の法令違反)の違法も存しない。

〔Ⅱ〕 第二点「訴訟手続の法令違反」の論旨について

1~9≪省略≫

10  第二点、二、「公訴権の乱用および迅速裁判の要請違反」第二「公訴権の乱用」について(昭和四六年二月二七日付追加控訴趣意書((総論))によるもの)

所論は要するに、本件は検察、警察一体となっての官憲による謀略的、弾圧事件そのものであって、その結果、単にデモ行進をしたに過ぎない者まで騒擾の率先助勢罪で起訴されており、著るしい起訴基準の逸脱があるといわなくてはならない。従って本件各公訴の提起は、いわゆる公訴権の乱用であり、刑訴法に反するだけではなく、憲法一四条、三一条にも違反することとなり、そのような起訴に対しては、とうてい訴訟において起訴本来の法律上の効果を与え得ず、刑訴三三八条四号により公訴棄却さるべきである。この挙に出なかった原審の訴訟手続には法令の違反があり、その違反が判決に影響を及ぼすことが明らかである。以上のとおり主張するものである。

しかしながら本件が警察、検察一体となっての謀略的、弾圧事件でないことは、後出の控訴趣意(総論)第五点に対する判断、特に第五点、三、第六の論旨に対するそれにおいて説示しているとおりである。また記録を調べても、単にデモ行進をしたことのみの嫌疑により騒擾の率先助勢罪で起訴された者もなく、本件起訴が起訴基準を逸脱したものとは認められないので、所論はその前提を欠き、論旨は理由がない。

11  第二点、二、第三「迅速裁判の要請違反」について(昭和四六年二月二七日付追加控訴趣意書((総論))によるもの)

所論は要するに、原審は本件審理に約一七年間を要しており、この甚しい長期裁判、訴訟の著しい遅延は憲法三七条一項、刑訴法一条に違反している。本件訴訟の遅延が、右憲法の条項に違反して、被告人の「迅速な裁判を受ける権利」を侵害したか否かを判断するには、事件の性格、遅延の原因、審理の経過、訴訟遅延により被告人等の被った不利益の程度等を総合勘案した上、デュー・プロセスの理念に基づいてなさねばならないが、本件の訴訟遅延により被告人、あるいはその家族の被った甚しい不利益、苦しみ、本件の訴訟遅延の主な原因が検察官の乱起訴を初めとして、検察官、裁判所の側に存し、被告人の側には存しないこと、何よりも一七年間の時の流れ、その他一切の事情からすると、本件訴訟は不当に遅延したものであって、すでに被告人等の「迅速な裁判を受ける権利」を著しく侵害したものといわざるを得ない。憲法三七条一項の規定は、いわゆるプログラム規定ではなく、刑事被告人の具体的権利を保障した強行規定であって、その権利侵害に対しては訴訟法上の救済が与えられるべきであり、刑訴法三三八条四号によって公訴棄却の判決がなされるべきである。以上のとおり主張するものである。

ところで憲法三七条一項の保障する迅速な裁判を受ける権利は、憲法の保障する基本的な人権の一つであり、右条項は、単に迅速な裁判を一般的に保障するために必要な立法上および司法行政上の措置をとるべきことを要請するにとどまらず、さらに個個の刑事事件について、現実に右の保障に明らかに反し、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判を受ける被告人の権利が侵害せられたと認められる異常な事態が生じた場合には、これに対処すべき具体的規定がなくても、もはや当該被告人に対する手続の続行を許さず、その審理を打切るという非常救済手段がとられるべきことをも認めている趣旨の規定である。そして具体的刑事事件における審理の遅延が右の保障条項に反する事態に至っているか否かは、遅延の期間のみによって一律に判断されるべきではなく、遅延の原因と理由などを勘案して、その遅延がやむを得ないものと認められないかどうか、これにより右の保障条項が守ろうとしている諸利益がどの程度実際に害せられているかなど諸般の情況を総合的に判断して決せられなければならないのであって、たとえば、事件が複雑なために、結果として審理に長年月を要した場合などはこれに該当しないこともちろんであり、さらに被告人の逃亡、出廷拒否又は審理引延しなど遅延の主たる原因が被告人側にあった場合には、被告人が迅速な裁判を受ける権利を自ら放棄したものと認めるべきであって、たといその審理に長年月を要したとしても、迅速な裁判を受ける被告人の権利が侵害されたということはできない(昭和四七年一二月二〇日、最高裁大法廷判決、集二六巻一〇号六三一頁参照)。

そこでこれを本件の原審審理経過について記録を調べて検討すると、本件は昭和二七年九月一六日、第一回公判が開かれて以来七九三回の公判と、一〇五回の公判期日外の証拠調、六二回の準備手続を経て昭和四四年五月二八日の第七九三回公判において審理を終り、大部分の被告人については同年一一月一一日の第七九五回公判において判決宣告がなされたが、その間約一七年の歳月を要した。本件の審理裁判がこのように長期化した原因の第一は本件騒擾の規模の大きさから来る事案の複雑困難、被告人の多数、証拠の厖大等が挙げられるが、その他の理由としては、主として、被告人等の、特にその五回にわたる理由なき裁判官忌避申立に端的に現われた執拗で過激な、いわゆる法廷闘争による審理の妨害、引き延しに帰せられるのである。右諸事情を総合考察すると、本件の審理裁判に原審が一七年の長年月を費したのも、まことにやむを得ないことであったというべく、その間被告人等の身分の不安定等、その被った不利益を考慮に容れても、憲法三七条一項が保障する被告人等の迅速な裁判を受ける権利が侵害されたものとは認められず、また刑訴法一条の定める目的に反しているとも考えられないから、論旨は採用できない。

〔Ⅲ〕 第三点、「審判の請求を受けない事件に判決をした誤り」の論旨について≪省略≫

〔Ⅳ〕 第四点「法令の適用の誤」の論旨について

1  第四点、一、「騒擾罪違憲論とその適用違憲論」について

所論は要するに、騒擾罪の規定は、沿革的に見て、大衆運動それ自体を犯罪視するいわゆる暴民思想の下に、大衆運動、集団行動を弾圧する目的で生れ、従来の判例の動向も、時の権力者の意図に忠実に、全体として政治的弾圧の機能を発揮し、大衆行動、示威運動といった人民の権利に対する真向からの敵対物として、これを徹底的に抑圧して来たが、同時に、それは、一部の者の行動によって、全体としての集団、さらにこれと何らのかかわりを持たない者を含めて、大量の人民を捕獲する大網の機能を果すものであった、そして騒擾罪のこの機能に対応して、その構成要件もあいまいで不明確であり、刑罰権の適正な運用を保障し、暴民思想の跋扈に対する歯止めの役割を果すのに見るべきものがなく、憲法の保障する基本的人権たる集会、結社、表現の自由や、勤労者の団結権、団体行動権は、それらの権利に保障されて集合した集団の一部に、多少のトラブルが発生したとき、何が何でも逃げ散らなければ、参加者全員が騒擾罪の網をかぶせられ、処罰される結果を招くことにより、真向から破壊侵害されることになる、結局騒擾罪は、憲法の全精神と基本的原則、特にその二一条、二八条、三一条に違反し、無効の法規であり、これを適用した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の適用の誤がある、というのである。

しかしながら刑法一〇六条の騒擾罪の規定が、いわゆる暴民思想の具現として時の権力者の意図に従って大衆運動を弾圧するために運用されて来たものではないことは、大審院及び最高裁判所、特に後者が従来示した判例中の事案に徴し明白であり、また同罪の構成要件も文義上明確であり、厳格に規定されていて(最高裁、昭和三五年一二月八日判決、集一四巻、一三号、一八二四頁参照)、集団の一部の者の暴行脅迫の行為のため、これと無関係な、あるいは積極的にこれを支持する態度を執らぬ他の参加者まで、その刑事責任を問われるが如き恣意的な解釈運用を許すものではない。

所論は特異の見解であって、その違憲の主張は前提を欠き採用できない。

2  第四点、二、「憲法に違反して法令を適用した誤」、(一)「基本原則の再確認」について

所論は要するに、騒擾罪の規定は、その沿革において、「多衆」の形成そのものを犯罪視し、これを禁圧しようという意図に発し、現実的機能においても、明治政府以来官憲による人民弾圧の背骨となって来た、飜って新憲法は、表現の自由、その一内容としての集会、デモ行進等大衆運動の権利を不可欠の基本権として保証した、しかもマスメディヤの驚異的発展が特徴である現代社会において、大衆行動の権利は、それを欠いては多数の基本的人権も無に等しい中核的権利とされている、従って大衆の集合とその行動を直接規制の対象とする騒擾罪は厳格な構成要件的検討を必要とし、それが国家制度の中核的権利を規制の対象とする規範であるだけに、その構成要件があいまいであることは、規範そのものの存立が憲法的に否定さるべき根拠となる、新憲法下の新しい時代は、戦前から無反省に放置されている騒擾罪の規定の本質的否定か、峻烈なる「厳格解釈」もしくは「制限適用」を要請している、原判決は、この点において、まず明白な誤を犯している、というのである。

しかしながら騒擾罪の規定が従来大衆運動弾圧の機能を果して来たものでなく、また同罪の構成要件も文義上明確で厳格に規定されていることは、前記控訴趣意(総論)第四点、一の論旨に対する判断において説示したとおりであって、論旨は理由がない。

3  第四点、二の二「解釈適用における原審判断の誤謬」1「デモ行進集団の誤った理解とデモ参加者の『暴行脅迫意思』の創作(憲法二一条、二八条に違反した誤)」について

所論は要するに、原判決は、第一章、第一節、第四款、第二、二において、本件デモに参加したデモ隊員の意識に関して、

「右デモに参加した者のうち

(1)  被告人姜泰俊、同南相萬、同岩田弘等少くとも二十名位は、デモは上前津方面に向うが、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げる、との認識の下にデモ隊に参加し、

(2)  名電報局員、民青団員、東三河及び西三河各地区祖防委より参集した者の各一部等少くとも三十余名は、途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶もしくは石等を投げる目的でデモ隊に参加し、

(3)  日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者はその認識はないが、いずれもその行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した者が多数あり、

(4)  右(3)と同様の抗議のため上前津もしくは金山橋その他へ行進して解散すると予想して参加した者もあった」

と判示している、原判決は、右判示(1)のグループの約二〇名、(2)のグループの三〇余名合計五〇余名の少数者の条件付、不確定的、仮定的認識、予測ないし目的(全く実現されざる)なるものを、「警官隊との衝突の予想」を媒体ならざる媒体として、三千名を越す(原判決の認定によっても千名ないし千五百名)、平和と独立を要求し、単独講和に反対し全面講和を求め、朝鮮戦争反対、社会主義国との交流、特に日中貿易の再開とこれに対する弾圧抗議を叫ぶ全体のデモ集団に(前記五〇余名の者についても、一応原判決の前記認定を前提としても、なお確定的、本質的、継続的に存在したのは、他の参加者と同様、平和と独立への強烈な志向、全面講和、朝鮮戦争反対、日中貿易再開、広小路弾圧抗議の要求と表現の意思であった)一挙に覆いかぶせ、また原判決が第一章、第二節(騒擾)において認定している具体的な暴行脅迫の行為に出た者は全体を通じて僅か三六名に過ぎないのに、これらの者の所為を全体としてのデモ集団参加者を覆うものとして、右参加者全体を暴徒に仕立て、「表現の自由」、「デモ行進」等、勤労人民の集団的、大衆的権利についての憲法的考察、配慮、理解を全く示さず、全く安易、無反省に騒擾罪を適用した点で憲法二一条、二八条に違反している、というのである。

しかしながら原判決は前記引用の第一章、第一節、第一款、第二、二における判示のとおり、共同暴行脅迫の共同意思を有した者を、右にいわゆる(1)、(2)のグループの合計五〇余名に限定しているわけでなく、その他に(3)のグループに属する多数の者もこれに加えているのである。さらに原判決は、控訴趣意(総論)第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示したとおり、デモ隊参加の全員を本件騒擾の実行行為に参加した加担者、いわゆる暴徒と認定しているのではなく、原判決が騒擾加担者として有罪と認めた原審各被告人を中心とした、本件騒擾の指揮者、率先助勢者もしくは附和随行者と認められる多数のデモ参加者及びこれに呼応した岩井通り上にあった群衆の一部から成る暴徒集団を本件騒擾の実行行為者と認定しているに過ぎない。

そして所論の如く前記(1)、(2)のグループの五〇余名の意識あるいは前記三六名の暴行脅迫の実行行為者の行動を、デモ隊員全体に帰属せしめているわけでもない。

所論は原判決を誤解もしくは曲解し、その前提を欠くものである。さらにまた、たといデモの目的が全面講和、日中貿易再開を主張し、朝鮮戦争に反対し、これに対する弾圧に抗議することであっても、その目的の故に、騒擾の行為が是認されるものではなく、憲法二一条、二八条は、かかる行為を権利として保障してはいない。

結局論旨は理由がなく採用できない。

4  第四点、二の二、2、「静謐阻害の認定についての誤り(憲法二一条、二八条違反)」について

所論は要するに、「公共」の静謐とか平和という場合、それは必ず憲法により守られ、憲法に適合し、それにかなったもの、すなわち「憲法的秩序」でなければならない、しかし本件当時の日本の実情は、それに遠く、また鋭く背反したものであって、被告人らをふくめ、本件の大衆的示威行進は、正にそのような状況とその下手人に抗議し、憲法的秩序、体制を回復すべく、その一歩として行われたものであり、またそれ自体「表現の自由」「団体行動、集団行動の権利」の行使として展開された、一方警察権力は、本件において無辜の朝鮮青年をはじめとして人民殺傷の暴虐を尽した、正に、この対比と観点において「公共の静謐阻害」とは何か、「誰が誰のどのような静謐を害したのか」、十分な検討を要するのに、これをしなかった原判決の法令解釈適用は違憲である、というのである。

しかしながら右論旨は、前出の控訴趣意(総論)第一点、四、(公共の静謐阻害)、(二)、(1)、(2)のそれと同趣旨に帰着するので、これについて先に説示したところを、ここに援用する。結局論旨は理由がない。

5  第四点、二の二、3、「構成要件を厳格に限定せぬまま法規を適用した誤(憲法三一条の違反)」について

所論は要するに、騒擾罪の構成要件たる「多衆」「聚合」さらに「地方の静謐を害するおそれ」「暴行脅迫の共同意思」といってもその具体的内容は捉えがたく循環論法に陥っており、無限定、無内容であるから、少くとも法規としてこれを適用する以上、これを適用に堪えるように限定することは憲法三一条の当然の要請である。しかるに事実についても、これに適用した刑法一〇六条騒擾罪の構成要件についても、何ら特定、限定しなかった原判決は憲法三一条に違反して重大な法令適用の誤を犯している、というのである。

しかしながら刑法一〇六条騒擾罪の構成要件が文義上明確であり、厳格に規定されていることは、先に控訴趣意(総論)第四点、一、の論旨に対する判断において説示したとおりであって、本論旨も理由がなく採用できない。

6  第四点、三、「騒擾罪の解釈適用の誤」、第一、「騒擾罪の違憲性」について

所論は要するに、第一に刑法一〇六条、騒擾罪の規定は抽象的に過ぎ罪刑法定主義に反し、憲法三一条の法定手続の保障を破るものであり、第二にそれは、本来国民の大衆行動に対する敵視に根差すもので、憲法二一条の保障する集会、表現の自由、同二八条の保障する団結権、団体行動権を侵害せずにおかない構造を持っており、違憲無効であって、これを適用して被告人らに有罪を宣告した原判決は当然破棄されるべきである、というのである。

しかしながら刑法一〇六条の騒擾罪の規定が、憲法三一条、二一条、二八条に違反しないものであることは、先に控訴趣意(総論)第四点、一の論旨に対する判断において説示したとおりであって、所論は理由がなく採用できない。

7  第四点、三、第二「騒擾罪の特別構成要件としての『共同暴行脅迫意思』」、第三「原判決の『共同意思』認定についての騒擾罪の解釈適用の誤」について

一、所論第二、第三の一、二の(一)(二)は要するに、騒擾罪が成立するためには、多衆が集合して暴行又は脅迫をすることを要すると共に、この暴行又は脅迫が集合した多衆の「共同意思」に出たものであることを要するとするのは、今日確立された判例であるが、原判決が第一章、第一節、第四款、第二の二に認定したデモ参加者の意識についての(1)、(2)、(3)、(4)の四つのグループを総合すると、本件デモ隊は全体としては日中貿易の妨害及び警察処置に対する抗議という全く正当な目的で憲法二一条の保障する表現の自由行使の一形態、そのうちでも国民大衆にとって最も重要なデモ行進をしようとした大衆的な集団であったことが明らかであり、右(1)(2)のグループの存在も、また火焔瓶、木や竹の棒等の所持も、このデモ隊全体としての目的と性格に影響を与えるものではない。右(3)のグループについての認定においては、「警官隊と衝突する事を予想」という単なる予想についての認定はあるが、これを認容したかどうかについての認定は全くない。つまり原判決の認定によれば「多衆の合同力をたのんで自ら暴行又は脅迫をなす意思ないしは多衆をしてこれをなさしめる意思」を有する者はあったかも知れないが((1)(2)のグループがそれに当るとしても、あわせて僅か五〇余名)、「かかる暴行脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思」を有する者は存在しなかったことにならざるを得ない。結局原判決のデモ参加者の意識についての認定によれば、デモが組まれた時点での「共同意思」を認定するによしなく、仮に認定したとすれば、それは騒擾罪の解釈適用を誤ったものであることが明らかである。

以上のとおり主張する。

しかしながら右論旨は、控訴趣意(総論)第一点、一、第三の一、二、三の各論旨と同趣旨に帰するのであって、これが理由がないことは、先に右論旨に対する判断において説示したとおりである。

二、所論第三の二の(三)は要するに、原判決は、第一章、第一節、第二款において「被告人等の計画、準備」につき認定しているが、仮にこのような計画、準備が存在したとしても、それはあくまで現実に行動した集団の「共同意思」の存在を推認するための一つの間接事実であり得るに過ぎない。原判決が右計画、準備に関連して氏名を挙げているのは被告人六八名、被告人以外の者三二名合計一〇〇名であり、このうちデモに参加したと認定されている者は四〇名のみである。そうだとすれば、これらの者が右計画、準備に従って、自ら暴行又は脅迫をする意思あるいは多衆をして暴行又は脅迫をさせようとする意思を持っていたとしても、少なくとも多衆がこれを認識し、これを認容して、これに加担する意思を有したことを証拠によって証明しなければ、集団に「共同意思」ありと認定することはできないが、そのようなことが不可能であることはデモ参加者の意識についての原判決の認定の示すとおりである。次に原判決が認定した右計画、準備の内容を要約すれば、デモは球場から岩井通りに出て東進し、大須交差点で左折北上し、本隊は中署を攻撃し、朝鮮人はそのまま北上してアメリカ村を攻撃するというにある(第一章、第一節、第二款、第六の「隊長会議」、第八の三の「辛島パチンコ店での会議」)。

ところが原判決が認定するように、デモ隊は中署、アメリカ村の方へは足を向けようともせず、大須交差点を直進し上前津へ向っている(第一章、第一節、第四款、第三の一)。

このことだけからしても、原判決の認定するいわゆる計画、準備は、デモ隊の「共同暴行脅迫意思」認定のための間接事実としても用い得ないことが明らかである。以上のとおり主張する。

しかしながら、原判決が第一章、第一節、第二款に認定した「計画、準備」に参画した者、もしくはそれらの者から指令を受けた者のうちで、本件デモに参加した者が、原判決第一章、第一節、第四款、第二の二にいわゆる(1)、(2)のグループを形成する者として、「自ら暴行又は脅迫をする意思あるいは多衆をして暴行又は脅迫をさせようとする意思」を持っていたことは所論も認めているとおりである。そして右計画、準備に従って、原判決が第一章、第一節、第四款、第一の二、三に認定している如く七・七歓迎大会が始まり、それが終了する頃までの間に大須球場内で、「会場の同志諸君」と題し、「中日貿易をやらせないのはアメ公と吉田だ、敵は警察の暴力だ、中署へ行け!! 敵の正体はアメ公だ、アメリカ村へ行け、武器は石ころだ!! 憎しみをこめて敵に力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街へ散れ」とのビラが帆足計の演説中並びに後記の渡辺修、被告人岩田弘等のアジ演説中に多数散布され、帆足計の演説終了後、名大生渡辺修、被告人岩田弘は警察への抗議のデモを煽動するアジ演説を行ない、これに応じて場内の各所から「そうだ、そうだ」「やれやれ」「警官をやっちまえ」「デモを組め」「中署へ行け」「アメリカ村へ行け」等の叫びが起って、場内が俄かに興奮状態になったところで、名大生、民青団の一団、名電報局員、西三地区、東三地区の祖防委達を中心としてデモが組まれ、場内を二、三周して、一、〇〇〇名ないし一、五〇〇名の集団となって球場外へ出て行ったものである。このような働きかけに応じて右デモに加わった者のうちの多数は、原判決のいわゆる(3)のグループとして、「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)、ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)、ある者はその認識はないが、いずれもその行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した」のであって、「多衆の合同力をたのんでする暴行脅迫に同意を表し、その合同力に加わる」共同意思を有するに至ったのである。所論は右(3)のグループに、かかる共同意思はなかったと主張するが、これが理由がないことは前記控訴趣意(総論)第四点、三、第三の一、二の(一)、(二)、もしくは同第一点一、第三の一、二の各論旨に対する判断において説示したとおりである。

またデモ隊が当初の計画、準備と異なって中署及びアメリカ村を攻撃せず、大須交差点を直進して上前津方面に向い、その途中、裏門前町交差点手前でデモ隊中から警察放送車に火焔瓶等を投げつけたことに端を発して、本件騒擾が生起したことについては、それが右計画、準備の中心であった日共、市Vのキャップ被告人永田末男の指令変更によるものであり、デモ隊の行先変更及びそれに伴うデモ隊と警官隊の衝突が結局は前記「計画、準備」の所期の結果に外ならなかったことは、控訴趣意(総論)第一点、一の第四の論旨に対する判断において説示したとおりである。

三、所論第三の三は、要するに、原判決が第一章、第二節、第一の初めに認定している放送車発火の時点における「暴行脅迫」は小規模の部分的なものであって、このことは原判決が「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお行進を続け」と認定していることによっても裏付けられる。また原判決の認定によっても、デモ隊が日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議を目的とし、憲法第二一条の保障するデモ行進を行なおうとした大衆的な集団であったこと、放送車発火までのデモは、単なる無届の集団示威行進に過ぎなかったことが明らかにされている。デモ隊が放送車発火という一部の者の暴行脅迫に際し、全体としてなお行進を続けたということは、とりも直さずデモ行進という本来の正当な憲法上の権利の行使の行動を継続したということである。それはデモ隊の「団結意思」を物語るものであって、断じて「暴行脅迫意思」を物語るものではあり得ない、して見れば、原判決はデモ隊が全体として行進を続けたというそのこと自体を「共同暴行脅迫意思」の表明としているものと解する外はない。このような「共同意思」の認定の仕方は、前記昭和三五年一二月八日の最高裁判決の「共同意思」認定の基準を逸脱し、騒擾罪の構成要件を不当に緩めるものであり、騒擾罪の解釈適用を誤ったものである。以上のとおり主張する。

しかしながらデモ隊中の暴徒による警察放送車に対する攻撃は決して所論の如く小規模な部分的なものではなかった。原判決が第一章、第二節、第一に認定しているとおり、右攻撃によって、放送車には一七個の火焔瓶が屋根、及び車内に投げつけられて発火炎上し、そのため塔乗していた四名の警察官が、軽重の程度の差はあれ、火傷を負い、同時に附近にいたデモ隊員のうちには「わあわあ」と喚声を上げ、「馬鹿野郎」、「税金泥棒」等と叫び、小石やコンクリート破片を投げ、さらに右放送車附近の岩井通り道路上の諸所に多数の火焔瓶を投げつけ発火炎上させたものであって(その火焔瓶が多数に上ることは、右放送車の周辺だけで二四個の火焔瓶破裂の痕跡が存することからも推測される)、右共同暴行脅迫の態様は、それ自体公共の平和を害するに足る程度のものであり、かつそれは間もなく行われた岩井通り四丁目八番地空地前の乗用車への火焔瓶投擲と拡大し、さらに原判決第一章、第二節、第二ないし第八に認定された本件騒擾へと発展したのである。所論の援用する「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお行進を続け」との原判示部分は、所論の如く、放送車発火の時点における「暴行脅迫」が小規模な部分的なものであったことを裏付けるものでもなければ、またデモ隊が放送車の附近での一部の混乱にもかかわらず、全体としてなおデモ行進を続けた行動を「共同暴行脅迫意思」の表明と解したものでもない。それは控訴趣意(総論)第一点、一、第二の論旨に対する判断において説示したとおり、デモ隊は、警察放送車に対する火焔瓶投擲を契機として漸次隊伍を乱して行き、同時にデモ隊員中の多数は本件騒擾の犯罪主体たる暴徒集団を形成して行った一過程を認定したものに外ならないのである。所論は前記原判示を誤解した結果による誤った前提の下での立論であるといわなければならない。

四、所論第三の四は、原判決第一章、第二節、第一における二台の乗用車に対する火焔瓶等の投擲等の暴行も、原判決の認定するように「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお進行を続け、その一部」が行ったものであるから、右第三の三の論旨において述べたと同様、ここでもデモ隊全体の「共同意思」を認定したとすれば、それは騒擾罪の解釈適用を誤ったものである。ただ原判決は、この判示部分の終りで「このようにして空地前附近より警察放送車に至るまでの道路上には、暴徒が投擲した火焔瓶による焔が諸所に燃上って火の海のようになり、暴徒の中には『ざまを見ろ』、『やっつけろ』、『やった、やった』等と叫ぶものがあって、附近一帯は騒然となった」と認定している。これによると、空地附近から放送車に至るまでの路上には、隊列を組んだデモ隊員はいなかったように受け取られる(火の海の中には人はいられない)。これとデモ隊が「全体としてなお進行を続け」という認定とどういう関係になるのか分らないが、いずれにしても、デモ隊がデモ隊として行進を続けていたかぎり、このデモ隊の「共同意思」に関しては、前記第三の三の論旨において述べたことが、すべて当てはまる。ここでもまた、デモ隊に「共同暴行脅迫意思」を認めることはできず、あえて認めたものとすれば、原判決は騒擾罪の解釈適用を誤ったものである。以上のとおり主張する。

しかしながら右主張が理由がないことは、前記第三の三、及び控訴趣意(総論)第一点、三の四の各論旨に対する判断において説示したとおりである。

五、所論第三の五は、原判決の認定によっては、デモ隊が、いつ、どこで、どのようにして分散させられたのか全く明らかでない。

しかし既述の如く、デモ隊がデモ隊として存在していた間には、「共同暴行脅迫意思」を認めることはできず、そこに認められるのは、ただデモ行進をしようという「団結意思」だけであった。警官隊の実力行使によるデモ隊の分散は、同時にこの「団結意思」の破壊である。分散後のデモ隊員は、客観的にも一個の集団としての一体性を失ない、同時に主観的にも隊員を一つに結ぶ共通のきずなを失わせられた。残るのは、ここの空地、あそこの通りに身を寄せ合う、かつてのデモ隊員と群衆である。原判決は、放送車発火から騒ぎがほぼ静まりかけた頃まで、西は伏見通から東は上前津交差点まで約六七〇米、北約一〇〇米、南約二〇〇米の一帯の地域での「暴行脅迫」を、すべて一個の騒擾罪と認定しているのだから(第一章、第二節、第十一結語)、この間、同一の集団が存在していたとするものであることが明らかである。しかしデモ隊がデモ隊であったうちは、これに「共同暴行脅迫意思」を認めることができないことは前述のとおりである。そうすると分散後のデモ隊員あるいは群衆に騒擾集団としての「共同意思」を認めるためには、改めて集団を特定し、これらの集団が「多衆の合同力を恃んで自ら暴行又は脅迫をなす意思ないしは多衆をしてこれをなさしめる意思」を有する者と、「かかる暴行又は脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思」を有する者とで構成されていることを証拠によって認定しない限り、集団の「共同暴行脅迫意思」を認定することはできないはずであるが、原判決にはこのような認定は全くない。原判決は、乗用車発火後の各場面での「暴行脅迫」を認定するに当って、「暴徒及び群衆」という表現を度度用いている。「暴徒」とは「共同暴行脅迫意思」を分ち持った者をいい、「群衆」とは、そうでない者をいうとすれば、それは何によって判定するのか。原判決は、どうやら、かつてデモ隊員であった者を「暴徒」と呼び、そうでない者を「群集」と呼んでいるようだが、前述の如くデモ隊には「共同暴行脅迫意思」を認定することはできないのだから、かつてデモ隊員であったということだけで、これを「暴徒」と呼ぶことはできない。結局原判決の事実認定をもとにしても、分散後のデモ隊員及び群衆につき、「共同暴行脅迫意思」を認めることは不可能であり、原判決がこれを認めたとすれば、それは騒擾罪の解釈適用を誤ったものである。以上のとおり主張する。

しかしながら原判決が、本件騒擾の犯罪主体たる集団は、原判決が実行行為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通りにいた群衆の一部から成る一個の集団であって、本件騒擾は右集団の共同意思に基づいて行われたものであると認定していること、右認定は原判決の挙示する各証拠によって正当として是認さるべきこと、原判決は、決して本件デモ参加者全員を本件騒擾の実行行為に関与した加担者としてはおらず、従ってデモ隊すなわち本件騒擾の犯罪主体たる集団と認定しているものでないことは、控訴趣意(総論)第一点、一の第一の論旨に対する判断において説示したとおりであり、上来反復したところである。従って原判決のいう「暴徒」とは、右犯罪主体たる集団に属し、実行行為者として本件騒擾に加担した者であり、それ以外の、本件当時岩井通りにあって、本件に加担することなく、これを傍観していたに過ぎない者は、原判決のいう「群衆」である。右暴徒の有した「共同暴行脅迫意思」の具体的内容は、原判決が第一章、第四節「各被告人の行為」において判示しているとおりであり、右暴徒のうちデモ隊に参加した者の、事前の、もしくは未必の「共同暴行脅迫意思」については、第一節、第四款、第二の二「デモ隊員の意識」において、(1)、(2)、(3)の各グループに分けてさらに詳細に判示されている。所論のいわゆる「デモ行進をしようという団結意思」は、先に控訴趣意(総論)第一点、一の第三の論旨に対する判断において、特に右(3)のグループの意識について、「日中貿易の妨害及び警察の処置に対するデモを行なう」という目的は、「多衆の合同力を恃んで行われる暴行又は脅迫に同意を表わし、その合同力に加わる意思」と論理的に矛盾するものではなく、十分共存し得ると述べたように、「共同暴行脅迫意思」と必ずしも相排斥する関係に立つものではない。

所論は原判決の認定によっては、デモ隊が、いつ、どこで、どのようにして分散させられたのか全く明らかでない、というが、原判決第一章、第二節、第一判示の如く、デモ隊は、その先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたため、その附近から崩れ始め、やがてそれは前方及び後方に漸次波及して行ったがなおデモ隊全体としては辛うじて隊列を維持していたものの、やがて前同第二節第二判示の如く、山口中隊が春日神社から裏門前町通り交差点に達し、附近で道路一杯に群って喚声を上げていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら西進して大須交差点に達し、群衆を北、西、南へ後退させたことによって、デモ隊は完全に崩壊し、分散させられたものであることは、前記控訴趣意(総論)第一点、三の一、二、三の論旨に対する判断において説示したとおりである。そしてデモ隊が分散させられた後、所論にいわゆる「ここの空地、あそこの通りに身を寄せ合う」暴徒は、さらに原判決第一章、第二節、第二ないし第八に認定のとおり、相呼応して警官隊に対して共同暴行脅迫を加えたのであって、デモ隊の崩壊、分散過程は、とりも直さず、本件騒擾の犯罪主体たる暴徒集団の形成過程でもあったわけである。これを要するに、前にも述べたとおり、デモ隊と本件犯罪の主体たる集団とは組織構造的には別個の存在であり、デモ隊の崩壊、分散の前後を通じて、同一の暴徒集団が存続したのである。

以上のとおりであって、各論旨は、いずれも理由がなく、原判決には所論の如き騒擾罪の解釈適用の誤は存しない。

〔Ⅴ〕 第五点「事実誤認」の論旨について

1  第五点、一、「デモ隊の目的と性格」、第二「被告人等の計画、準備について」二、「デモの目的変更について」について

所論は要するに、原判決は、その第一章、第一節、第四款、第二、一において、「被告人永田末男は第二款第八の五認定の通り、同(1)乃至(5)の情報を入手して市警察の警備が厳重であると判断した結果、デモ隊が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警備のため出動している警官隊によって解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持しているデモ隊が火焔瓶を使用して抵抗することを予測しながら、午後九時過頃、中区蛭子町三十七番地小橋玄二方の地下指導部で、被告人芝野一三に対し、『今日のデモは上前津方面へ向わせる』旨指令し、被告人芝野一三は球場内に帰って三塁側スタンドの現地指導部で、被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等に右指令を伝え、同被告人等は協議の結果、中署、アメリカ村を攻撃するとの当初の計画を変更して、上前津方面へデモ行進し、その途中で警備の警察官による解散措置を受けた場合には、火焔瓶を使用して抵抗することに決し、被告人金泰杏はこれを被告人清水清、同姜泰俊、金億洙に、被告人清水清、金億洙は被告人山田順造、同岩間良雄、同南相萬に、被告人山田順造は同片山博に、同被告人へ同多田重則等に順次その旨を伝え、又島崎某、二十四、五才の学生風の某は被告人山田泰吉、同岩田弘に、更に同被告人等は被告人張哲洙及び名大生十名位に順次これを伝えたが、この指令は下部へ徹底しなかった」と認定しているけれども、原判決の挙示する関係証拠のすべてを精査しても、右認定の如き、「被告人永田が、デモ隊員が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警備のため出動している警官隊によって解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持しているデモ隊が火焔瓶を使用して抵抗することを予測したこと」、「被告人芝野が被告人永田から受けた『今日のデモは上前津方面へ向わせる』旨の指令を、球場内に帰って三塁側スタンドの現地指導部で、被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等に伝えたこと」、「被告人芝野から、被告人永田の前記指令を伝達された右被告人金泰杏等が協議の結果、『デモ隊が上前津方面へデモ行進する途中で警備の警察官による解散措置を受けた場合には火焔瓶を使用して抵抗すること』に決したこと」、「島崎某及び二十四、五才の学生風の某が被告人山田泰吉、同岩田弘に被告人金泰杏等の右決定を伝えたこと」、以上の各事実を認めるに足るものはない、原判決挙示の関係証拠の記載を、そのまま信用するとしても、右証拠によれば、むしろ、「被告人永田は、それまでの計画を変更して『普通のデモ』に切り替えるよう指示したこと」、「被告人金泰杏等の協議決定の内容は、第一に当日のデモを、武器を使用しない政治デモに切り替えること、第二にデモ隊の方から実力行動はせず、火焔瓶は警官隊に包囲されたときにだけ使用するにあったこと」、「島崎某、及び二十四、五才の学生風の某の伝達は、火焔瓶の使用を禁止し、単なるデモ行進をして解散するというにあったこと」、以上の各事実が認められるというのである。

しかしながら原判決の挙示の各証拠並びに原審及び当審で取調べた各証拠を検討しても前記原判決の認定には、所論指摘の諸点を含めて事実誤認の違法は存しない。すなわち

(一)  「被告人永田が、デモ隊員が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警備のため出動している警官隊によって解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持しているデモ隊が火焔瓶を使用して抵抗するということを予測したこと」については、本件騒擾は、原判決第一章、第一節、第二款、第九に認定されているとおり、日共市V、同軍事委員が中心となり、県祖防委、市祖防委が参画して、計画準備したものであり、被告人永田は原判決第一章、第四節、第一、七認定のとおり市Vのキャップであって名古屋市における日共の非合法活動を統轄していたこと、従って同被告人は原判決第一章、第一節、第二款の第一ないし第八に認定されている本件騒擾の準備、計画の少くとも大綱を認識していたと推定されること(このことは、被告人永田が当審第九五回公判において「市Vの方針を受けて軍事委員の会合が何回か開かれたようだが、芝野から報告を受けたから、ある程度のことは知っていた」旨供述し、また本件当日、中区蛭子町三七番地クリーニング商小橋玄二方の地下指導部において、昭和二七年七月六日の広小路通りにおける帆足、宮腰歓迎デモの際逮捕された名電報の某少年が持っていた同年七月七日のデモ計画のメモに手投弾が使用されるらしいとの記載があった旨を伝える新東海新聞の夕刊を読んで驚いた被告人永田等が「あの会議ではメモを許さなかった筈だ、こういう場合は一切メモを許してはいけない」と言って怒っていた事実((原審被告人岩原靖幸の28・4・28付検調添付のメモ))、によっても裏書される)、原判決第一章、第四節、第一、七、(4)認定のとおり本件当夜、右小橋クリーニング商内に設けられた地下指導部において、被告人永田は、被告人芝野から大須球場内の状況について、被告人加藤等から警察の警備配置の状態等について報告を受け、右球場内の群衆の動向、球場内に持ち込まれるべき武器の種類、数量、警察の警備配置の状況等の概略を把握していたと推定されること(このことは、右岩原靖幸が、その28・4・28付検調添付のメモ中で、「本件当日前記小橋クリーニング商における地下指導部において聞いたと思うことは、一、大須球場内の状態、特に聴衆の入り具合で、一塁側スタンドは満員、三塁側スタンドは三分の二位まで満員、演台は二塁ベースの辺にあり、その演台の前にもスタンドから人が降りて来て大勢おり、演台の後の方もぐるりと演台を囲む形に人がいる、演説会のふんい気も上々であること((このときには被告人永田等が『なかなかいいなあ』といっていた))、人数は金山体育館位の入りで、まず三万人位、しかし屋外だから正確な数は掴めない。二、デモ隊の出発する様子も聞いたと思うが、はっきり覚えていない。三、手投弾使用は既に禁止してある。四、時刻は、はっきりしないが、ピケ隊の解散の指令も、ここから被告人永田が、被告人加藤に出したと思う。五、鶴舞公園の自動車が三台位炎上しているということもラヂオで聞いたと誰かが言っていた等である」旨述べていることによっても裏書される)、以上の各事実を総合すると、被告人永田は、デモ隊が球場外へ出て行った場合、警官隊から解散等の規制措置を受け、その際デモ隊と警官隊との間に摩擦、衝突が起り、勢の赴くところ、多数の火焔瓶を所持するデモ隊員が警官隊に対し火焔瓶を投擲する等して攻撃すること(前出岩原靖幸の28・4・28付検調添付のメモによれば、本件デモに際して手投弾の使用が禁止されていたことは認められるが、火焔瓶の使用を禁止する旨の指令が発せられたことを認むべき証拠はない)を当然予測していたものと認められるのである。

もっとも岩原靖幸の28・2・27付検調によれば、被告人永田が、市警察の中署、アメリカ村、岩井通り附近の警備が厳重であることを知り、本件デモについての従来の計画を変更して「普通のデモ」に切りかえるよう指示したことは所論のとおりである。

ところで、右にいわゆる「普通のデモ」の意味は必ずしも明確ではないが、被告人永田の右指令を、順次被告人芝野、同金泰杏、同清水清を介して伝達を受けた被告人山田順造は「被告人清水は『警官が三千五百取り巻いておるから予定の行動が出来ないので、各自の判断で行動を取ってくれ』と言った。それは、隊長会議では中署、アメリカ村を攻撃目標としていたが、警官が沢山いるので目標へ行けるかどうか分らないから、各自の判断で武器を使用して軍事行動をせよ、という意味である」旨述べ(同被告人の27・9・9付検調)、被告人永田の右指令を二十四、五才の学生風の某を介して伝達を受けた被告人山田泰吉は、「二十四、五才の学生らしい人が、中署とアメリカ村はやめて、上前津へデモ行進するといった。しかしその人は攻撃しないとか、火焔瓶を使わないとは少しも言わなかったので、私は上前津の方へデモ行進して、警察官と衝突すれば、どんどん火焔瓶で攻撃して行くのだと思っていた。張哲洙に対しても、デモは上前津に行くといっただけで、火焔瓶を使わないとか、攻撃をしないとか、いっていない」旨述べ(被告人山田泰吉の27・10・23付検調)、被告人永田の右指令を順次、被告人芝野、同金泰杏を介して伝達を受けた被告人姜泰俊は、「デモを中止すべきだとの私の主張は金泰杏等に容れられず、政治デモをすることにした。そこで私は政治デモならば火焔瓶は必要ないと主張したが、これも容れられず、政治デモでもデモ隊が解散する前に恐らく警官が弾圧するだろう。そのとき、自分達の退路を切り開く為に必要であるから、火焔瓶を持ってデモを行うということになった」旨述べ(被告人姜泰俊の27・9・25付検調)、被告人永田の右指令を順次、被告人芝野、同金泰杏、金億洙を介して伝達を受けた南相萬は、「私は帆足計の演説の終り頃、金億洙から『政治デモを打つ。そして警官に包囲されたら火焔瓶を使う』ということ等を聞いた」旨述べ(被告人南相萬の第一回検調)、被告人永田の右指令を順次、被告人芝野、同金泰杏、同清水清、同山田順造、元被告人片山博を介して伝達を受けた被告人多田重則は「帆足計の演説の終り頃、被告人片山博が私に、指令変更だと言って、『デモ隊が中署に行くのをやめる。火焔瓶は防禦のためだけに使うんだ』と言った」旨述べ(被告人多田重則の27・9・6付検調)、前記被告人清水清の各検調記載によれば、同被告人は大須球場において、そばを通りかかった福田穣二から『今日はやらんらしいぞ』という話を聞いたので、変に思って、丁度、北鮮旗の下にいた被告人金泰杏に『どうなるんだ』と聞くと、政治デモになって、金山に行くというようなことをいわれた。それで被告人山田順造には、そのように政治デモになると言った記憶だが、同時に、デモになると、とても指揮は執れないから、君の方で指揮をしてくれ、前の者のやるようにすれば良い、といっておき(被告人清水清の27・10・23付検調)、右のように被告人山田順造に政治デモに変更する旨の指示を与えた後、本件デモ隊に追従して大須球場を出、右デモ隊が大須交差点を過ぎた頃、デモ隊の者がプラカードをバラバラにして柄だけにし始めるのをデモ隊の先頭近くで目撃し、またその頃はデモ隊の勢が非常に強くなって行って、『これは戦うつもりらしい、隊長会議の決定のとおり戦が始まるのではないか』と感じたにもかかわらず、何らデモ隊の右気勢を制止する措置を執ることなく、なお、これと行を共にし(被告人清水清の27・11・11付検調)、遂にデモ隊の先頭附近から火焔瓶が飛び始め、その一発が同被告人の目前で破裂して、そのため、同被告人は左眼の瞼に火傷を受けたにもかかわらず、依然として、これを黙認し、デモ隊の当夜の行動を最後まで見届けて帰宅した(同被告人の27・9・9付検調)、ものであって、右各証拠を総合すると、前記のいわゆる「普通のデモ」とは右各被告人のいう「政治デモ」に外ならず、それは「中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃するという純軍事行動たる当初のデモ計画」を、「その行先を上前津方面とし、警察より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識の下でのデモ」、に変更したものに過ぎないことが明らかである。もっとも被告人張哲洙は、その第七回検調において、「名大生のアジ演説が始まって間もなく軍事委員の連絡に当っていた川上(被告人山田泰吉)が急いで私の処に来て、『警戒が非常に厳重で、圧倒的に不利な状況にあるから、予定を変更して襲撃は中止する。しかしデモ計画は全部を単一のデモにして上前津まで全部進み、そこで解散する』という軍事委員の指令を伝えて来た。そこで私は川本、杉本と相談して、民青団員に火焔瓶は使わないことになったからということだけを伝えておいた」旨述べているけれども、右供述記載の後段は前記各証拠、特に被告人山田泰吉の27・10・23付検調の供述記載と対比し信用しがたい。

なお、被告人永田は、当審第九五回公判において「本件当日午後九時前後に被告人芝野が、小橋玄二方の地下指導部に来て、警察の警備状況等に鑑み、県軍事委員会の方から、今夜計画していたデモは中止させる旨申入れがあったので、それに対してどう処置すべきか報告を兼ねて意見を求めた。そこで被告人永田は、そのような状況では、とても中署とかアメリカ村へ行くことはできない。しかし県軍事委員会のいうように、デモを一切やめるということになると、今まで何のために準備し、集会をやったかということになるので、デモだけはやる、しかし右地下指導部の一員であった小林繁雄が、警察が球場の入口で強力なライトを照らして一人一人身体検査をするらしいということを聞き込んで来ていたので、持っている火焔瓶は全部球場内に捨てて携行しない、デモは中署とアメリカ村には行かず、岩井通りを通って上前津から南下して金山方面に向って流れ解散する、このようなことをはっきり被告人芝野に申した」旨供述している。しかしながら同被告人の右供述、特に火焔瓶を球場内に捨ててデモ行進に携行を禁ずる旨被告人芝野に指令した旨の部分は、前出及び後出の原審各証拠によって認められる如く、このような重要な指令が、火焔瓶を場内に捨てることは愚か、その携行を禁止し、さらにはその使用を禁ずることすら下部に伝達されておらず、むしろ右下部の者等はデモ行進中、警察の規制があれば、これに対して火焔瓶を投げつけて対抗する意図を有していたこと(わずかに、被告人張哲洙の第七回検調中に、「民青団員に火焔瓶は使わないことになったことを伝えた」旨の部分があるが、これが信用しがたいことは前記説示のとおりである。また姜泰俊の27・9・25付検調中には、「本件当日午後九時頃、球場内で名前を知らない日共の軍事委員の男から、今日は愛知県全体の警官が警戒に当っているからデモを止めるという指令が日共から出されたということを聞いたので、同被告人は岡崎の青年のところへ行って持たしておいた火焔瓶を三塁側スタンドの下へ捨てさせた」旨の記載があるけれども、右記載自体、同被告人が火焔瓶を捨てさせたのは、特にその旨の指令によったのではなく、同被告人の裁量によったことを物語るものであり、同被告人は当審第九二回公判においては「名前を知らぬ男から今晩のデモは政治デモに切り換えた、だから火焔瓶はもういらないとの話があったので、岡崎の連中に火焔瓶全部を三塁側の座っている下に捨てさせた」旨述べているけれども、右は同被告人の前記検調中の供述記載とそごするのみならず、菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、当夜球場内に遺留されていた火焔瓶は合計四本に過ぎず、それもいずれも三塁側スタンド下以外の場所から発見されているのであって、以上に徴すると同被告人の右各供述は信用できない)、及び次に述べる如く当審公判における被告人芝野、同渡邊(兵頭)鑛二、証人福田穣二の各供述記載とも、そごしていることに鑑みると信用できない。すなわち被告人芝野は、当審第九三回公判においては、「同被告人が本件当夜午後八時頃、地下指導部に赴いて、県軍事委員会のデモ中止の意向を報告した際、田島ひでを交渉委員に立てて、警官がチェックしたら、球場内に火焔瓶を置いて話をつけるという話等も出たが、結局はデモ行進を行なって、中署、アメリカ村への抗議は被害が出るからやめるべきだ、デモ行進は上前津の方へ行って、金山で流れ解散するということを聞いて、同被告人は地下指導部を退去した。火焔瓶については、その使用について間違いを起さないというか、挑発に乗らないようにという注意はあったと思うが、警備体制が、中署、アメリカ村の方に固められているのは、肩透しをくわすのだから、余りそれは問題ないというように思っていたが、そのような注意も被告人永田からあったような記憶である」旨述べている。ここでは被告人芝野は被告人永田から、火焔瓶を球場内へ捨ててデモ行進には携行しないとの指令はもとより、デモ行進に当って火焔瓶を使用しないとの明確な指令を受けたことの記憶もないのである。被告人永田が述べているような指令を同被告人が被告人芝野に伝えたとしたならば、同被告人がこれを記憶していないということは、如何に二二年の時日を経過しているとはいえ、とうてい考えられないところである。同被告人は、当審第九四回公判においては、「前記市Vの指令を福田穣二に球場内へ伝えに行って貰うに当って、火焔瓶の使用については、挑発に乗ったり、使用したりしないというようなことを念を押してつけ加えたように思う。被告人芝野が地下指導部へ報告を兼ねて意見を仰ぎに行ったとき、被告人永田からデモ隊に火焔瓶の使用を禁ずるというような話があったと思う」旨述べており、被告人芝野が被告人永田から受けた前記指令を球場内の下部組織に伝えに行ったという福田穣二は、当審第九三回公判において、「同人が被告人芝野から聞いた市Vが決めた方針は、デモの全面的中止ではなくて、上前津を通って金山へ向わせるということと、火焔瓶を、そういう抗議デモではないので、使うなということを決定として聞いたように記憶している」旨証言し、本件当夜被告人芝野と共に中区裏門前町の連れ込宿八木方にいたという被告人渡邊鑛二は当審第九六回公判において、「被告人芝野は市Vへ行って、抗議行動はやめる、火焔瓶その他一切武器は使わないということの上で、政治デモを上前津から金山に行なうということを伝えられて来た」旨述べている。つまり被告人永田は火焔瓶を球場内に捨てデモ行進に携行しないとの指令は下していないが、その使用を禁止する旨の指令は出しているというのである。しかし右各供述も、前記の如く、このような重大な指令が球場内の下部に伝達されておらず、むしろ右下部の者等はデモ行進中、警察の規制を受ければ、これに対して火焔瓶を投げつけて対抗する意図を有していたことに徴し信用しがたい。結局被告人永田が本件当夜、地下指導部において被告人芝野に対して、球場内の参集者中、火焔瓶を持っている者に対しては、それを球場内に捨てさせて、デモ行進に携行させない旨の指令はもとより、デモ行進中これを使用することを禁止する旨の指令も、これを発した事実は認められず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(二)  「被告人芝野が被告人永田から受けた『今日のデモは上前津方面に向わせる』旨の指令を、球場内に帰って三塁側スタンドの現地指導部で、被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等に伝えたこと」については、被告人芝野が本件当夜、大須球場内に現れたことの、従って同被告人が右現地指導部で被告人金泰杏等にデモ変更の指令を伝えたことの直接証拠が存しないことは所論のとおりである。しかしながら(1)被告人芝野は後記のとおり、本件当日大須球場三塁側スタンド中央附近の北鮮旗の下に設けられた地下指導部の構成員であったと推定されること、(2)原判決第一章、第一節、第二款、第九認定のとおり、本件当日の被告人等の行動について、当初は熱田区日比野町五〇番地千田病院内、次いで中区蛭子町三七番地小橋クリーニング商内に置かれた地下指導部が全般の指導に当り、当夜の現場における行動については大須球場内三塁側観覧席中央部の朝鮮民主々義人民共和国々旗附近に置かれた現地指導部が指導に当ったこと、(3)原審被告人岩原靖幸の第三回、28・3・17付検調によれば現地指導者達は右地下指導部の指導を受けていたこと、(4)被告人芝野は本件当夜、右地下指導部へ二回位、大須球場内の状況を報告に行き、被告人永田から、デモの方向を変更せよ等の指令を受けて、右地下指導部を退去したこと(岩原靖幸の28・3・26付検調)、(5)被告人姜泰俊は本件当日、中村区国鉄名古屋駅西辛島パチンコ店において被告人金泰杏に細部の指示は現地でするからといわれて、同人の指示を受けるために三塁側スタンドの中央附近に立っている北鮮旗の下に行ったところ、そこには被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等、祖防委幹部が集まっていたこと(被告人姜泰俊の第七回、27・10・23付検調)、(6)その後右被告人姜泰俊は大須球場内において被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等とデモの変更指令について協議した結果、武器の使用を前提とする軍事デモは中止し、武器の使用を前提としない政治デモを行なうことにするが警官の弾圧が予想されるので、これに対抗するために火焔瓶は持ってデモを行うことに決したこと(姜泰俊の第三回、27・10・10付検調)、(7)原判決第一章、第一節、第四款、第二、一認定のとおり、中署、アメリカ村を攻撃するとの当初のデモ計画を変更して上前津方面へデモ行進する旨の指令が被告人金泰杏から同清水清、同姜泰俊、金億洙に伝達され、さらにそれが順次、被告人山田順造、同岩間良雄、国南相萬、元被告人片山博、被告人多田重則等、下部に伝えられたこと、以上の各事実が認められるのであって、右各事実を総合すると、原判決が被告人芝野が前記原判決認定の如く、被告人永田の本件デモ計画の変更指令を前記現地指導部において被告人金泰杏等に伝達した事実を推定したことに不合理性は存しない。

なお所論は、原判決は第一章、第一節、第二款、第九において、被告人芝野が大須球場内に設置された現地指導部の構成員の一人であったと認定しているが、それを認定するに足る証拠はないと主張しているけれども、被告人芝野は原判決第一章、第一節、第二款、第一、第三の一、第六の一に認定のとおり、市V軍事委員キャップとして本件の計画、準備の枢機に参画し、同被告人の主宰した昭和二七年七月五日の隊長会議では、七・七歓迎大会当日は会場三塁側スタンド上に朝鮮民主主義人民共和国国旗を立て、そこに軍事部を置き連絡の中心とする旨決められていたこと、及び本件当夜、同被告人は前記認定の如く前記地下指導部へ二回位、大須球場内の情勢を報告に行き、被告人永田から指令を受けて右地下指導部を退去しているのであるが、右報告の際、被告人芝野は右球場における指導部内に混乱が起きていることを話しており、同被告人が退去した後、被告人永田は「現地指導部の某は、こういうときになると狼狽して、あがってしまうから駄目だ、信玄(被告人芝野)はしっかりしている」と批評していること(岩原靖幸の28・4・28付検調添付のメモ)に徴すると、被告人芝野が現地指導部の構成員であったことは容易に推定し得るところである。

ところで被告人芝野一三、証人福田穣二は当審第九三回公判において、被告人渡邊鑛二は当審第九六回公判において、次のような趣旨のことを供述している。すなわち、本件当日、市軍事委員であった被告人芝野、同渡邊は午後三時頃から午後一〇時半頃まで連絡員の女性一名と共に中区裏門前町の連れ込宿八木一子方にあって、当夜の大須球場に参集した大衆の抗議行動を指導すべく待機し、県軍事委員の吉川昭二、福田穣二は昼過ぎから、中区橘町の佐藤寅五郎方にあって、大須球場における大衆の動向、情勢を見守っていたが、右県軍事委員の両名は、右佐藤方で、ラヂオのニュースを聞いたり、時には自ら球場周辺を見廻ったりした結果、警察の警備の異常に厳重なことを知り、基本的には市Vが決定すべきことではあるが、当夜の大衆的抗議行動は全面的に中止すべきだとの結論に達し、福田穣二は、前記八木方の被告人芝野の許に赴いて、同被告人にこの旨を伝えた。しかし当夜の抗議行動の指導の責任は市Vにあるので、被告人芝野は、この点について市Vに報告すべく地下指導部に出向いたが、すでに時間が迫っていたので、取り敢えず福田穣二は、ただちに大須球場へ向い、同球場内にいた被告人岩田弘、同清水清、島崎某こと山部光久等に全面中止の方針を伝えた。地下指導部において被告人永田から当初のアメリカ村、中署に抗議行動をするという計画を変更して、デモ行進を行なって上前津を経て金山で流れ解散する等の指示を受けた被告人芝野は直ちに八木方に帰り、これを被告人渡邊鑛二、福田穣二の両名に伝え、福田穣二は再び球場に赴いて、計画変更の右指示を、第一回に伝えた相手と同一か否か不明だが少くとも被告人岩田には、はっきり伝達したと思うというのである。

同被告人等の右各供述は、原審で取調べた原判決挙示の各証拠及びその他の関連証拠とそごする点が多いのみならず、同被告人等の当審における右供述相互間においても、また前記のごとく被告人永田末男の当審における供述とも所々に食い違いが認められること、殊に同被告人等の供述による市V、県軍事委員会、市軍事委員会の間の指揮系統が統一を欠く不可解なものであって、右供述によっては、この疑問が解明されないこと、同被告人等は本件の事実関係については原審では捜査段階、公判を通じて完全に沈黙を守ったにもかかわらず、当審の末期に至って俄かに供述を開始するに至ったものであるが、このように態度を急変した真意が奈辺に存するか疑惑を懐かせ、作為的なものを感じさせること(この間の消息について、被告人永田は、当審第一〇三回公判における最終意見陳述中で「第三補充趣意書((注、昭和四九年一月二五日付))による立証が遅くなって行われた若干の事情」として、「(1)第一審判決が事実に全く反して、私すなわち永田が『警官隊との衝突を予測しながら敢えてデモ行進を指令した』というような証拠にもとづかない推測をほしいままにし、また芝野被告が判決のいわゆる『現地』即ち大須球場内へなど絶対に行く筈はないし、また事実行ってもいないのに、これまた証拠に基づかない推測を行なって、行ったこととし、あまつさえ、そこで『現地指導部』の『決定』なるものを為したというようなデッチ上げを行なっているのに対し、どうしてもこれを粉砕する必要があったこと、そのためには、今まで必要なしと考えて触れて来なかった日共市Vと当夜の一部の者の行動との関係を敢えて明らかにすることにしたのである。これが補充趣意書を提出した根本的理由である。(2)しかし右は、補充趣意書が今日まで遅れた理由のすべてではない。私個人の見解を言えば、遅れた他の理由は、日本の反動的権力が『事件』を口実として、最悪の場合には破防法によって党を解散に追い込むような理不尽な行動に出ないとも限らないという、今日から見ればいわれなき危惧が抱かれていたということが一つ。さらに、世上、火炎ビン斗争として非難ごうごうで、党の名誉にもかかわり、選挙などに不利であるというような懸念があったからである」と述べているが、この陳述も右疑惑を解くものではなく、むしろ一層これを深めるものである)等に鑑みると全面的には信用しがたい。

しかしながら被告人芝野等の前記各供述のとおり、同被告人が本件当夜大須球場に出向いたことがなく、同被告人が被告人永田から受けた計画変更指令は、被告人芝野から福田穣二に伝えられ、同人が同球場に赴いて下部組織にこれを伝えたものであって、被告人芝野が同球場に赴いて右指令を現地指導部の被告人金泰杏等に伝え、同人等の協議決定に参与した事実はなく、それらの点で原判決の認定が誤ったものであるとしても、福田穣二を介してではあるが、結局は被告人芝野が右指令を下部組織に伝えた点では実質的な差異はない。そして同被告人が被告人永田から受けた計画変更指令の内容が前記(一)認定の如きものであり、かつ市軍事委員キャップで、本件の計画準備の枢機に参画した被告人芝野は、被告人永田と同様、デモ隊が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警備のため出動している警官隊によって解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持しているデモ隊が火焔瓶を使用して抵抗することを予想していたと認められるから、被告人芝野が被告人金泰杏等の右協議決定に参与していなくとも、被告人芝野の刑責に消長を来すものでもない。従って右程度の事実誤認は判決に影響を及ぼすものというに足りない。

(三)  「被告人芝野から、被告人永田の前記指令を伝達された被告人金泰杏等が協議の結果、『デモ隊が上前津方面へデモ行進する途中で警備の警察官による解散措置を受けた場合には火焔瓶を使用して抵抗すること』に決したこと」「島崎某及び二十四、五才の学生風の某が被告人山田泰吉、同岩田弘に被告人金泰杏等の右決定を伝えたこと」については、前記(一)後段に説示したとおり、右被告人等のいわゆる「政治デモ」とは、「中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃するという純軍事行動たる当初のデモ計画」を、「その行先を上前津方面にし、警察より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識の下でのデモ」に変更したものに過ぎず、従って被告人金泰杏等、現地指導部の右決定、あるいは島崎某及び二十四、五才の学生風の某による右伝達の各内容は、所論の如き、火焔瓶の使用を禁止し、もしくは警察官の弾圧に対する防衛の目的のみに、その使用を限定するといったものでもなければ、武器を使用しない普通のデモをして解散するといったものでもなかったことが明らかである。

被告人姜泰俊の27・9・25付検調中には「デモ隊が解散する前に、恐らく警官が弾圧するだろう、そのとき自分達の退路を切り開く為に必要であるから、火焔瓶を持ってデモを行なうことになった」旨の供述記載があることは所論指摘のとおりであるが、同被告人は右検調において、右供述に引き続いて「このような事情であったから、私はデモ隊と警官隊との間にイザコザの起った場合は火焔瓶が使われるだろうことは予測していた」旨述べ、さらに同被告人は、その27・10・10付、第三回検調において「私は、金泰杏、閔南採、崔秉祚の三人と、更に途中から来た李寛承を加えて四人を相手に議論した。その結果、武器の使用を前提とする軍事デモは中止し、武器の使用を前提としない政治デモを行なうことになった。しかし警官の弾圧が予想されるので、これに対抗するために火焔瓶は持ってデモを行なうことになった」旨述べているのであって、所論の如く全く防衛の目的でのみ火焔瓶が持たれたものとは解せられない。

また前記デモ変更指令を元被告人片山博を通じて伝達を受けた被告人多田重則が、「大須球場において学生がアジ演説を始める直前で帆足氏の演説の終り頃の記憶だが、片山が私に指令変更だといって、デモ隊が中署へ行くのはやめる、火焔瓶は防禦の為に使うだけだと言った」旨述べていることも所論のとおりであるが、右元被告人片山博に右指令変更を伝えた被告人山田順造は、前記のとおり、その27・9・9付検調において、「北鮮旗の下あたりのグランドで被告人清水に会った。それで同人に『どうだ』と尋ねると、同人は『警官が三、五〇〇取りまいておるから予定の行動ができんで各自の判断で行動をとってくれ』と云った。その意味は、隊長会議では中署、アメリカ村を攻撃目標としていたが、警官が沢山おるので目標へ行けるかどうか分らぬから、各自の判断で武器を使用して軍事行動をせよという意味であるから、その話を聞いて私がいた席へ戻って被告人片山に、そのことを話した。それで片山も了承していた」旨述べており、その他、被告人山田泰吉は、その27・10・6付検調において「その頃誰言うことなしにデモは中署とアメリカ村へ行かないという噂が出たので、右の前の方の学生の集まっている前に行って七月五日の軍事会議に出ていた被告人岩田弘の処へ行った。同人に、どういうふうになったと聞くと、手榴弾は使わないことになったというだけで、中署とアメリカ村へ行かないということはいわなかった。それからこの席に帰る前に、その辺で誰からかデモが上前津へ行くというような話を聞いたが、これは指令として聞いたのではなく、また話した人も知らない。また政治デモになるとか、火焔瓶を使わないということも聞かなかったから、私は火焔瓶は当然使うつもりでおった」旨述べ、その27・11・16付検調においては「帆足氏の演説の頃に、前申したように被告人岩田の処へ行って手榴弾を使わないという話を聞き、第五図の(7)と書いた処で見知らぬ人からデモは上前津へ行くという事を聞いたが、火焔瓶を使わんとか、抗議デモになるという事は聞かなかった。それから暫くして民青の者が火焔瓶を分け始めたらしく、ごそごそしているのを見た」旨述べているのであって、右各証拠によれば、前記被告人多田重則の検調における供述記載は信用しがたく、むしろ被告人金泰杏等の前記協議決定及び被告人山田泰吉等が受けた右協議決定の伝達の各内容は火焔瓶の使用禁止もしくは防衛のためのみの限定的使用ではなく、原判示の如く警備の警察官により解散措置を受けた場合には火焔瓶を使用して抵抗することにあったことが認められる。所論は、原判決は被告人姜泰俊の前記27・9・25付検調中の「警官が弾圧するだろう」との供述記載を勝手に「警察官による解散措置を受けた場合」と言い変えたと非難するが、本件被告人等が、警官もしくは警官隊によるデモ隊に対する実力行使はもとより、その前段階である解散警告を含めて、すべての規制措置を「弾圧」と呼称していることは、例えば被告人岩田弘の27・10・6付、第三回検調中の「(注、球場内をデモ隊が)二、三回廻ってから先頭が球場東門近くに来た時、先頭の学生が『聴衆が出たから、外へ出よう』ということをいったので、私は『外へ出ると今夜は警官隊の警戒が厳重であるから、デモは必ず解散させられる、出来るだけ場内でデモをしよう、それによって政治目的(すなわち権力機関に対する示威と団結心を強くすること)を達成することが出来る』と思ったので、他の先頭の学生に『廻れ、廻れ』と言ったが、他の学生は『聴衆が外へ出たから場外へ出よう』といったので、球場東門から場外へ出た。私は東門を出た瞬間、『今夜は警官隊の警戒が厳重である上、このデモは無届デモであるので、警官隊がデモの弾圧に来る』と思った」旨の供述記載からも窺えるところであって、「警備の警察官による解散措置を受けた場合には火焔瓶を使用して抵抗することに決し」たとの原判決の前記認定には何ら違法、不当の点はなく、論旨はいづれも採用できない。

2  第五点、一、第三「デモ隊の規模及び構成」について

所論は要するに、原判決は第一章、第一節、第四款、第一において、本件当日、大須球場東門から場外へ出て行ったデモ隊の総数を千名ないし千五百名と認定しているが、証拠の示すところによれば、少なきに失し、その総数は少なくとも二千名を下らなかった、また原判決は、右デモ隊があらゆる階級、階層、性別を含む大衆によって構成されていたことについても故意に黙して語っていないが、それは原判決が、証拠に基づかないで、予め前提とする「共同暴行脅迫意思」をデモ隊に押しつけ、デモ隊を潜在的暴徒集団に仕立て上げるためデモ隊の「大衆的性格」を、ことさらに歪めようとする姑息な準備作業にほかならない、というのである。

しかしながら原審第二六一回公調中の証人山田太三の供述記載によれば、同証人は本件当夜、中署警備係員として大須球場の状況の調査を命ぜられ、同球場の南側の家屋の二階の窓から、七・七歓迎大会の進行状況を観察して、逐一これを上司に報告し、同時にその観察した事項をメモに記載していたものであるが、同証人の観察したところによれば、当日午後一〇時少し前位に演説がすべて終って、聴衆が入口へ向って帰途につき、残った約千人の人達が五百人位づつ二手に分れて球場内をデモ行進した後、二つの隊が合体して入口の方へ行ったもので、当時同証人はデモ隊の数を八百人から千人と報告していた、というのであり、同人の作成した前記メモにも、「午後一〇時、デモ隊が二隊に分れて会場を廻り、一かたまりになり約千名が北方入口に向った」旨の記載がある。このように同証人は、最も安全有利な場所からデモ隊の刻々の動静を仔細に観察し、それをその都度上司に報告し、同時にメモにも記録していたものであるから、その証言及びメモ記載の証明力は、極めて高いといわねばならない。しかも七・七歓迎大会の司会者として右大会に臨場し、前記球場内で本件デモ隊が組まれたときは、演壇上にあって、これを見ていた原審証人伊藤長光は、原審第一八回公調中の供述記載において、デモ隊の数は千人から千四、五百人と思う旨述べ、大須球場の所有者として七・七歓迎大会中は場内を巡視し、デモ隊が組まれたときには、演壇上に上って、これを見ていた原審証人高島三治は、原審第一九回公調中の供述記載においてデモ隊は千人以上であったと思う旨述べて、前記山田太三の供述記載を裏付けている。右証人伊藤長光及び同高島三治は、それぞれ前記大会の司会者もしくは前記球場の所有者として中立的な立場にあり、かつデモ隊が組まれたとき、いずれも演壇上にあって、見易い位置にあったのであるから、同人らの右各供述記載にも強い証明力が賦与さるべきである。

従ってデモ隊の総数を千名ないし千五百名とした原判決の認定は正当であり、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

また本件デモ隊の構成員が如何なる階級、階層、性別の出身者であるかは、本件騒擾罪の成否にかかわりのない事柄であって、原判決がこの点について認定、判示しなかったのは当然であり、これを目して、原判決の予め前提とする「共同暴行脅迫意思」をデモ隊に押しつけ、これを潜在的暴徒集団に仕立て上げようとする意図の現れであるとするのは、失当である。論旨は、いずれも採用できない。

3  第五点、一、第四「デモ隊の目的と性格」一、「原判決の認定」、二、「四つのグループの意識」、(一)「(1)のグループ」について

所論は要するに、原判決は、第一章、第一節、第四款、第二、二、(1)において、本件デモに参加した者のうち「被告人姜泰俊、同南相萬、同岩田弘等少くとも二〇名位は、デモは上前津方面に向うが、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げる、との認識の下にデモ隊に参加し」と認定しているけれども、原判決の挙示する証拠を総合検討しても、右認定の如く「警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識」を持っていた者が一人でも存在したとは認められず、むしろ

a、被告人清水清、同岩田弘等の如く、単にデモは政治デモとし、金山へ向うことを認識していた者、

b、被告人張哲洙等の如く、火焔瓶は使用せず、実力行使はしないと考えていた者、

c、被告人姜泰俊、同南相萬等の如く、警官隊の実力行使により包囲されたとき防衛のため火焔瓶を使用することもあると認識していた者、

以上のグループの存在が認められるに過ぎないというのである。

しかしながら右原判示事実は、原判決の挙示する証拠によって、これを認めるに十分である。

所論は、原判決の挙示する証拠のうち、火焔瓶を投げるという認識の窺われるのは、被告人姜泰俊、同南相萬、同山田順造、同多田重則、同山田泰吉の僅か五名の各検調のみであるが、それも「退路を切り開くため」(被告人姜泰俊)、「警官に包囲されたとき」(被告人南相萬)、「防禦のために使うだけ」(被告人多田重則)との各供述記載から知られるように、原判示の如く「警察官より解散措置を受ければ」というのではなくて、「警官隊の実力行使により包囲された場合、退路を切り開くため」という全く防禦的な意図しか認められず、被告人清水清、同岩間良雄、同岩田弘の各検調には、デモを政治デモに切り替え金山へ向うという趣旨の供述記載があるのみで火焔瓶使用についての供述記載はなく、金億洙、被告人張哲洙の各検調には、かえって「火焔瓶は使わない」、「実力行使はしない」との原判決の認定とは反対の趣旨の供述記載しかない、もっとも被告人山田順造、同山田泰吉の各検調には前記原判示に沿う供述記載があるが、これはいずれも取調官の誘導により無理に供述させられたことが、供述記載内容自体から明瞭に看取できる、と主張する。

しかしながら被告人清水清は、原判決第一章、第一節、第二款、第六の一認定の如く、市V軍事委員として昭和二七年七月五日、名大生中村某の居室において行われたいわゆる隊長会議に出席し、七・七歓迎大会後デモを行って中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃することなどを協議決定したこと、前記控訴趣意第五点、一、第二、二の論旨に対する判断中の(一)で認定した如く、同被告人は被告人山田順造に対して、「デモは中署へ行かず、上前津から金山へ行く政治デモになる」旨指示を与えた後、本件デモの側方又は先頭附近を行進して大須球場から岩井通りに出て、その間デモ隊員の行動から、警官隊との衝突が起るのではないかと感じたにもかかわらず、また遂にデモ隊の先頭附近から火焔瓶が飛び始めたのを目撃したにもかかわらず、終始デモ隊の右行動を規制することなく黙認して、これと行を共にしていることの各事実を総合すると、被告人清水のいう「政治デモ」とは「中署、アメリカ村を火焔瓶などで攻撃するという純軍事行動たる当初のデモ計画」を、「その行先を上前津方面にし、警官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識の下でのデモ」に変更したものであり、同被告人は右認識の下に本件デモに参加したことが認められる。

被告人岩間良雄は、原判決第一章、第一節、第二款、第五の二認定のとおり、昭和二七年七月四日、市V政治オルグとして緊急細胞代表者会議を開き、七・七歓迎大会後デモを行い、武器として火焔瓶を使用することなどを指示説明し、同第七の一認定のとおり、同年七月六日行われた名電報細胞指導者会議に出席して、右大会後のデモ隊の攻撃目標は中署、アメリカ村の予定であることを指示しており、従って同被告人が同月七日夜、大須球場において、宮腰喜助の演説の頃、デモを中止するとの噂を聞いて、被告人清水清にこの点を確かめたところ、同被告人から、コースを上前津から金山へ抜ける方向に変更するが、デモはやる旨を告げられた後、被告人岩月清に対し、「今日、デモをやるそうだからキャプテン(注、元被告人片山博)に勇気と確信をもってやるように伝えてくれ」と述べて激励していることは(被告人岩間良雄の第八回、27・9・14付検調)、被告人岩間良雄が本件当夜、デモ隊が警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げて抵抗することを予想していたことを物語るものである。

被告人岩田弘は、原判決第一章、第一節、第二款、第六の一認定のとおり、昭和二七年七月五日の隊長会議に出席して、七・七歓迎大会後デモを行い、中署及びアメリカ村を火焔瓶で攻撃することなどを協議決定しており、従って、同被告人が、本件当夜、大須球場内でデモが組まれて行進が開始され、その先頭に立って同球場東門から場外へ出た際、デモ隊員のうちには武器として火焔瓶を所持していた者も相当数あることを知っており、しかも同被告人は当夜、デモの進路変更についての指令を受けたのみで、火焔瓶の使用禁止、あるいは防禦のためのみの限定使用については指令を受けておらず、(同被告人の27・10・6付検調)同被告人の27・8・18付検調によれば、「外へ出れば警官隊と衝突し、大変なことになると考えた」というのであるから、同被告人はデモ隊が警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識の下に、これに参加したものと認めなければならない。

金億洙の第五回、27・8・12付検調には「しばらく演説を聞いてから北鮮旗のところへ行くと、金泰杏、南相萬、柳政一らがいた、そこで私は金泰杏から、『今日の計画は崩れた、警官がヤンキー村や中署の方に三、八〇〇人もいて厳重に警戒しているから、実力行使はしない』と聞いた」旨の供述記載があることは、所論のとおりであるが、この「実力行使をしない」というのは、火焔瓶投擲等の暴力行為を放棄するとの趣旨ではなく、当初の計画である中署、アメリカ村の攻撃という純軍事行動を中止するとのそれであると解すべきであって、このことは被告人南相萬が、七・七歓迎大会において帆足計の演説の終り頃、金億洙から「政治デモを打つ、そして警官に包囲されたら火焔瓶を使う」旨告げられている事実(被告人南相萬の第一回、27・12・6付検調)によっても明らかである。

被告人張哲洙の検調に「火焔瓶は使わない」との趣旨の供述記載が存することも所論のとおりであるが、右供述記載が信用できないことは、前出控訴趣意第五点、一、第二、二の論旨に対する判断中の(一)において説示したとおりである。

被告人姜泰俊の検調中に「デモ隊が解散する前に恐らく警官が弾圧するだろう、そのとき自分達の退路を切り開くために必要であるから、火焔瓶を持ってデモを行うことになった」旨の供述記載、被告人南相萬の検調中に前記の如く、「金億洙から警官に包囲されたら火焔瓶を使うと聞かされた」旨の供述記載、被告人多田重則の検調中に「片山博が指令変更だといって、デモ隊が中署へ行くことはやめる、火焔瓶は防禦のために使うだけだといった、」旨の供述記載があることは所論のとおりであるが、被告人姜泰俊が所論の如く全く防衛の目的でのみ火焔瓶を持ったとは解せられないこと及び被告人多田重則の右供述が信用できないことは、前出控訴趣意第五点、一、第二の二の論旨に対する判断中の(三)において説示したとおりである。

のみならず、法治国家にあって、無届デモ行進中に警察官から規制措置を受けた場合、仮にそれが実力行使を伴うものであっても、予めこれに対抗するために火焔瓶を用意することは異常であり、右規制措置が著しく違法不当なもので、デモ隊員の生命、身体に危害を及ぼすであろうことが明らかに予想される特段の事情がある場合以外は正当防衛的な行為とはいえず(本件においてかかる特段の事情は認められない)、言葉の通常の意味での防衛的意図によるものには当らない。しかも被告人姜泰俊、同南相萬は原判決第一章、第一節、第二款、第八の三、同四の(1)、(2)に認定のとおり、いずれも昭和二七年七月七日午後三時頃、辛島パチンコ店二階において開かれた祖防委の会合に出席して、七・七歓迎大会後デモを行って、中署、アメリカ村を攻撃し、朝鮮人はアメリカ村に火焔瓶を投げ込むことなどを協議決定し、被告人姜泰俊は朝鮮人部隊の第一隊の指揮者、被告人南相萬は同第二隊の副隊長となり、被告人姜泰俊は同日午後五時頃、名中支部事務所において、被告人田玉鎮らに金億洙を紹介して、「今夜は同人の指揮に従って行動する」ことを指示して火焔瓶を交付し、被告人南相萬は、同日午後四時三〇分頃、泥江会館において被告人林元圭らに七・七歓迎大会終了後デモをやりアメリカ村を火焔瓶で攻撃することを伝えて火焔瓶を分配している。すなわち被告人姜泰俊、同南相萬は、もともとは、いずれも警察官によるデモの規制が著しく違法不当で、同被告人らの身体、生命に危害が及ぼされることを予想して火焔瓶を用意したものではなく、中署、アメリカ村に対する攻撃的意図をもって、これを用意したのである。同被告人らの前記各検調によれば、その後同被告人らは七・七歓迎大会中、大須球場において、当初のデモ隊による中署、アメリカ村の攻撃計画が変更されて、上前津、金山方面に、いわゆる「政治デモ」を行うことになったので、火焔瓶は警官隊の実力行使により包囲された場合、退路を切り開くため、防禦のためにのみ使用することになったというのであるが、右経緯に鑑みても、右供述を直ちに信用することはできない。また仮にそのような意図の下に同被告人らが火焔瓶を所持してデモ行進に参加したとしても、警官のデモ隊に対する規制措置が情況の進展により実力行使を伴い、その結果デモ隊を包囲することになる事態も当然予想されるところであり、それを直ちに違法不当な弾圧と断ずることはできない。

従って「警官により包囲されたとき、退路を切り開くため」に火焔瓶を使用するとの意図も、結局は「警察官より解散措置を受ければ、火焔瓶を投げるとの認識」の範疇を出るものではない。

被告人山田順造、同山田泰吉の各検調中に前記原判決認定に沿う供述記載があることも所論のとおりであり、また前出控訴趣意第五点、一、第二の二の論旨に対する判断中(一)に摘示したとおりであるが、右各検調の供述記載は、所論指摘の部分を含めて具体的かつ自然で不合理あるいは矛盾撞着の点はなく、他の関連各証拠とも符合し、十分信用に値するものと認められ、もとより、その供述自体から取調官の誘導により無理に供述させられたが如き形跡は、これを見出すことができない。

他に前記原判決認定を左右し、所論を裏付けるに足る証拠はなく、論旨は採用できない。

4  第五点、一、第四、二、(二)「(2)のグループ」について

所論は要するに原判決は、第一章、第一節、第四款、第二、二、(2)において「名電報局員、民青団員、東三河及び西三河各地区祖防委より参集した者の一部等少なくとも三十余名は、途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶もしくは石などを投げる目的でデモ隊に参加し」と認定しているけれども、原判決の挙示する合計三二名の本件各被告人及び元被告人の検調中に、現実にデモに参加するに際しての意識についての直接の記載のあるものが少なく、その多くは事前に指示を受けたとか、あるいは「中署へ行け、アメリカ村へ行け」のビラや学生のアジ演説を聞いたというに止まり、また中署、アメリカ村へ行って火焔瓶を投げることを認識していたことを認め得るような供述部分は相当数存在するが、「途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないと予測した」ことを認定し得るような供述をしている被告人は極めて少なく、僅かに被告人林元圭、同朴孝榮、元被告人中本章、被告人竹川登介の各検調があるに過ぎない、従って原判決の前記認定は誤であるというのである。

そこで原判決の挙示する被告人ら及び原審被告人らの各検調を検討すると、元被告人中本章、被告人竹川登介、同呂徳鉉、同林元圭、同朴孝榮、同方甲生については、その各検調に原判示の如く「途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶もしくは石等を投げる目的でデモ隊に参加し」た旨、同被告人らが現実にデモに参加するに際しての意識についての直接の記載がある(≪証拠省略≫なお元被告人中本章、被告人竹川登介、同林元圭、同朴孝榮については所論もこれを認めている)。被告人小島進、同岩月清、元被告人石川忠夫、同三谷昭、被告人吉田三治、同朴昌吉、同田島トミ代、同林學、同金永述、同杉浦正康、同張哲洙、同梁一錫、同李永守、同朴正熙、同李圭元、同朴寧勲、同朴寧國、同金壽顯、同朴文圭、同田玉鎮、同金炳煥、元被告人全甲徳、同朴魯勲については、同人らの右各検調によれば、右同人等は(1)本件の計画、準備に直接参画し、あるいは事前に指令を受けて、七・七歓迎大会後、デモ隊が中署、アメリカ村へデモ行進し、火焔瓶などで攻撃するはずであったことを知ったか、もしくは右歓迎大会において大須球場内で撒かれた「中署へ行け、アメリカ村へ行け」との旨の記載のあるビラを読み、同球場内でデモ隊が「中署へ行け、アメリカ村へ行け」と叫んで気勢を上げているのを見て、デモ隊が中署、アメリカ村に押しかけるはずであることを知った、(2)同球場に火焔瓶などの武器が持ち込まれ、それが分配されるのを目撃し、もしくは自ら、その分配を受けた、(3)帆足計の演説後、名大生渡辺修が「警察は三千五百の警官を動員して会場を取りまいている」とアジ演説をしたのを聞いた、以上の各事実が認められ、これによれば右被告人ら及び元被告人らが、「途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げるかも知れないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶などを投げる目的でデモ隊に参加した」ものであることは十分推定し得るところである。

もっとも原判決の挙示する証拠中、被告人纐纈伸二、元被告人朴与今、同金道弘の各検調には、「デモ隊が中署、アメリカ村へ行き、同所もしくはその途中で乱暴をする、あるいは投石すると思った」旨の供述記載はあるが右原判示の如く「途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げるかも知れないと予測しつつ、火焔瓶を投げる目的でデモ隊に参加した」ことを推定させるに足る供述記載はなく、従って原判決が右原判示の「名電報局員、民青団員、東三河及び西三河各地区祖防委より参集した者の各一部等少なくとも三十余名」の中に、右三名を含ませているとすれば、事実を誤認したものというべきである。

しかしながら右程度の事実誤認は判決に影響を及ぼすことの明らかなものというには足りないから、結局論旨は採用できない。

5  第五点、一、第四、二、(三)「(3)のグループ」について(控訴趣意書に第五点、一、第四、二、(二)とあるのは(三)の誤記と認める)

所論は要するに、原判決は、第一章、第一節、第四款、第二、二(3)において、本件デモに参加した者のうちには「日中貿易の妨害及び警察の措置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者は、その認識はないが、いずれも、その行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した者が多数あり」と認定している。右認定によれば、このグループはデモ隊の大部分を占めていたものとされているが、原判決の認定する球場出発時のデモ隊員の数、千ないし千五百名からして、このグループは少なくとも千名前後であったことになる。ところが原判決が、この多数の人々の意識の認定に用いた証拠は、僅か四名の原審証人の原審公調中の供述記載と一二名の検調に過ぎない。このように僅か一六名の者の意識から千名を超える多数の者の統一的意識を認定することが如何にして可能であろうか。しかも、このうち原審証人伊藤長先、同桑島信一、同崔奉熙の三名の原審公調中の各供述記載と佐藤八郎の検調は、いずれもデモに参加しなかった者の供述記載である。また、その各検調が証拠として挙示されている被告人一一名のうち高田英太郎、趙國來の二名は、原判決によってデモに参加したとは認定されていない者である。結局原判決がデモ参加者のうち(3)のグループの者の意識を認定するのに用いたデモ参加者の供述記載は、僅か九名のそれに過ぎないこととなる。この九名のうち被告人伊藤弘訓、同宮脇寛、元被告人杉浦登志彦、被告人金点守の四名は、原判決が第一章、第二款「被告人等の計画、準備」において、これに参画したと認定している者であって、行動においても意識においても、それぞれデモ参加者の大部分である大衆とは異質の分子であり、これによって、その大部分の者の意識を推定することは論理的に不可能である。また、原判決の挙示する前記各証拠を具体的に検討しても、その大部分は、これによって「行進途中で警官隊と衝突することを予想し」たことを認定するによしないものである。従って原判示のいわゆる(3)のグループの存在は、証拠上これを認めることができない、というのである。

しかしながら右原判示事実は原判決挙示の証拠(ただし後記の如く、その中には関連性の乏しい証拠も混在しているが)によって、これを認めるに十分である。

すなわち本件騒擾発生直前の大須球場における七・七歓迎大会の状況は、原判決第一章、第一節、第四款、第一の一、二、三認定のとおり、「会場の同志諸君」と題し、「中日貿易をやらせないのはアメ公と吉田だ、敵は警察の暴力だ、中署へ行け!!敵の正体はアメ公だ、アメリカ村え行け、武器は石ころだ!!憎しみをこめて敵に力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街え散れ」と記載したビラが演説中散布され、帆足計の演説終了後、名大生渡辺修は「……このように警察はアメリカの手先となって中日貿易を希望する国民の運動を弾圧している、今日も警察は三千五百の警官を動員して会場を取りまいている、我々は何をなすべきか、ただ行動あるのみ、我々は警察に断乎抗議をしなければならない」旨の演説をしたので、司会者伊藤長光は直ちに閉会を宣言したが、その頃、「やれやれ、やっちまえ」という叫びが起って場内が騒然となり、続いて被告人岩田弘が演壇に上り、「……日本全国民は一致団結して、この敵、吉田政府と戦わなければならない、いよいよこれからデモをやろう、スクラムを組もう」と腕を振り上げて激しい口調で叫んだところ、これに応じて場内の各所から、「そうだ、そうだ」、「やれやれ」、「警官をやっちまえ」、「デモを組め」、「中署へ行け」、「アメリカ村へ行け」などの叫びが起り、俄かに興奮状態となって、まず演壇北側の名大生三、四十名が赤旗を持って、「わっしょ、わっしょ」「デモに入れ」などと叫びながら左廻りに二、三回廻り、その後に赤旗を掲げた民青団の一団と名電報局員、その他多数が加わり、朝鮮民主主義人民共和国国旗を先頭にした他の一団が場内を左廻りに一、二回廻り、これに西三地区及び東三地区祖防委、並びに昭和区天白町方面から参集していた朝鮮人など多数が加わり、球場内を廻って気勢をあげ、両者合流して千名ないし千五百名の集団となって、午後一〇時頃、球場東門から場外へ出て行ったものである。従って右千名ないし千五百名の集団の中に、右状況を目撃して、前記原判示の如く、「中日貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者は、その認識はないが、いずれも、その行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した者」が「多数あった」ことは容易に推定し得るところであり、このことは、原判決がその第一章、第二節において認定した、その後の本件騒擾の発生、展開の態様からも窺えるところである。

原判決が挙示する前記各証拠は、原判決にいわゆる(3)のグループの意識内容に関する右認定事実を、本件騒擾発生直前の大須球場における状況の個々の目撃者及びこれれを単に目撃したのみならず本件デモに参加した者について、さらに確認したものに外ならない。以下右各証拠を検討すると、原審証人石原美代子は、大須球場における右状況を目撃し本件デモにも参加した者であるが、「学生の人が演壇に上って、ここの大須球場を警察の人が包囲しているから個人では出られない、スクラムを組んで、ここを突破するんだというふうに話があったものですから一緒にスクラムを組みました。」と述べている。所論は右石原美代子の意識は「球場から外へ出るために」スクラムに入ったというのであって、「行進途中に警官隊と衝突することを予想」していないと主張するが、同証人の意識は、右供述記載によれば、警官隊による大須球場の包囲を突破するためにスクラムを組んだというのであるるから、それ自体「行進途中に警官隊と衝突することを予想」したものというべきである。

原審証人桑島信一は、七・七歓迎大会に世話人として出席して歓迎の辞を述べた後、右大会中演壇の下にいた者であるが、本件デモ隊が大須球場外へ出て行くのを見て「何かありそうだなというような……その前にも、いろいろ各地でデモ隊との衝突事件がありましたので、あるんじゃないかという危惧は、抱いておりましたけれども、まさかと思って打消しもしたりしておったです」と述べ、原審証人伊藤長光は、本件七・七歓迎大会の司会者として右大会中演壇中上の左側の司会者席にいた者であるが、「それが九時一寸前頃だと思いますが、そこへ誰だったかが、こんなものがあるよと云って、もう一枚のビラを見せてくれました。そのビラは『敵はアメ公だ、アメリカ村へ行け』というようなことを書いた謄写刷りのビラでした。私は、それを見まして、その反抗の気持は分るが、歓迎大会において、こういう事をされては、まずいなあと思いました」、「(注、帆足計の演説後、名大の渡辺修という学生が演壇に立って)『現に、この大須の平和集会に警官が三千五、六百取り巻いているではないか、同志は中署に捕われている、かくの如き暴圧を受けて何を我々は為すべきか、ただ行動あるのみ』とアジ的にいい、『諸君、しっかりやろう』と言った程度で、アメリカ村へ行こうとか、デモをやろうとは云いませんでした」、「それで大会の空気が熱狂的な空気になって来た。自分もこういう事は経験があるので、このままで、うまく行けばいいがなあ、又まずい事にならにゃいいがと思って、『閉会』と云ったとき、元気の良い学生が気軽く演壇へ飛び上って来たのであります」、「その学生の喋った事は自分が聞いた範囲では、『諸君、いよいよ、これからデモをやろう、スクラムを組もう』と言ってアジった。それは一、二分と思うが、アジ演説を非常な元気でやったのであります。……ただ正確に言えることは、それ以上に『中署へ行け』という風には聞いていないのでありまして、警官の暴力に対抗して立上ろうというような意味の事は云ったと思いますが……すると大衆が帰って行く人もあり、又残っている人もありましたが、残っている人が演壇の周りでデモを組み始めるのもあり、わっしょ、わっしょと云いながらデモを組みました。私どもは高島君や世話人など七、八人で演壇で、これを見ているより、仕方がなく見ていましたが、暗い中でデモを組みました。そのとき高島氏も云ったのでありますが、『実にうまいことデモを組むなあ』と話し合った。暗くて、よく分らんが女の子から子供、年寄、学生、労働者が本人等は革命の予備行動のつもりでやるか知らんが、よく組むなあ、と私どもは云っていた。そして、そこで衛突せにゃいいがなあ、と考えている中に、場内を二周半わっしょ、わっしょとやり、これは普通のデモと違って軍事行動みたいに隊列を組んで行ったのであります。だから私はこれは計画してやっているなと思いました。そして一部の人が大会を乗取ろうとしてやったんぢゃ、かなわんと思って見ている中に、それらの連中は整然と東の正門から五、六分の間に出て行ってしまい、後には殆どいなくなってしまいました。」、「それは、わっしょ、わっしょと云って元気を出しておりました。……具体的にわいわい云ったのではなくて、それよりも、もっと深刻な様相で弥次馬などという様子ではありませんでした。私どもは素人の悲しさで、これを軍事教練的様相を示したと思いました」、「騒然というより自然の凄味のあるわっしょ、わっしょでした。それで蛇行とは違い、弥次馬的なものではなく底力のあるデモだと思いました」と述べている。

所論は右原審証人桑島信一、同伊藤長光は、デモ隊と警官隊との衝突について、予想にも達しない程度のかすかな不安の念を持ったに過ぎないと主張するが、右に引用した同人らの各供述記載によれば、同人らが大須球場内における緊迫した状況を目撃して、デモ隊が行進途中、警官隊と衝突することの高度の蓋然性を予想していたことが明らかである。

被告人高田英太郎は七・七歓迎大会中、大須球場にあって、その状況を目撃し、デモ行進には参加しなかったが、岩井通りにおいてデモ隊の先頭部分の南側にそって併行東進した者であって(同被告人の27・8・7付検調)、右検調において、「その時、演台に学生らしい男が上り、『……本日はこの周囲に三千五百の警官が包囲している、アメリカ村へ向え、中署へ向え』等と昂奮した話をし、しまいには誰か知りませんが、他の人とマイクを取り合って話をしました。私は3の位置で場内にまかれたビラを見ました。そのビラには『アメリカ村へ押しかける』というような事が書いてありました。私が見たところでは聴衆は三千人か四千人位で図に書いた通りプラカード、赤旗、ムシロ旗等が持ち込まれており、ムシロ旗は巾三尺長さ六尺の普通のワラで作ったムシロでありました。そして三、四千の聴衆は度々喚声を上げていたし、それ以前に宮腰、帆足の演説を利用してデモ隊が投石したりして騒ぎを起した事を新聞で見たりしていたので、この形勢では火焔瓶位は投げて相当暴れるのではないかと思いました」と述べている。所論は、同被告人の右検調の供述記載は取調官の誘導によるものであることが明らかであり、かつ、それによってはデモ隊と警官隊の衝突を、はっきり「予想」したとまではいえないと主張するが、右に引用した供述記載に誘導の形跡は認められず、また同被告人が右衝突を「予想」した事実を認めるに十分である。

被告人伊藤弘訓は、七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その27・8・26付検調において、「大学生らしい青年が司会者が止めるのも聞かずに演台に上って話をしました、それは二人が代って出ましたが、その話を一まとめにして申しますと、『……今この平和的な集りをしているのに三千何百人の武装警官が、この球場をとりまいている。この平和の集りを弾圧しようとしている。我々は、このままにしてはおれん、断然抗議をやろう、平和の獲得のために、この弾圧をはね返さねばならぬ』等といって聴衆を煽り立てるように昂奮した話をしました。球場内は数えることのできない程大勢の労働者、朝鮮人、学生がおり、この話があってから、この聴衆はハチの巣をつついたようにワーワー騒いで総立ちになって動きかけました。私も皆と一緒に立って長い火焔瓶を右ポケット、短い火焔瓶を左ポケットの中に入れました。そして学生の話を聞いて私も警官に対する憎しみの気持が湧いて来ました。又場内では初めから終いまで何度もビラが撒かれ、場内はビラが一杯落ちていました。そして赤旗、プラカード等も持込まれておりました。聴衆は皆昂奮して外には武装警官がおるからデモとなって外へ出れば武装警官と衝突してデモ隊が火焔瓶を投げ、大きな騒ぎになることが予想されました」と述べ、被告人金優は、七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その27・11・29付検調において、「帆足氏の演説が済むと、名大の学生らしいのがマイクロホンを持ち、物凄く激しい調子で、デモをやろうという意味のアジ演説をし、群衆も大声で声援を送り、又場内には多数のビラが散布されました。そのビラには『アメリカ村に行こう、石を持って投げろ』という事が書いてあり、要するに学生の演説と共に集った群集で、アメリカ村へ攻撃に行く事をアヂった意味でありました。学生のアジ演説の直前頃、私の前にいた女が、コツンと私を突きましたので見ると、私の右膝の下の辺に火焔瓶を一本、差し出してくれました。これは大きさは牛乳瓶位で紙に包んであったかも知りませんが、栓の近くの辺が少し、しめっており、この瓶の中には硫酸等が入っており投げつけると火を噴くもので、非常に危険なものだと知っておりました。これは民青の者から団員に渡されたものらしく、これから我々がワッショ、ワッショとスクラムを組んでデモ行進をして行けば、警察がやめさせようとするだろうが、実力で解散させようとして近寄って来れば、これを投げつけて反撃し、撃退する為のものだと思いました。もっとも目的の中署やアメリカ村へ行けば誰か指導者が指示するか、自ら投げつけて見れば、我々にもこれに力を合わせて、この火焔瓶を投げつけるべきものと思いました」と述べ、被告人板坂宗男は七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その27・7・24付検調において、「私が演説を聴いている間にも、男の人か女の人か判りませんが、何人かが聴衆にビラを撒いて歩き、私は③の処に、もう既にそれ迄に撒かれて散らばっているビラの一枚を拾って、ライトの薄明りで一応読んで見たのですが、その言葉のうちで今記憶に残っているのは『中署へ行け』という事だけです。……これが、その時私が拾って読んで見たビラと同じ物で、その文面を読んだことは間違いありませんが、今では、この内の中署へ行くというのだけを覚えていたわけです。私はこれを読んで、この内、中署へは行くのではないかと思いましたが、アメリカ村へ行けとか、石を投げろとか云う事は、時と場合によっては、するかも知れないし、やらないかも知れないと思いました」「デモ隊が、こうして演壇の廻りを一回位廻って私の前を通り過ぎる際、私の足もとから五、六米前の地面④に……プラカードが三本位置いてあるのが目についたので、そのうち一本を拾い上げ、デモ隊の先頭から十米位後のスクラムの中へ割り込んで」「この時のデモは前日の広小路事件不法逮捕者十二名のため中署へ抗議に押しかけるものだと思いましたから、私も皆と一緒に抗議に押しかけるべく、このデモに加わったわけですが、時と場合によっては先刻見せて戴いたビラに書いてあるような行為に出る事もあると云う事は当然頭に浮んでおりました。……最初デモ隊に参加する時は、ただデモ隊の趣旨を明確にすると云う単純な考えでしたが、いよいよ電車通りまで出て、皆の気勢が大いに上るに及んで、これでは中署へ行く迄に当然警官隊の制止を受けるであろうし、そうなれば警官隊は武器を持って我々に当ることになるであろうから、そうなれば、このプラカードも警官の攻撃に対抗して身を守るために積極的に警官隊に立ち向う際の武器として役に立つであろうという考えで持つようになりました」と述べている。

所論は右供述記載中の「時と場合によっては先刻見せて戴いたビラに書いてあるような行為に出る事もあるという事は当然頭に浮んでおりました」の部分を捉えて、取調官の誘導によるものであることは、一見して明らかであるし、右検調中に「途中で警官隊と衝突することを予想」したと認定できるような供述記載部分はないと主張するが、所論指摘の供述記載部分は、これを右検調全体の文脈において理解すれば必ずしも取調官の誘導によるものとはいえないし、右検調中に同被告人が「途中で警官隊と衝突することを予想」したことを認定し得る供述記載が存することも、右に引用した供述記載部分によって明らかである。

被告人金仁祚は、七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その第三回、27・7・29付検調において、「宮腰、帆足両氏の演説が終ってから二十五才位の学生が演壇に立上り、私達群衆に向って『この球場の廻りを三千六百人の警官が取巻いている。昨日我々同志十二名が広小路であったが警官に逮捕された。それで、その交渉に行く。スクラムを組んでデモ行進する』というような演説をしました。その演説が終って皆が総立ちになり、スクラムを組み出した訳ですが、私はこの話を聞いて、これはデモ行進して警察か市役所へ押しかけるのではないかと思いました。もしそうだとすれば、この球場の廻りを三千六百人の警官が取巻いておれば、デモ隊が、その警官と衝突するのではないかと思いました。結局結果において大須電停附近で警官と衝突し、デモ隊が火焔瓶や石を投げたり、これに対し警官が発砲したりして乱斗騒ぎになった訳ですが、私はこのようなひどい事にはならないと思っていたのでありまして、余りにも大きくなり、警察と衝突したので、びっくりした訳です。私の最初の予想ではデモ行進して警察などへ参り、当日の演説の結果を取上げて当局と交渉するが、この場合、一寸位はいざござが起る程度位しか考えておりませんでした」と述べている。所論は同被告人の認識は、当局との交渉の際、多少のいざこざがあるかも知れない程度以上に出でなかったと主張するが、同被告人のいう「多少のいざこざ」は、本件当夜に現実に起った騒擾の激しさと規模の大きさとの対比において、考察すべきであって、同被告人が、「デモ隊が行進途中で警官隊と衝突することを予想」していたことは、同被告人の供述記載の右引用部分から明らかである。

被告人金点守は、七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その27・7・20付検調において、「その演説中(注、赤松勇の演説)、十七、八才の女の子が私の見た処、四、五人皆のいる方へ来てビラをまいて行きました。そのビラを私も貰って読んで見ると、ガリ版刷のビラで、表には『裏切者赤松を大道を通すな』というような事が書いてあり、裏には『恨みをこめて中署へ行け、アメリカ村へ行け、武器は石ころに恨みをこめて投げつけろ』というようなことが書いてありましたので、私は実際こんなことが出来るだろうかと単なるアジ位に思っておりました」、「帆足さんも四、五十分同じような話をして、その後へ若い男が前日の真相を語り、警察へ抗議に行こうというようなことを話し、その中に、この人と司会者とがマイクの取り合いを始め、学生らしい人三、四名が更に演台に飛び上って前述の女の子のまいた同じような内容の中署へ行け、アメリカ村へ行こうというようなことをアヂリ、盛にやっつけろというようなことを云ってアヂリました。莚旗も、その頃、演台の後の辺に立てられました。こうして場内がわっとなると共にマイクや直接の叫び声で『四人づつ組んで下さい』『デモの中へ入って下さい』『中署へ抗議に行こう、』と呼びかけながら、演壇の東側の広い処に四、五人づつ組んだ一固まりづつが、図の線のようにぐるぐる廻り始め、観覧席の方から降りて来て、次々とスクラム組んで、固まりを作っては、そのデモ隊の後に段々について行って、三回位廻る中に五、六十米位の長さのデモ隊になって、先頭は正門から電車通りの方へ、わっしょ、わっしょと云いながら、馳け足で出て行きました。先頭には赤旗が二、三本位立っており、又プラカードも何が書いてあるのかわかりませんでしたが、先頭の方にあった真中の辺には北鮮旗も立っていたように思いました。先頭から四分の一位の処には、四、五米の竹竿を持っているのも見えました」、「問、デモ隊はどうすると思ったか。答、球場でビラを撒いたり、デモの前にアヂったりしていましたので或いはその通り中署やアメリカ村へ行くのではないかと思いました」と述べている。所論は同被告人の右検調における供述記載の真意は、前記ビラ記載のような行動は実際にはできないだろうというにあり、「或いは右ビラ記載のような事態になるのではないか」との旨の供述記載部分は、取調官の誘導によるものであることが、その記載順序から明らかであり、他に「途中で警官隊と衝突することを予想」したことに関する供述記載はないと主張するが、同被告人の右検調における供述記載から同被告人が「途中で警官隊と衝突することを予想」していたことを認定し得ることは、右に引用した供述記載部分から明らかであり、その末尾の「球場でビラを撒いたり、デモの前にアヂったりしていましたので、或いはその通り中署やアメリカ村へ行くのではないかと思いました」との供述記載も、これを全体の文脈において捉えるならば、必ずしも取調官の誘導によるものとはいえず、その真意を吐露したものと解しても決して不自然ではない。

被告人水野裕之は、七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加したものであるが、その第二回、27・7・18付検調において、「球場内で帆足さんの演説が終了してから間もなく、伊藤長光さんだったか、大学生だったか、はっきり覚えておりませんが、『只今球場は三千五、六百名の警官隊に包囲されている云々』と演説めいて話すと第二図の点の所にいた学生、朝鮮人は口々に『警官をやっつけろ、警官をのしてしまえ』というような事を大声でわめき、騒然となり、それ等の者が立ち上ったのでした。そして動き出したかと思うとスクラムを組み『ワッショ、ワッショ、デモをやれやれ』と物凄い勢で動き出したので、私はこの様子を第二図点で見ながら、これは何時もとは異った様子で、ことによったらデモ隊は警官隊と衝突するかも知れないと想像しました」、「私が点に来た頃、電車道車道上、南側歩道寄りの点で一人の大学生が、かついでいたプラカードを地べたに叩いてプラカードの板をこわし、棒だけにしてから、これを手に持っておりました。私は、この様子を見て、いよいよ、いつもと異っているなと思い、この学生は、この棒を振りまわして、ことによると警官隊と乱斗するのではないかと考え、どうなるかと思ったのですが、私の附近にいたデモ隊員は、この学生を見て何と思ったか知りませんが、依然として物凄い勢でワッショ、ワッショとスクラムを組みつつデモ行進をしていたので私も皆と一緒にかまわず、デモを続けました」と述べ、被告人林行光は七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモにも参加した者であるが、その27・8・9付検調において、「私は七月六日の真相演説を聞いていると、何かこの日の反響といったものが意外に大きいし、又この周囲には三千五、六百人もの警官が包囲していると演説をするや、場内はワーッと云って、それを多数の力でもって押し倒すんだというような興奮状態が続いている、一方ではワッショ、ワッショと掛声を上げてぐるぐる場内を廻る、その中に皆、中に入れ、中に入れと傍の者を誘い入れようとする策に、私は遂に平素の冷静な気持もなくなって、警官とデモ隊とが当然どこかの地点で大きな衝突でも起すことは、この状況を見ていると、そういう事が十分肯かれる訳で、ほとんどこの時は喧嘩腰であったと思いましたが、私も多勢の者が次から次から、これと合流して口々にワッショ、ワッショと云っているので、俺も一つデモに入って騒いでやろうという気持になった」「私は、このような事態(注、岩井通りにおける警察放送車及び乗用車の炎上等)を目のあたり見て思ったのですが、これ位のことは、あの場内の興奮状況から推して当然起り得たもので、自分の予想していた範疇で別に驚きもしなかったわけです」と述べ、右に引用した被告人水野裕之、同林行光の各検調の供述記載部分は、デモ隊が行進途中警官隊と衝突する事を予想した、いわゆる(3)のグループの意識内容を端的に物語るものである。

被告人趙國來は、本件デモには参加せず、岩井通りにおいてデモ隊の行進を目撃した者であるが、その27・8・17付検調において、「私が大須電停北東角へ行った頃は、多数のデモ隊が道路一ぱいになり、赤旗、プラカード等を持って、どんどん東へ進み、大声でしやべりながら行きました。私は、このデモ隊員は警察官と衝突し、チャンバラをするだろうと思い、様子を見ようと思っても、道路北側は余り人が多かったので、そこから前へ進む事がむづかしいと思い、勝手にデモ隊の中へくぐって行き、道路南側へ渡り、歩道を東の方へ急ぎ足で進みました」と述べている。

佐藤八郎は七・七歓迎大会の状況を目撃し、本件デモには参加せず、岩井通りの大須電停附近でデモ行進を見物していた者であるが、その27・7・28付検調において引用されている27・7・28付警調において、「学生風の男が何回も出て来まして附近にビラをバラ撒きましたので、四、五枚程ビラを拾って読んだのでありますが、その内には『敵はアメリカだ、デモが済んだら中署とアメリカ村へ行け、武器は石ころだ』という事が書いたビラがあったので、私は、そのビラを見て、その講演会が済んだら、きっとどえらい事件が起るという予感がしたのであります。丁度会場では帆足氏の講演が終ったので、こんな物凄な講演会からは早く帰らなくてはいかんと思い、……知り合いの岡田君が来ておりましたので、この岡田君を誘って⑤の辺りまで帰りかけました。その時演台の上へ上っておりました名大の学生が会場に向い、『これから宣言決議をやるから暫く帰らないでくれ』という声が聞えてきましたので⑤で私達二人は立っていますと、演台へ上った学生は、『昨日、名古屋駅へ宮腰、帆足両氏を出迎えに行き、約三〇〇人程が広小路を歩いて来ると、窓からはカービン銃を覗かせて脅した。そして警官隊によって我々の罪もない同僚が十人余り逮捕された。その者達は中署にいるから助けに行ってくれ、なお、この会場は三千六百人の武装警官が包囲している』という意味の実に激しい口調でアジ演説をやりますと、会場の中は一時に騒がしくなり、そして間もなく演台の辺りには赤旗、プラカード、莚旗、北鮮旗などを先頭にしたデモ隊が出来まして、その辺りをばワイショ、ワイショと言ってデモ行進を開始致しましたが、私達二人は①の処から外へ出たのであります。その後私は一緒にいた岡田君とも別れて暫く大須電停の少し東側の処に立って見物しておりますと、そのうちに大須球場からワイショ、ワイショと言って出て来たデモ隊は、私が予感しておりました通り、岩井通りのあたりで自動車二台を火焔瓶を投げつけて炎上させ、そして間もなく警官隊と衝突するという大事件が持ち上ったのであります」と述べている。

所論は右検調及び、これと一体を成す右警調を精査しても、そこにはデモ隊員の意識に関係のありそうな供述記載部分は全く見出だすことができず、原判決が何故にこのような証拠を挙示したのか理解に苦しむと主張する。

しかしながら右に引用した供述記載部分から明らかなように、同人は七・七大会の状況を目撃しているうちに、その緊迫した雰囲気から本件デモ隊が行進途中、警官隊と衝突することを予想しているのであって、右供述記載は前出の被告人趙國來の検調における供述記載と共に、前記原判決認定の(3)のグループの意識内容と推定する有力な資料であるといわねばならない。

なお、原判決の挙示する証拠中、原審証人崔熙の第三四四回公調中の供述記載、元被告人杉浦登志彦の27・10・29付検調、被告人宮脇寛の27・10・23付検調のうちには、同人らが本件デモに参加するに当って有した意識内容についての直接の供述記載部分はなく、その意味では関連性の乏しいものであることは所論のとおりである。所論は原判決の挙示する僅か一六名の者の証言あるいは供述調書(右のとおり関連性の乏しい証拠を除外すると一三名となる)によって、少くとも千名を越える(3)のグループの統一的な意識を認定することは、あらかじめ、その一体性を前提としない限り不可能であると主張するが、前述の如く本件デモに参加した者のうちには、行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した原判示のいわゆる(3)のグループが、所論の如く千名以上と断定する根拠は乏しいけれども、多数いたことは原判決第一章、第一節、第四款、第一の一、二、三認定の事実により客観的に十分推定し得るところであって、原判決第一章、第一節、第四款、第二、二(3)における(3)のグループに関する認定は、これを主観的側面から充足、確定したものに外ならない。そしてデモ参加者の主観的な意識内容は、参加者が多数に上る場合そのすべてについて、これを確認することは不可能でもあるし、その必要もないのである。原判決は右一三名の者について、その前出各供述記載により本件デモ隊が行進途中警官隊と衝突して本件騒擾を惹起する以前に同人らの懐いた意識内容を確認したものであるが、右は前述の本件騒擾直前の七・七歓迎大会の状況に関する客観的事実の認定と相俟って、原判示のいわゆる(3)のグループの意識内容についての原判決の認定の正当性を十分裏付けるものである。

所論は右一三名のうち、原審証人桑島信一、同伊藤長光、佐藤八郎、被告人高田英太郎、同趙國來は本件デモに参加していないから、同人らの供述記載によってデモ参加者たる(3)のグループの意識内容を認定するのは失当であると主張するが、デモ隊に直接参加しなくても、デモ隊が結成され、行進して行く経緯を目撃していた者が、そのデモ隊の行動について予想した事柄により、実際に右デモ隊に参加した者の意識内容を推定することは決して不合理とはいえない。また所論は、デモ隊に参加した者のうちでも、被告人伊藤弘訓は、昭和二七年七月六日午後、元被告人石川忠夫方で名電報局員らの火焔瓶製造を手伝い(原判決第一章、第一節、第二款、第七の七)、被告人金点守は、民愛青愛知県支部員として昭和二七年七月三日夜、呉允瑞方で、金点竜から同月七日夜、講演会終了後のデモについて指示を受けた(同第一章、第二款、第四の一)旨、それぞれ原判決により認定されている者であって、このように本件騒擾の計画、準備に参画したと認定されている者の供述記載を、当夜講演を聞きに来て、たまたま本件デモに参加した大衆を中心として構成されている(3)のグループの意識を認定する資料として使用することは、両者の意識の間に質的な差異があった筈である以上許されるべきではないと主張する。

しかしながら先に引用した右被告人らの供述記載から明らかな如く、同被告人らは七・七歓迎大会の状況を目撃したことにより(3)のグループに共通する意識を抱懐するに至ったもので、それ以前に本件騒擾の計画、準備に参画したことのみによって右意識が形成されたものとは認められないから、同被告人らの前記供述記載を(3)のグループの意識認定の資に供することに何ら不都合は存しない。論旨はいずれも採用できない。

6  第五点、一、第四、三、「デモ隊の態様と行動」について

所論は要するに、原判決は、その第一章、第二節、第一において「放送車発火後、デモ隊の一部は南側空地及びその東側路地へ逃げ込んだが、全体としては、なお行進を続けた」旨認定しているけれども、すべての証拠の示すところによれば、デモ隊の一部がさきに空地附近へ逃げこんだというような事実はなく、放送車発火後ほんのしばらくの間、デモ隊は全体として行進を続けたが、放送車附近での拳銃発射により、その部分より後のデモ隊は、一斉になだれを打ったように崩れ、これに接する山口中隊の拳銃をまじえての「突撃」により、まわりの群衆と共に総崩れになったもので、原判決の右認定は、デモ隊の分散の情況をねじ曲げ、あるいは故意に、これに触れないことによって警官隊の違法な実力行使を擁護し、これに加担するものであって、事実誤認というよりもむしろ事実認定の欠如である、というのである。

しかしながら右論旨が理由がないことは、後出の控訴趣意総論第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において詳細に説示しているとおりである。

7  第五点、一、第四、四、「デモ隊の目的と性格」について

所論は要するに、原判決の、デモ隊員の意識をはじめとするデモ隊の目的と性格に関する事実認定は、証拠に基づかず、論理法則、経験則を無視したものであり、それは、もはや事実誤認の域に止まらず、事実の歪曲、事実の創造にまで至っているというのであるが、右論旨の理由がないことは、控訴趣意総論第五点一、第四、二の論旨に対する判断において上来説示したとおりである。

8  第五点、一、第四、五、「『共同暴行脅迫意思』は存しない」について

所論は要するに、本件デモ隊には、正当な要求をかかげデモ行進をしようという憲法二一条によって保障された、犯すことのできない基本的人権である「団結意思」こそあれ、「共同暴行脅迫意思」と呼べるようなものは存しなかった、というのであるが、右論旨が理由がないことは、控訴趣意総論第一点、一、第二及び第四点、三第三の各論旨についての判断において説示したとおりである。

9  第五点、二、「デモ隊の状況及び性格―竹槍、木や竹の棒、プラカード等に関連して」の一について

所論は要するに、原判決は、第一章、第一節、第四款、第一、二、(3)において、本件当夜大須球場内に持ち込まれたプラカードの柄、木の棒、竹の棒などについて、事細かに判示しているけれども、旗やプラカードを持たないデモ隊は考えられないのであって、原判決が、このような詳細な判示をなした意図は、本件デモ隊が最初から武装し、「暴徒」としての性格を潜在させていたことをいわんとするにあり、ひいてはデモ隊全体を「暴徒」と決めつける伏線の一つであって、それは暴民思想の偏見に根差すものであるというのである。

しかしながら原判決第一章、第一節、第二款において認定した被告人らの本件騒擾の計画、準備、同第四款において認定した七・七歓迎大会の開会より騒擾発生直前までの経過、同第二節において認定した本件騒擾の経緯、第一章、第一節、第四款、第一、二、(3)に判示するプラカードの柄、木の棒、竹の棒などの多くのものの形状が後記第五点二の二に説示する如く、単なるデモに使用する旗竿もしくはプラカードの柄と目すべきではなく、暴行の用に供する目的で作製、準備されたと認めるに足ること、加うるに元被告人片山博は、その27・8・27付検調において「この球場から岩井通へ出た附近で、列から一たん離れて、道路上に、このプラカードの先の方をぶっつけて毀し、柄の棒だけにして、再びこの列に入ってスクラムを組んで行進しました」と述べ、その27・9・10付検調においては「このプラカードを△印の地点附近を通過する際、列を一旦離れて、そのそばの路上に先の方をぶっつけて壊し、柄だけにしたのです。それは前にも申した通り、敵とする警察を攻撃するための武器として使う為であります」と述べ、被告人板坂宗男は、その27・7・28付検調において、「電車通りを東へ本町通りとの十字路附近にさしかかった時、自分の前にプラカードを持っていた者や横の方にプラカードを捧げていた者達が、次々とプラカードを斜め下に降して柄の先についている板や紙枠の部分を足で取り始めたので、私もいよいよプラカードを棒にして警官の攻撃に対する武器として使うのだと感じ取ったので、同じ気持でプラカードを地面につけて足で先の枠を踏みちぎり、柄だけにして警官に対抗する同意を備えた上、一段と気勢を挙げながら、やはりその柄だけになったプラカードの棒をプラカードを持っているように立ててデモを続けたわけです」と述べ、被告人水野裕之は、その27・7・18付検調において「私がハ点に来たとき、電車道車道上南側歩道寄りのニ点で一人の大学生が担いでいたプラカードを地べたに叩いてプラカードの板を壊し、棒だけにしてから、これを手に持っておりました。私はこの様子を見て、いよいよ何時もとは違っているなと思い、この学生は、この棒を振り廻して、ことによると警官隊と乱斗するのではないかと考え、どうなるかと思った」と述べていること、以上の各事実に徴すると、原判示の木の棒、竹の棒、竹槍などは、当夜警官隊との衝突を予想し、その際の武器として使用するために前記球場内に持ち込まれたことが明らかであり、原判決が、かかる認定の下に、右木の棒、竹の棒などを詳細に判示したのは相当であって、何ら暴民思想の偏見に基づくものではない(原判決がデモ隊全体を暴徒とみなしているものではないことは既述のとおりである)。論旨は採用できない。

10  第五点、二の二について

所論は要するに原判決は、第一章、第一節、第四款、第一、二、(3)において「その頃には(注、昭和二七年七月七日午後九時四七分頃、七・七歓迎大会における帆足計の演説が終了したとき)、大須球場内に、七十糎以上の、(イ)プラカードの柄になっているもの、(ロ)プラカードの柄にされたと思われるもの、(ハ)プラカードの柄にしたとは思われないものを併せると、少くとも竹の棒十本、木の棒五十七本、一端を削って槍状にした竹二十本、一端に三寸釘等を一、二本打ちつけた木の棒五本あり、その他の木の棒十一本が持込まれ」た旨、同第四款、第三、一において、「デモ隊は岩井通りの車道及び歩道上にいた多くの群衆の中を通って、同通り南側車道の電車軌道に近い個所を東進したが、隊列所々に、百本近くの前記木や竹の棒、プラカード、プラカードを壊して木もしくは竹の棒だけにしたものを持って、『わっしょ、わっしょ』と叫びながら遅い駈足で行進し」た旨、それぞれ認定しているけれども、デモ隊員のうちの何者が右原判示の「一端を削って槍状にした竹二十本」、その他の竹や木の棒を、事前に作製、準備し、これを球場内に持ち込んだか、また岩井通り現場において、これを所持して行進したり、これを使用したかについては、これを認めるべき証拠はない、というのである。

しかしながら原判決の挙示する証拠によれば、原判示の竹棒、竹槍、木の棒など合計一〇三本が本件直後大須球場内及び岩井通りに遺棄されており、元被告人三谷昭の27・8・3付検調によれば、七・七歓迎大会の始まる直前、大須球場内の北側スタンドの辺りに長さ一米余りの、先を斜めにスパッと切って尖らした竹槍が三束あり、その竹は青くて一束が一抱えもあって、その附近に人相の悪い朝鮮人が沢山いたので、同元被告人はデモのときに使う竹槍だと思ったというのであって、右各事実に徴すると、その点について、直接の証拠がないことは所論のとおりであるが、原判示の如くデモ隊員中の相当数の者が、原判示の竹槍、竹や木の棒などを予め大須球場内に持ち込み、これを所持して岩井通りを行進したことを推定するに十分である。

所論は原判決挙示の司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、原判示の木や竹の棒、特に一端を削って槍状にした竹の棒などの遺留場所は主として岩井通四丁目八番地先空地附近であるが(所論は畠中潜作成の昭和二七年八月一八日付検証調書を援用して岩井通四丁目八番地田中方軒下附近で発見押収された竹槍三本は、本件後四〇日以上も経過してからの検証によるものであるから、どこから紛れ込んだか知れたものではないと主張するが、原判決は右検証調書を証拠として挙示しておらず、かつ右調書に記載してある竹槍三本は、同調書記載の昭和二七年八月一八日施行の検証において初めて発見領置されたものではなく、同年七月七日午後一一時三〇分頃、司法巡査永田幸治が発見領置したものである)、右空地は焼跡で竹矢来が建ててあったもので、前記菊家哲助外二名作成の検証調書添付の写真一五一ないし一六二によれば、右竹矢来には相当多数の竹が使われており、その一部分が破損して竹棒が抜けてしまっている箇所も所々見られ、写真一五一によれば、竹矢来の周囲には竹や木の棒切れと思われるもの、その他のガラクタのようなものが多数散乱しているのが認められる、従って、この空地附近で押収された竹槍、竹や木の棒などは、そこに以前から落ちていた可能性が極めて大きく、それがデモ隊の所持にかかるものであったということさえ明確に知り得るものではないというべきである、しかも右のいわゆる竹槍の太さ、長さ、切口について見ても、とうてい竹槍とはいいがたく、極く普通の竹柵、竹グイ、竹矢来の用途に使われていたものである、と主張する。

しかしながら原判決が証拠として掲げる押収の竹槍のうち、所論の如く岩井通四丁目八番地先空地附近に遺留されていたのは、証一四号ないし一六号の三本に過ぎず、他の竹槍一三本、先端を竹槍状に尖らせたプラカードの柄三本及びプラカード一本は、いずれも岩井通上の他の個所に遺留されてあったものであり、また前記菊家哲助外二名作成の検証調書添付の写真一五一ないし一六二によっても、岩井通四丁目八番地先空地に存在するのは丸太と角材で作られた柵であって、竹矢来ではなく、右写真一五一に写っている竹や木の棒と思われる物は、竹矢来から抜け落ちて、右現場に以前から散乱していたものではなくて、押収証拠物として集積され、二名の警察官がこれを監視しているものと認められる。

さらに原判決が証拠として挙示する竹槍の太さ、長さ、切口などその形状を検すると、証二二五号、同二二七号及び証一五九号を除いて、いずれも単なる竹柵、竹ぐい、竹矢来の用に供せられたと目すべきではなく、いわゆる竹槍として暴行の用に供する目的で作製されたものであることを認めるに十分である。

右証二二五号、同二二七号及び証一五九号の三本は、その形状、特に切口が単純に斜めに切り落されていて、竹矢来などの用に供されても別段不自然ではないが、前記の如く岩井通四丁目八番地先の空地には竹矢来はなく、かつ右竹竿は、その切口の部分を検しても、竹矢来などの用に供するために地中に差し込まれていた形跡が全く認められないのであるから、これを竹槍としての用に供したとしても、少しも不思議ではない。

論旨は結局採用できない。

11  第五点、二の三、四について

所論は要するに、原判決は第一章、第一節、第四款、第一、二、(4)において「名電報細胞、民青、西三河と東三河の各地区祖防委、三浦義治等によって合計約九十個の火焔瓶が球場内に持込まれた」と認定しているが、原判決の認定によれば、火焔瓶を所持していたと認められるデモ隊員は三一名、所持していた個数は五一個でデモ隊全体の構成人員約三、〇〇〇名からすれば極く少数の者に過ぎず、これによってデモ隊全体の性格を当初から暴徒と決めつけることはできないし、しかも右火焔瓶は、あくまで当時のデモ隊に対する官憲の違法な攻撃に対する防禦のために止むを得ず一部の者によって用意されたものであるに過ぎない、というのである。

しかしながら原判決挙示の証拠によれば、原判決第一章、第一節、第二款、第七の七、八、第八の一、四、(1)(2)に認定のとおり、名電報細胞、民青、西三河と東三河の各地区祖防委及び三浦義治によって合計約九〇個の火焔瓶が本件当日、大須球場内に持ち込まれていたことが明らかである。しかも球場内に持ち込まれた右約九〇個の火焔瓶、また所論のいう火焔瓶を所持していたと認められるデモ隊員の数三一名、所持していた火焔瓶の数五一個というのは、原判決が証拠上、特定して認められるとしたものに過ぎず、実際には、それ以上の数の火焔瓶が球場内に持ち込まれ、またそれ以上のデモ隊員が、それ以上の数の火焔瓶を所持していたことは、本件直後大須球場内において四個同球場外の岩井通り及びその周辺において合計二九個の未使用の火焔瓶が発見押収されていること、並びに菊家哲助外二名作成の検証調書添付の第二号図面によれば、岩井通り路上に約八六個の火焔瓶破裂の痕跡が存することから、容易に推測されるところである。

のみならず、原判決は、デモ隊員全員を本件騒擾の実行行為に参加した加担者、いわゆる暴徒と認定しているわけではなく、原判決が実行行為者として有罪と断じた原審各被告人を中心とする、本件騒擾の指揮者、率先助勢者及び附和随行者と認められる、多数のデモ参加者並びにこれに呼応した岩井通り上にいた群衆の一部から成る集団を本件騒擾の犯罪主体と認定しているに過ぎず、その点で所論が前提を欠くことは、控訴趣意総論第一点一、第一の論旨に対する判断において説示したとおりである。

さらに火焔瓶を所持していた右デモ隊員の意図が、単に官憲の違法な攻撃に対する防禦にあったのではなく、警察官からデモに対する解散措置を受けた場合、もしくは警官隊と衝突した場合には、これに対して火焔瓶を投げるというものであったことは、控訴趣意総論第五点一、第四、二、(一)、(二)の各論旨に対する判断において説示したとおりであって、論旨は採用できない。

12  第五点、三「放送車、乗用車の発火」第一「序説」第二「昭和二七年七月七日当夜の真相」、第三「放送車発火前のデモ隊の状況」について

所論は要するに、原判決が第一章、第二節、第十一結語において、「本件は多衆集合して暴行脅迫をなした結果、初めに火焔瓶が投擲された午後一〇時五分乃至一〇分頃より、警官隊の前記警備活動と、各部隊が騒擾罪を適用する旨警備本部より通達を受けてデモに参加した者全員の検挙に乗り出したため、諸所に集合していた暴徒が漸く解散して、騒ぎがほぼ静まりかけて同一一時三〇分頃までの間、西は伏見通りより東は上前津交差点に至る約六七〇米の岩井通りと、その北約一〇〇米、南約二〇〇米の一帯の地域にわたり、公共の静謐を害し、以て騒擾をしたものである」と判示し、放送車に対して初めに火焔瓶が投擲されたときより騒擾の成立を認めたのは、明らかに事実の誤認であって、右時点からデモ隊分散までの段階の真相は次のとおりである、すなわち「デモ隊が岩井通りを東進中、放送車がUターンした以後、デモ隊と放送車との距離は縮まったが、デモ隊が電車軌道を北に超えて放送車に接近して行った事実はなく、デモ隊は依然として放送車との横の間隔を縮めることなく、まっすぐ東進した。そして原判示阪野豊吉方前車道を徐行中の放送車に対し、デモ隊に潜入していたスパイ鵜飼昭光によって最初に火焔瓶が投げつけられて発火し、これに誘発された若干のデモ隊員は半ば火焔瓶を早く処分してしまいたい気持もあって放送車に対し火焔瓶等を投げつけたが、その数は投擲者、投擲物共に極く少数であり、デモ隊は(全体として)これらの投擲行為、放送車発火につき挑発に乗るなと戒め合うなどして火焔瓶投擲不容認の態度を示しながら約一〇米東進した。このとき既に山口中隊九〇名の武装警官隊がデモ隊の前方約二〇米のところに迫っており、放送車発火の直後に放送車附近にいた清水栄を含む数名の警察官が放送車附近のデモ隊に向って発砲したため、まず放送車附近及びそれより後部のデモ隊員が雪崩を打って崩れ、岩井通りの南北の歩道や原判示空地附近や岩井通りの西へ逃げ散った。そして右発砲とほとんど同時に山口中隊の拳銃発射を含む実力行使(各種の暴行を伴う突撃)によってデモ隊の先頭部分も蹴散らされ四散した。山口中隊はデモの先頭部分と接触した際に拳銃を発射しただけでなく、大須交差点に達するまで随所で拳銃を発射してデモ隊にいわれなき暴行を加え、大須交差点で反転して、東進後、空地の西北方附近においても空地に向って拳銃を発射した。原判示各乗用車は警察官の拳銃発射によってデモ隊が雪崩を打って逃げ出した直後に発火したもので、仮にそれがデモ隊員(正しくはデモ隊分散以前にデモ隊に加わっていた者)による火焔瓶投擲によって発火したものであるとしても、デモ隊が分散消滅中、もしくは消滅後の現象であり、この段階においてデモ隊員間に共同意思が存在する余地はなかったのであって、右火焔瓶投擲は騒擾罪にいわゆる共同暴行には該当しない」とした上、原判決は警察放送車に対する火焔瓶投擲が共同暴行であることの説明として、その第一章、第二節、第一において、阪野豊吉方前車道を徐行中の放送車にデモ隊列中より右及び火焔瓶が投げつけられたことを前提として、右火焔瓶投擲前にデモ隊が東進するに従い、徐々に放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に越えて接近して行った事実と放送車に最初に火焔瓶が投擲されたのに対し、附近のデモ隊員が「わあ、わあ」と喚声を挙げ、「馬鹿野郎」「税金泥棒」などと叫び、続いて火焔瓶等が投げつけられた事実を挙げているけれども、

(一)  デモ隊は、放送車発火前は勿論、発火後も五、六列の縦隊を組んで岩井通り南側車道上を上前津に向って整然と行進しており(ジグザグ行進をしていない)放送車発火に際し、デモ隊が放送車に近づいた事実はない。

(二)  デモ隊列中より最初に火焔瓶を投げつけたのは警察のスパイ鵜飼昭光であり、それに続いて若干の火焔瓶等がデモ隊列中より投げつけられたのは、極く少数のデモ隊員が右鵜飼の投擲に誘発されたためであり、その中には放送車を焼毀する目的でなく、火焔瓶の処分の一方法として投げつけられたものも少くない。しかも原判決の認定が仮に正しいとしても、投げつけられた火焔瓶の数を辛うじて計上し得るのは二三個に過ぎないし、投擲者で氏名の特定されているのは五名に過ぎない。 一方原判決はデモ隊員数を一、〇〇〇名ないし一、五〇〇名と認定しているのであるから、右火焔瓶投擲者数及び投擲された火焔瓶の数だけを見てもデモ隊全体による暴行といえないことは明白である。右比率はむしろ火焔瓶の投擲等がデモ隊全体による暴行であることを否定するものである。

(三)  放送車に最初に火焔瓶が投擲された後、仮にこれに続いて放送車に火焔瓶が投げられたとしても、その数が一四個に過ぎない以上、それ自体散発的、偶発的なものに過ぎない。

またさらに、これに引き続いて附近のデモ隊員が喚声や叫び声を挙げたとしても、「わあ、わあ」の喚声は必ずしも攻撃意図を表すものではないし、そもそも何人位の者が喚声や叫び声を挙げたかも明らかにされていない。このことによってデモ隊全体が放送車を攻撃したと解することはできない、というのである。

しかしながら原判決が、その第一章、第二節、第一に認定した事実は、所論指摘の点を含めて、原判決挙示の証拠及びその他の原審で取調べた各証拠によって、優にこれを認めることができる。

(一)  原判決第一章、第二節、第一認定の如く、デモ隊列中から最初に、岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前車道を徐行中の放送車に石及び火焔瓶が投げつけられる前に、デモ隊が東進するに従い徐々に警察放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に越えてこれに接近して行った事実については、原判決の挙示する次の各証拠、すなわち被告人張哲洙の27・9・5付、第七回検調中の「大須の十字路を越して暫く行くと、道路の右側の方に民間の乗用車二台が縦に並んで何れも西向に停車して居りましたが、その直ぐ手前あたりまで来た時、それまで全部のデモ隊が道路右側の歩道寄りの車道を進行して行ったのですが、約五十米位前方の明大生(注、名大生の誤記と認める)のデモ隊の先頭が突然進路を左に曲って電車線路を横切り道路の右側(注、左側の誤記と認める)の方に東向に停車していた箱型の警察の自動車に向ってプラカードの棒やその他棒の様なもので、その自動車の右側の窓硝子をたたき破って火焔瓶を投げ込み始め、その投げられた火焔瓶が自動車の中で破裂してパッパッパと発火するのが見受けられました」との記載、同岩田弘の27・10・6付第三回検調中の「私が再びデモ隊の先頭の元の位置に戻ってデモ隊を誘導し、E点近くに来た時、電車通りの北側車道上に緑色の白帯をしている警察のバスが出て来てデモ隊の先頭について上前津の方向に徐行しておりました。このバスが一旦停車した時だったと思います。別に私が誘導したと言うわけではありませんが、デモ隊の先頭は期せずしてE点からこの警察の自動車に対しいやがらせの意味の示威の蛇行をして少し電車の軌道を横切って自動車に近寄りました。そしてデモの先頭がこの自動車を少し通り過ぎたと思った頃、デモ隊の後方十五米位のデモ隊がくの字型に曲ったその湾曲部附近から二、三個の石が投げられ、その石が自動車に当った音が聞えたかと思った瞬間、E点附近から火焔瓶が一個投げつけられ、自動車の後の窓の硝子を破り、自動車の内部で燃え上るのを見ました。これがきっかけとなりデモ隊の中から相当数石や火焔瓶が投げられました」との記載同王洙性の27・8・7付検調中の「警察の自動車がデモ隊の先頭と並んだと思う頃に徐行しながら再び『デモ隊は解散して帰って下さい』等と放送した時に、先頭がその自動車の方へ曲って近ずいたので、丁度私がその自動車の南側の五、六米、第二図点に行った際に、私共の後方のデモ隊の中から石ころや火焔瓶等が自動車に投げつけられ、硝子の破れる音と一緒に車内が燃え出し、それと同時に自動車に向って沢山の火焔瓶が投げつけられて」との記載、伊藤栄の27・8・5付検調中の「軌道南側の車道を東進して来た私より約十米位前方のデモ隊の先頭と思われる赤旗が左方(北)へ曲ったと思った瞬間に北側車道上に居た警察の放送車内で火焔瓶が発火し、それを合図の様に多数の火焔瓶が南側にいたデモ隊の列中から集中的に投げ込まれて車内が燃え出した」との記載、原審第七九回(29・4・23)公調中の証人田中国臣の「その当時放送車は放送を繰り返しながら歩道寄りに上前津の方へ進行していましたが、当時デモ隊は軌道上にずっとあふれて縦隊となっており、先頭がヤマカ辺りに近づいた時と思いますが、その頃北側へ先頭が曲って来て、私は一、二米近くまで放送車に近いところにいましたが、その時、先頭が車に近づいて来るなと見て車の後へ廻ったとき、もう手の触れるところまで来ていました。それから之は何かあるなという感じがしました。そして私は車の北にいたので南はよく分りませんが、棒切れか何かで車体を叩くかんかんした音がして、何かわあわあ云っているうちに、ぼっと火が向う側に見えました。私から云うと放送車を距てて南側と思いますが、ぼっと火が燃え、それから石が飛んで来たようで、そのうちに放送車へ瓶が入ったと思いますが、燃え始めました」との供述記載及び原審で取調べた次の各証拠、すなわち被告人高田英太郎の27・8・7付検調中の「私はデモ隊の先頭から十米余り後側にあたるスクラムの南側にそって併行して東へ行きました。その場合デモ隊の南側はスクラムを組まない人で一杯でした。Bの位置迄来た時(注、添付図面によれば、この時デモ隊の先頭は北側軌道上にいた)デモ隊の先頭が北を向いた途端に北側に自動車があり、その車の中で火が上りました。自動車の屋根でも火が燃え上っていたから、それを見て私はデモ隊が火焔瓶を投げつけたと直感しました」との記載、同小島進の27・8・5付検調中の「私は図面の(イ)点でデモ隊に加わったのですが、それから電車道路を斜に北側車道の方にデモ隊が行進した時(ロ)点に達した頃、北側車道の歩道よりの処に徐行しておった放送車がパンパンと火焔瓶を投げられて車内の燃えているのを見ました」との記載、元被告人土屋昭二の27・7・17付検調中の「デモ隊は東進し、私が第二図⑭点(南側車道上)に来た時、先頭は電車軌道を横切るように道路の北側に移動した時、先頭に赤旗一本と莚旗一本が二本のアンドンも押し立てられてあって、その明りでよく見えました。その頃先頭附近の所で自動車一台がパッと明るくなったかと思った瞬間、燃え始めました」との記載によって、これを認めることができる。所論が反証として挙げる原審第二五一回公調中の証人板垣芳雄の供述記載中には

「97その放送車の中で五、五(注、六の誤記と認める)個燃えたわけですか。

六つか七つぐらいあったように覚えておりますが、デモ隊が通り過ぎて行くごとにほうり込んでいましたから、よくわかったです。」

「100火焔瓶を投げる人は、その放送車に近づいて投げるんですか。

いや、全然近づいておりません。放送車とデモ隊は距離があったです。

「101どのくらいの距離があったんです。

一間以上あったでしょうね。デモ隊は、たしか六列ぐらいだったと思うんですが、デモ隊を離れずにほおって行ったんです。飛んでいくのが見えたです。」との部分がある。

しかし所論も認め、原判決も第一章、第一節、第四款、第三、一で認定している如く、放送車に火焔瓶等が投げつけられる前には、デモ隊は岩井通り南側車道の電車軌道に近い個所を東進していたのであり、一方前掲の被告人小島進の27・8・5付検調によれば、放送車は岩井通りの北側車道の歩道寄りのところを徐行していた。そして原判決に添付の図面によれば、岩井通りの南側車道と電車軌道との境界線から、同通りの北側歩道の南端の線までの距離は一三・四八米(電車軌道の巾員五・〇八米、北側車道の巾員八・四〇米)であるから、原審証人板垣芳雄の前記供述記載の如く、火焔瓶を投げるデモ隊と放送車の距離が一間以上であったということは、その際デモ隊は少くとも電車軌道を北に超えて放送車に近接していたことを示すことが、右供述自体からも認められるのである(前記供述記載によれば、デモ隊は東進しながら火焔瓶を放送車に放り込んでいたというのであるから、放送車との距離はさして大きくなく、同証人の一間以上との表現は一間以上二間以下、すなわち一・八米以上三・六米以下を意味すると解される)。同じく所論が反証として挙げる原審第二一回公調中の証人田中靖治の供述記載中には

「四百十一、証人はデモ隊の前の方を進んで居たのが二、三人放送車へ火焔瓶を投げたというが、その前に放送車を取り囲んだことがありましたか。

ないと思います」との部分があるけれども、同証人は同公調中で

「三十、誰が投げたと思いましたか

隊の中から二、三人が車の近くへ寄ったとき、火災が起きたので、その人たちがやったと思いました。」

「三八、その後隊列はどうなりましたか

自動車が燃え上ったとき、大部分は丹羽果物店から空地の方へ行きました。そして一部は自動車の居る側の方へ行きました」

「百五十三、この自動車(注、放送車の謂)に二、三人近寄って来たというのは、どちらから近寄って行ったのですか。

隊の先頭の方が崩れたときに近寄って行きました。

百五十四、それはどうして崩れたと思いますか。

放送車へ近寄るために崩れたと思います。」と述べており、原判示の如く、火焔瓶投擲前にデモ隊が放送車に接近した事実を裏書きしている。さらに所論が反証として挙げる原審第二六五回公調中の証人沢田峯雄の供述記載中には、

「327、この火焔瓶の投げ込まれる前に、デモ隊の人が放送車の近くに寄ってきて、棒やなんかで車のボディをたたくというふうなことがありましたか。

そんなことはありません。そんな近くまで接近しておりませんでした。そこまで接近しては危険だからというので十字路ちょっと手前ぐらいでUターンしたんですから、ぼやぼやしておったら、我々も生きとったのか死んでるのか、それはわからんぐらいだと思います。」との部分があるけれども、これは放送車に火焔瓶が投げつけられ始める可成以前の段階の状況を述べたものと解せられる。このことは同証人が右公調の他の個所において、

「178さっき、後へ引返したということですが……。

東から西の方へ車が来て大須の本町か岩井通の十字路の十米か十五米のところで右折をしだして、そして今度はまた東の方へ向き直って広報活動をまだやっておったんですが、それから一寸また動き出したら、向うはワッショイワッショイやって来て接近した時は大体二五米位ぢゃないかと思いますが、その時に火焔瓶が後の窓の右の方から入って来たんです。それが最初で立続けに七つ位やって来たんです。」

「384この放送車に火焔瓶を投げた際、どっちの方向から投げられたんですか。

最初は西の方から東の方へ投げられて、車が東の方を向いておったから後の方のガラスを割って入ったんです。それから矢継早に連続に火焔瓶が広報車をめがけて集中攻撃をしたんだろうと思いますが、南の横ちょの方からも入っており、後からも入って来たり両方で、北の方からは入って来ませんでした。」と述べ、原審第七四〇回公判においても、

「137それは後ろから入って来たんですか。

後ろから、二つ三つ入って来て、それから自動車の進行方向右の方から四つ五つ入って来たと思います。……」

「166それから横の窓ガラスが開けてあって、そこから入って来たのは何発位と先程言われましたか。

五、六発入って来たんじゃないかと思いますが、今言ったようにしっかりした記憶がありません。

167それで車の周辺には、どういう人が、どの辺に何人位おったか分らないということですね。

車の周辺といって、その当時には一般人は車の周辺にはおらんと思います。

だから、デモ隊の人が車の周辺に来ておったに違いないんだが……。」と述べていることによっても明らかである。すなわち右供述記載によれば、原判示の如く火焔瓶投擲直前にはデモ隊は放送車に接近し、放送車の真横からも、これに対して火焔瓶を投擲しているのである。その他原審で取調べた証人等の供述記載、及び当審で取調べた証人等の証言中には、所論に沿う部分が存するけれども、右各証言はいずれも本件発生の約八年ないし約二〇年後に行われたもので、しかもその内には、放送車にデモ隊中から火焔瓶等が投擲される状況を目撃するのに必ずしも適当でない地点にいた者も相当数あって、本件発生後日の浅い時期になされている被告人張哲洙等の前掲各供述に比し証明力に乏しく、原判決の前記認定を左右するに足りない。

(二)  デモ隊列中より最初に放送車に火焔瓶を投擲したのが鵜飼昭光であるとの事実が認められないことは、後記の控訴趣旨(総論)第五点、三、第六の論旨に対する判断において説示しているとおりであり、右放送車に火焔瓶を投げつけた者が、所論の如く単に右鵜飼の投擲に誘発されたものでもなければ、火焔瓶の処分の一方法として投擲したので放送車を焼毀する目的がなかったというものでもなく、積極的な意図を以て右行為に出たことは、原判決第一章、第二節、第一認定のとおりである。

また原判決は、デモ隊員全員を、本件騒擾の実行行為に参加した加担者、いわゆる暴徒と認定しているわけではなく、その点所論が原判決を誤解していることも、控訴趣意総論第一点、一、第一の論旨に対する判断において説示したとおりである。従って原判決の認定から計上し得る投げつけられた火焔瓶の数二三個、投擲者で氏名を特定し得る者五名という数字と、原判決の認定したデモ隊員数一、〇〇〇名ないし一、五〇〇名との比率からして、右火焔瓶の投擲等はデモ隊全体による暴行とはいえないとの所論は、その前提を欠くものといわなければならない。

(三)  同様に、放送車に最初に火焔瓶が投擲された後、これに続いて放送車に投げられた火焔瓶の数が一七個(一四個ではない)に過ぎず、またこれに続いて喚声や叫び声を挙げたデモ隊員の数が明らかでない以上、このことによってデモ隊全体が放送車を攻撃したと解することはできないとの所論も、その前提を欠くものといわなければならない。

なお原判決第一章第二節第一に判示の放送車続いて乗用車に対する火焔瓶投擲等が、それ自体で騒擾罪を成立せしめるに足る共同意思による暴行脅迫であり、右共同暴行脅迫は、さらにその後の原判決第一章第二節、第二ないし第八に摘示のそれと包括的に一個の騒擾を形成するものであることは、原判決の右判示によって明らかであり、その認定が正当であることは、先に控訴趣意(総論)第一点、一、第一及び第四点、三、第三の三、四の各論旨に対する判断において説示したとおりである。結局論旨は理由がない。

13  第五点、三、第四「放送車附近からデモ隊が先ず崩れた状況」について

所論は要するに、原判決は第一章、第二節、第一において「清水栄は前記のように放送車より下車して、警護員等と放送車を裏門前町交差点東北角附近に待避させた後、……岩井通り車道の北側を百米余西に向い、……前記空地北側車道附近まで来ると、その附近では既にデモの隊列が崩れていたけれども、多数の群衆が南側の車道及び歩道上に群がっていて、空地前にあった後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があったけれども、赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し、北側軌道上に進み出た清水栄に対して盛んに投石し、うち一個が同人に当って全治五日を要する右前胸部挫傷の傷害を与えるに至ったので、同人は……西南方の前記気勢をあげていた暴徒へ向けて、拳銃五発を発射した」旨判示しているけれども、右は事実を誤認したもので、真実は、放送車発火とほとんど同時に、清水栄は右放送車から下車し、その直後に放送車附近でデモ隊に向って正当な理由もないのに拳銃を発射し、そのため放送車附近以西のデモ隊員がまず崩れたものである、というのである。

しかしながら、原判決第一章、第二節、第一の事実は所論指摘の点を含めて原判決挙示の証拠、及びその他の原審で取調べた各証拠によって、これを認めるに十分であって、原判示の如く放送車内及び道路上で火焔瓶の発火炎上によって附近のデモ隊員の一部はスクラムを解いて車道南方へ退避しようとしたため、まず放送車附近で混乱を生じたのであり、所論の如く放送車発火直後、同車から下車した清水栄が同車附近でデモ隊に発砲した事実はない。同人が発砲するに至った経緯、その時間、場所は前記原判示のとおりであり、従って放送車附近のデモ隊がまず崩れたのは、同人の拳銃発射によるものではない。

この間の事情は、特に原判決の挙示する左記の各証拠、すなわち被告人岩田弘の27・10・6付、第三回検調中の「十一、デモ隊の一部の者が警察の自動車に盛んに火焔瓶を投げつけているのを見てから、私達デモ隊の先頭のものは依然として、ワッショ、ワッショと気勢をあげながら東進し続けて居りました所、後方で全然ワッショ、ワッショと言う声がしなくなったので振返って見ると、後続のデモ隊は総崩れとなって電車通りの南北両側の歩道に逃げて私の指揮する学生の先頭の二、三十名が弧立していたので、これはいかんと思って二、三十名の先頭部隊と一緒に南側歩道上に後退し、今一度スクラムを組み直そうとしました。図面の2が只今申上げた二、三十名の学生先頭部隊で赤丸で塗りつぶしてあるのが私であります。1から2までの距離は約三十米であります。デモ隊を立て直し頽勢を挽回しようとして、2からスクラムを解いて3の歩道上に後退しました。3で二、三十名の学生がスクラムを組んで再びデモ隊を編成し直そうと私が指揮してワッショ、ワッショと気勢を上げて見ましたが、4、5点にいたデモ隊崩れの一団は、どうしても私達のデモ隊に参加する様な気配もなかったので、私はぐづぐづしていては警官隊に逮捕されてしまっては、それこそ大変だと思い、最早デモはこれまでと断念し、南側歩道附近にいたデモ隊崩れに大声で、『解散しろ、解散しろ、北側歩道上の群衆の中に逃げろ』と何回となく怒鳴りながら、3の地点から赤実線で示した様に歩道上を西へ歩き、北側歩道上7点に行きました。すると図面6と書き赤鉛筆で斜線を引いた所に大勢のデモ隊崩れが北側歩道に引上げておりました。

十二、私が3点から7点に逃げるため南側歩道を歩いていると、8点に乗用車二台が火焔びんのため盛んに燃えており、一人の学生らしい男が二台の中の一台の自動車の火を上衣か、かばんかで消しているのを見ました。そして7点に行くため電車道を横断しようとして9点に来た時、上前津の方を見ると道路一杯に拡がって警官隊がかけつけて来るのを見ました」との記載、被告人張哲洙の27・9・5付検調中の「十三、……約五十米位前方の明大生(注、名大生の誤記と認める)のデモ隊の先頭が突然進路を左に曲って電車路線を横切り、道路の右側(注、左側の誤記と認める)の方に東向に停車していた箱型の警察の自動車に向ってプラカードの棒やその他棒の様なもので、その自動車の右側の窓硝子をたたき破って火焔瓶を投げ込み始め、その投げられた火焔瓶が自動車の中で破裂して、パッパッパと発火するのが見受けられました。その時投げられた火焔瓶は二十本以上はあったと思います。

その頃デモは自ら停止して先頭の方のデモ隊がワァーと崩れて逃げ始め、その附近から四方へ散る様な具合になったのです。私達民青団の方のデモも、その状勢に押されて列が崩れて行きました。私はこれはいかんと思い、旗を横にして私の近くにいた者は手を広げたりして『列を崩すな』とか『逃げるな』とか叫んで早速ピケラインを敷こうとしたのですが、大勢はどうする事も出来ず、これはいかんと云うので皆てんでに逃げ出したのでした。十四、その様にして私達が逃げ出そうとする時でしたが、道路の南側に西向きになって停車していた民間の自動車二台、それは私の処より約十米位東寄りの処でありましたが、先頭の方から崩れて逃げて来た連中や、その附近にいたデモ隊の者達と思いますが、その二台の自動車めがけて火焔瓶をテンデに投げつけるのが見受けられ、自動車の中で火焔瓶が破裂して火を発し真赤になって燃えているのが見受けられました。

私はそれを見る間も殆んどない位に西の方に逃げ出し、その途中大須の十字路の手前附近まで来た時、警察官がピストルを十数発発射する音を聞きました」との記載、

被告人杉浦正康の27・11・13付検調中の「四、私はスクラムを組んでデモ隊の中に加わって電車道をワッショ、ワッショと叫んで東進しました。大須電停を過ぎて少し行ってから左斜前方十米位の処に警察放送車がデモ隊の先頭の方から火焔瓶を投げ込まれたのを見ましたが、尚も引続き前進して、その放送車に大分追いつきそうになった頃、放送車に多数の火焔瓶が投げつけられました。するとデモ隊の先頭が俄に逆行してドッと逃げて私達を押しまくって来ました。私は『スクラムを解くな、後を向くな』と叫びましたが最早ほどこす手もなく車道から南側歩道へ雪崩れましたので、私も仕方なく一緒に逃げました。少し逃げて車道の並木寄りまで来た時、立止って東の方に向き直り、ズボンの右ポケットより火焔瓶を一個取り出し、私の逃げて来た方向に警察官隊がおると思って、その火焔瓶を右手で力一杯投げました。

私の投げた火焔瓶は警官や、その他の物に当ったか或は爆発したか確認せず直ぐ歩道に上って西方へ逃げました。その間、自転車が何台か人と一緒に転んだのを避けたり、飛び越えたりして空地の前を少し行った時、前方の歩道寄り車道に乗用車が一台停っていて火焔瓶が投込まれた為に焔が出ていました。その頃、デモ隊等は空地の中へ入っていますので私も一緒に入りました。

五、空地の中をあちこちしている時、『スクラムを組み直してやろう』という叫び声を聞きました。私はその時の状勢を見てスクラムを組むのはまずいと思ったし、不可能だと考え、むしろ個々に戦った方が良いと考えたので、そのまま聞き捨てにしました。空地の中で直径二糎位の篠竹の束があったので警官と衝突する場合に使用すればよいと思って二米余りの物を二、三本抜き出して持っていましたが、ピストルの音を聞いて空地の中に伏せた頃、その竹は捨ててしまったのであります」との記載、被告人王洙性の27・8・7付検調中の「六、電車通へ出たデモ隊の先頭は大きな莚旗や赤旗等を持っており、前から四、五列目にいた私の附近は大部分は若い二十才前後の学生で……私も皆と一緒にワッショ、ワッショと云って進みましたが、……北側の車道を東進しながら『デモ隊は直ぐに解散して下さい』等と放送していた警察の自動車がデモ隊の先頭と並んだと思う頃に、徐行しながら再び『デモ隊は解散して帰って下さい』等と放送した時に、先頭がその自動車の方へ曲って近ずいたので、丁度私がその自動車の南側の五、六米、第二図(イ)点に行った際に、私共の後方のデモ隊の中から石ころや火焔瓶等が自動車に投げつけられ、硝子の破れる音と一緒に車内が燃え出し、それと同時に自動車に向って沢山の火焔瓶が投げつけられて附近の路上は一面に火の海のようになったので、デモ隊の先頭は崩れてスクラムを離れ、私が他の者と一緒に南側の歩道から西の方へ逃げ、空地のある角から南の通路へ逃げ込みました。放送自動車の中では二、三人の警官が必死に火を消しているのを見ました。逃げたデモ隊は南側の歩道や南へ入る道路に逃げ込みましたが、私は第二図(ロ)地点で見ておりました。

間もなく空地の少し西の電車通り南側に停っていた二台の自動車に火焔瓶が投げつけられて燃えておりました。

すると間もなく警官の射つピストルの音が七、八発したので、射たれては大変だと恐ろしくなり、少し南へ行くと……」との記載、

被告人李圭元の27・10・18付第一回検調中の「一一、……私はデモ隊と一緒に外へ駈足でワッショワッショ云いながら出て行きましたが、私より二十米位先に北鮮旗がありました。……

一二、……暫く行ってからデモ隊が前から押し返されて来ました。私は前の方で火焔瓶を投げたのが判りましたから、私も左のポケットから火焔瓶を出して右手に持ち変えて道路の左前方へ夢中で投げました。……私は投げると直ぐ後へ戻りました。すると道路の南側にセメントの高さ三尺位の土台の残っている空地がありましたから、その中へ逃げ込みました。この空地へは私の外に相当大勢の人が逃げ込んで来ました。

私が空地へ逃げ込んだ瞬間パンパンと拳銃の音を聞きましたので、直ぐに地面へ伏せました。その時、私は前道路上に民間の乗用車が一台停っているのを見ました。

私がその自動車を見た時頃から火焔瓶を投げつけたらしく燃え始めておりました」との記載、伊藤栄の27・8・5付検調中の「四、……デモ隊の先頭の一部は燃えている放送自動車の南側歩道附近に一団となり、私のいた(2)地点より西の方にデモ隊の隊列の乱れた一団がおり、これらのデモ隊はワアワア喚声を挙げたり、『ザマを見ろ、やっつけろ、やった、やった』等と罵声を浴びせて気勢を挙げておりましたが、北側車道附近にいた群衆は火焔瓶の発火するのを見て悲鳴を挙げて逃げまどい、自転車を持って倒れる者もあり、その上を踏んで行くという状態で一瞬にして修羅場となりました。……

五、私は、渡辺巡査とは火焔瓶が警察放送車に投げ込まれて現場が混乱した頃から別れてしまいましたので、一人で見取図(3)地点附近で現場の状況を見ておりました。

デモ隊は先頭の一部が南側の歩道や民家の軒下や第一銀行大須支店東側にある空地附近にも逃げ込んで喚声や罵声を挙げたり、路上や南側車道に在った乗用車二台に火焔瓶を投げつけるのが見えましたが、そのうちに二台の乗用車は燃え出しました。

その頃に見取図(2)地点附近から後方にいたデモ隊の一部は北側の歩道や本町通交差点北側附近に逃げて喚声や罵声を挙げておりましたが、その頃に東方の警察放送車附近と思いましたが、警官の拳銃の発射音が数発聞えました、と同時に南側の空地附近にいたデモ隊員が南の道路の方へ逃げて行くのが見えたので、その方面へ向って発射したと思いましたが……」との記載、及び原審で取調べた左記の各証拠、すなわち被告人山田泰吉の27・10・23付検調中の「二十、それから大須の電停を過ぎて放送車の辺まで行きました時に、放送車に向って火焔瓶がどんどん投げられ、デモ隊が少し混乱して後に下ったので、私は廻れ右をして約五十米程引き返し、丁度そこの南側に空地の様な処がありましたので群衆と一緒にその空地へ入りました。

二十一、その空地は歩道より大分高くなっていて、でこぼこがあって、石がごろごろしており、その空地に上って一分間位立ち停って電車通の処を見ておりましたが、そこで拳銃が私達の方へ発射されている音を聞きました。そして又東の方から数人の警察官が来て私達の方を向いて立止っているのを見ました。」との記載、

被告人山田順造の27・8・8付検調中の「六、その瓶を投げたのは放送車から約十米位の距離で、まだデモ隊の隊列は崩れずに、先頭が止った頃と思われた時で、私は東の方に身を向けて顔だけ放送車の方へ向けて右手で放送車の方へ投げました。……

八、そして私は自分の火焔瓶が放送車に当った処も見ず、又火を出したところも見ませんでしたが、外のデモ隊の者も投げたらしく、放送車が急に燃え出し、私はそれを見て直ぐ皆と一緒に逃げ出し、放送車と反対側の方へ逃げて、何か石や土の積んである少し高くなった凸凹のある工事中のような空地へ入り込みましたが、そこで何時の間にか小さい方の火焔瓶は落して失ってしまいました」との記載、被告人中本章の27・8・20付検調中の「二、……しばらくそのまま進むと、直ぐ北側で放送車のガラスが破れる音等が聞えるとともに火が上り、方々で火焔瓶がバンバンとはぜ始めたので南側へ逃げようと思いましたが、白ズックの右足が脱げてしまい、山田はしっかりスクラムを組んでいる為、離すわけにはいかず、そのまま山田を引張るようにして南側の歩道に上ってスクラムをといたのです。

少し西へ下った処のあたりで、持っていた火焔瓶を置いていこうと思い、その場所を捜すと露地に入る左角の家の前に自転車が四、五台あり、そのうち二、三台が重なって倒れかかっていたので、その三つ叉になった間に大きい火焔瓶を置いて、その露地を急いで南に逃げました。

その途中で誰かが『逃げるな、石を持って抵抗せよ』と叫んでいたので、道路の左側の芝生程度の草むらに手をのばして石を拾うようなかっこうで、尻ポケットに入っていた火焔瓶を置き、そのまま同じ位の距離を逃げ、左右に松の木のようなものがある近所まで行き、なお少し行ったところでピストルの音が聞えましたが……」との記載、同被告人の27・8・22付検調中の「十、そうした状態で大須電停から、しばらく進みましたら私の前の方のデモ隊が止ったかと思うと後へ押して来ました、その途端に直ぐ北側から火の手が上ったので、そちらを見るとバスのような自動車が燃え上っておりました。それと同時にデモ隊はワーワー喚声を上げたし、自動車にビンがぶつかる幾つかの音が聞えましたから、デモ隊が火焔瓶を投げたために自動車が燃え上ったことを知りました。火焔瓶は自動車の南側路上にも投げられ、道路上にも幾つも火の手が上って、私の足許にも火が出るような感じがしました。その状態はデモ隊自身が火に包まれるように見えました。そのためか、デモ隊の者も慌てふためいて南の歩道へ走りました。寿司詰めになったような人が同志討ちをするようにぶつかったりする者もありました。それは喚声を上げながら皆が走ったのであって、私もその時、皆と一緒に喚声を上げたかも知れません。そして私も、その場におると、これは自分の体にも火がつくと、とっさに思ったので、人波に押されながら南歩道へ走りました」との記載によって明らかである。要するに放送車附近からデモ隊が先ず崩れたのは、デモ隊員の中から放送車に火焔瓶が投げ込まれたことに驚き、あるいはその火焔瓶を避けようとしてデモ隊が隊伍を乱したことに起因するのである。

所論の援用する次の各証拠中には所論に沿うかの如き供述記載が存するけれども、前掲各証拠と対比し信用しがたいのみならず、右各証拠を仔細に検討すると、その内容自体、いずれも論旨を裏付けるには足りない。

すなわち原審第六九八回公調中の証人荒川次郎の供述記載のうちには「同証人はデモ隊の先頭から十番目位のところに入って行進していたが、警察放送車の真横辺りにさしかかったとき、右放送車内で発火した。デモ隊はなお進行を続けていたが、同証人の北側のずっと後方、即ち西方だったと思うがピストルの音のようなものが二回程して、その直後デモ隊の前の方が突然動かなくなり、そして後からは行進して来るために前の人にぶつかって前がつまってしまうという状態になり、前の方からだんだん組んでいる腕を外して両側へちらばって行き、証人も南側の歩道の方へ行った。そしてどうして崩れたのか、なぜ皆が逃げたのか、全然分らないが、皆がデモをやめて後方へ下って逃げるので、証人もそのまま、皆と一緒に後方、西の方に向って歩道を走って行った」旨の部分がある。

しかしながら右供述記載自体から明らかな如く、仮に同証人が聞いた約二発の銃声らしきものが、清水栄の発砲によるそれであったとしても、それは同証人、従って同人の真横の位置にあった前記放送車よりずっと後方、西の方で聞えたというのであり、しかも右放送車附近のデモ隊は右銃声によってでなく、原因の分らぬままに先頭の方から後方へ崩れて行ったというのであるから、右証言は、右放送車の発火とほとんど同時に下車した清水栄が、下車直後に放送車附近のデモ隊員に対し拳銃を発射し、そのために放送車附近以西のデモ隊員がまず崩れ、これに接して、事態を知らないで行進中のデモ隊の先頭部分に対し、既にデモ隊の前面に押し寄せていた山口中隊九〇名によって拳銃発射を含む実力行使が行われたため、デモ隊は完全に崩壊四散したとの論旨に沿うものではない。

原審第六九九回公調中の証人三輪啓の供述記載のうちには「同証人はデモ隊の先頭から二〇人か三〇人目位のところで岩井通を東進していたが、前方約四〇米の辺りで放送車に火焔瓶が投げられて車内で発火し、その頃、同証人の真横でも乗用車が二台発火していた。その時、同証人の斜後方、北西の方向約二〇米の地点に警官隊が二列か三列になって並んでおり、その中から二人が前へ出て来て、同証人に対してピストルを擬した。それでデモ隊は崩れて、同証人等は第一銀行の東方の路地を南へ逃げ込んだ。しかしデモ隊の前方は崩れておらず、きちんとしていた。逃げているときにパンパンと二発銃声を聞いた」との部分がある。しかしながら右供述自体からも明らかな如く、同証人の目撃した拳銃発射の警察官が清水栄等だとしても、その発射時は岩井通り四丁目八番地空地の北側車道上で乗用車二台が発火したときで、発射した場所も右地点より更に西北方約二〇米というのであって、右証言もまた前記論旨に沿うものとは言えない。

同様に原審第六九五回公調中の証人加藤正夫の供述記載のうちには「同証人はデモ隊の前から大体一〇番から二〇番位の間に入っていた記憶であるが、デモ隊の先頭が警察放送車より少し東にはみ出し、同証人が右放送車左斜後、かなり近いところまで近づいた頃、同証人の後から何かが投げられ、同放送車の中に火の手が上った。そのとき、同放送車に乗っていた何人かの警官が下車し、直ぐその火は消え、何人かの警察官は同放送車を押して裏門前町通り交差点の東北角の最初の電柱の辺りまで行った。デモ隊は、まだ行進を止めていなかったが、その頃、後の方でデモ隊が大きく乱れ四散した。それと前後の関係は、はっきりしないが、拳銃の発射音を何回か聞き、その直後に上前津の方から警官隊が走って来たので、同証人等は進路をふさがれた形で、致し方なく裏門前町通りを南の方へ入り込んだ」旨の部分があり、原審第七一五回公調中の証人松田貞範の供述記載のうちには「同証人はデモ隊の前から七列目か八列目にいて行進中、上前津方面から西進して来た警察放送車がUターンして東進し、同証人等の左前方に出た頃、デモ隊の前進が止り、前方、上前津方面から警官隊が電車道一杯に真っ黒になってワーッと進んで来て、二、三発ピストルの音が右警官隊の方から聞えた。同証人が驚いて振り返ったところ、後方三列目から誰もおらず、南側空地の方へ逃げ込んでいる人や西方へ戻っている人が見えた。同証人は北側へ軌道を越えて、北側歩道の群衆の中に逃げ込んだが、そのとき放送車は同証人の四、五米斜め前方にあった。警官が放送車の後に二人、横にも二人、護衛するような形でいた。その頃、火焔瓶が飛んで来て放送車の後に落ち、そのうち突然放送車の中で火が燃え出したが中の警察官が濡れ莚でこれを消した。車内で発火する前後に、放送車の周辺にいた警察官が空地へ逃げた人を拳銃を発射しながら追い込んで行った」旨の部分があり、原審第六七四回公調中の証人山部光久の供述記載のうちには「同証人はデモ隊の先頭から二、三列目にいたのであるが、放送車と並行する位置に進んだとき、放送車が燃え出して非常に騒がしくなった。その前後に既に警察隊が左側や左前方に姿を見せていた。放送車が燃え出したので非常に危険だなと感じて後を振り返ったら、後についていたと思ったデモ隊が続いていなくて、同証人の後から五、六列目から後が切れていたので、びっくりして、そこで立止っていた。後の方で何か警官隊とぶつかっていたという風に感じた。それから数秒位経って、左前方から拳銃を発射するような音が二、三発聞えて、同方向から数十名のかたまった警察官がこちらへ突進し来るのが見えたので、同証人等は、ほとんど全部西方へ逃げた」旨の部分があり、被告人野副勲の原審第七二九回公調中の供述記載のうちには「同被告人はデモ隊列の先頭から二〇番目から三〇番目までの間に入っていたのであるが、空地を少し過ぎた辺りまで行ったとき、左前方の放送車の中でパッと赤い火が上った。するとほんの一瞬のことだったが、中に乗っていた警察官が機敏な動作で、濡れた莚のようなものを拡げて、その火を消した。その次の瞬間、同被告人の前のところからデモ隊が右後方、西南の方へ崩れて来て、その時、『ピストルだ』という声を聞いた。その声を聞いて同被告人は警官がピストルを持って出て来たのではないだろうかと思った。デモ隊の人垣の向う、放送車の東の方に警官のヘルメットを見たような気がする。そこで同被告人も身の危険を感じて、南側歩道上に逃げ上り、空地の前を西の方へ全速で走った。そのとき南側車道上で乗用車が一台、火を出しているのを見た。同被告人は、さらに本町通を南へ少し入ったが、そこまで来たときピストルの発射音を三、四発づつ間を置いて二回聞いたが、それは放送車の辺りか、それより少し南へ寄った辺りで発射されたように感じた」旨の記載があるが、いずれも前記論旨、特に放送車の発火とほとんど同時に下車した清水栄が、下車直後、放送車附近のデモ隊員に対し、拳銃を発射し、そのために放送車附近以西のデモ隊員がまず崩れたとのそれに沿うものでないことが明らかである。

当審第一六回公判の証人鈴木幹久、同第二五回公判の証人後藤茂、同第四九回公判の証人海保孝、同第五九回公判の証人村上春雄の各証言中には、デモ隊に参加して行進中、前方で警察の放送自動車が発火し、なおしばらく行進を続けているうちに銃声が聞えて、同時にデモ隊列が前の方から後へ崩れて来た旨の部分が存し、所論の如く清水栄の放送車発火直後の拳銃発射によりデモ隊列が崩れたのではないかとの推測が可能であるけれども、同人等は右状況を直接目撃しているわけではない。しかも右各証言は前記各証拠とそごするばかりでなく、他の当審証人の各証言、特に≪証拠省略≫中の、デモ行進中、前方もしくは側方で警察放送車が発火するのを目撃し、間もなくデモ隊列が前方から崩れて来て、しばらくして銃声を聞いた旨の部分とも符合しないので信用しがたい。

また当審第八四回公判において、被告人丁一南は「放送車発火後間もなく、同車から一人の警官が降りて、同車の後方一〇米位のところから西方に向けて二、三発拳銃を発射したため、デモ隊は一斉に崩れた」旨供述しているけれども、同被告人は、「警察官が拳銃を発射したのは大須電停附近であった」旨も述べておりその記憶は客観的事実と相異し、不正確である。殊に同被告人の供述によれば、同被告人の二、三列位後にあってデモ行進していた被告人金仁祚は、当審第八四回公判において、「放送車が発火すると同時にデモ隊の行進が止り、後へ押されるような感じがし、デモ隊が崩れ乗用車が発火し、その後群衆は西へ行ったり、東へ行ったりして一様に動いており、警察官と何かやりあっているようだったが、その直後ピストルの音を二、三発聞いた」旨供述しており、前記被告人丁一南の供述と著るしくくい違っておるので、同被告人の右供述も信用しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

所論は、原判決が前記の如く「清水栄は前記のように放送車より下車して、……岩井通り車道の北側を百米余西に向い……前記空地北側車道附近まで来ると、その附近では既にデモの隊列が崩れていたけれども、」と認定しているところからすれば、右空地北側車道附近以外のところではデモの隊列は崩れていなかったと認定しているとしか解されないが、もしそうであるとすれば、放送車発火後、清水栄が下車して右空地北側車道附近に来るまでの間、デモ隊は行進を続けていたことになり、原判示の放送車内で発火した約一〇個の火焔瓶を警官隊が足で踏み消したり、莚で消した時間を約三分と仮定し、その他清水栄が放送車を押して退避させた後、空地北側まで西進するまでにデモ隊が約七〇米進行したとして、その行進速度を一分間六〇米と仮定した場合、約二五〇米東進したことになるから、デモ隊の先頭は既に上前津に達しているはずである、しかるに現実にはデモ隊の先頭が裏門前町の手前までしか行かないうちに警官隊によって蹴散らされているのであるから、右原判示は明らかに誤っており、清水栄が放送車下車後、数名の警察官と共に放送車附近にとどまり、下車直後に拳銃を発射したことは明らかである、と主張する。

しかしながら、デモ隊の先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたために、デモ隊列は、まず先頭部分の放送車附近で崩れたものの、なお全体としては、特にその最先端部分及び放送車附近より後方の部分は、進行を続けたが、間もなく放送車附近の混乱は前方及び後方に漸次波及して行ったものであることは前記援用の各証拠によって認定しうるところであって、原判決も右事実を判示しているものと解せられ、清水栄が前記空地北側車道に到ったときには、隊列の崩れは、警察放送車の発火した岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前附近から右地点にまで及んでいたものであって、原判決は、所論の如く、右空地北側車道附近でのみデモ隊の隊列が崩れていて、それ以下のところでは隊列は崩れていなかったなどとは判示していない。所論は、その前提において既に原判決を誤解もしくは曲解しているのである。結局原判決には所論指摘の如き事実誤認の点はなく論旨は採用できない。

14  第五点、三、第五「デモ隊の先頭部分の崩壊過程」について

所論は要するに、前記、控訴趣意(総論)第五点、三、第四において主張した如く、放送車発火とほとんど同時に清水栄が右放送車附近でデモ隊に向って拳銃を発射したため、デモ隊は先づ右放送車附近から崩れたのであるが、右拳銃発射のときには、既に山口中隊の先頭はデモ隊の先頭前面約二〇米のところに迫っており、清水栄が拳銃を発射するのとほとんど同時に、同中隊は拳銃を発射しながらデモ隊に突撃したため、デモ隊の先頭部分も蹴散らされて四散したというのである。

しかしながらデモ隊の先頭部分が崩れたのは、所論の如く山口中隊の突撃によってではなく、デモ隊の先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたためにデモ隊列がまず先頭部分の右放送車附近で崩れ、これが前方及び後方に波及して行った結果、デモ隊列の最先端部分も崩壊するに至ったものであることは、前記控訴趣意(総論)第五点、三、第四の論旨についての判断において説示したとおりであり、デモ隊の先頭集団に対し、山口中隊が拳銃を発射しながら突撃したという如き事実は認められない。このことは原判決が、その第一章、第二節、第一、第二の各事実につき援用する各証拠、特に右判断のなかで援用した被告人岩田弘の27・10・6付第三回検調、同張哲洙の27・9・5付第七回検調、同杉浦正康の27・11・13付検調、同王洙性の27・8・7付検調、同李圭元の27・10・18付第一回検調、伊藤栄の27・8・5付検調の各記載のほか、原審証人田中国臣の原審第七九回公調中の「私が裏門前町の角まで行ったとき、火焔瓶を投げつけられて炎上した放送車が裏門前町の道路を横切って一、二米行ったところで停車した。その頃、上前津の方向から、武装した警官が四列縦隊と思うが三、四十名、西に向って駈足で来て、岩井通と裏門前町が交差する辺りで、わあっと喚声を上げて、デモ隊の方へ走って行き、デモ隊の人は逐次後退しながら火焔瓶を投げていた。警官隊はデモ隊に突込んではおらず、二、三十米手前まで行って状態を見て逐次押して行くという状態ではなかったかと思う。最初到着した警官隊が私の前を通過して行って間もなく第一銀行の方向で乗用車が炎上し、その直後に、大体その方向で数発同時の拳銃の発射音を聞いた」旨の供述記載によって、これを認めるに十分である。

所論の援用する原審証人福田美智子の原審第六九五回公調中には「同証人はデモ隊の先頭近くを、これと並行して進んでいたが、デモ隊が裏門前町通の約一〇歩手前の所に来たとき、東の方から武装した警官が随分沢山来たので、デモ隊は足踏み状態になって進まなくなった。警官隊はデモ隊の先頭との距離が約二〇米になるところまで、どんどん来た。そしてその頃から何となくワッと騒然として来てパッと火の手が上って放送車の中に火がついているようなのを見たような気がする。デモ隊が足踏み状態になってから間もなくピストルが三、四発、続けざまに発射され、デモ隊は列を乱してしまい、警官隊の方からワーッと出て来たので、デモ隊は逃げた」旨の供述記載があるけれども、右公調を仔細に検討すると、「上前津の方から警官隊が来て、デモ隊の先頭が進まなくて足踏みしていたことまでは、はっきりしているが、警官隊が止ったか、突入してぶつかったのかということは分らない。それからピストルの音を聞き、その頃から、ざわざわとして来て、デモ隊のきちんとした隊列も何だか崩れて来て、見ている人達も逃げまどったりするので、何だか、ぐしゃぐしゃして来たような感じがする。そのピストルの音が、どちらの方角から聞えたかは分らない。上前津の方から来た警官隊がピストルを手にかざしていたということはない」旨の供述記載もあって、右証人の供述記載は、デモ隊の先頭集団に対し山口中隊が拳銃を発射しながら突撃したとの所論主張を裏付けるものではない。

同じく原審証人鵜川政宏の原審第七一六回公調中には、「同証人はデモ隊の先頭より少し後の位置で岩井通北側歩道を東進していたが、本町通より一本東の交差点近くまで来たとき、同証人の五〇米位東に警官隊が二、三〇名、岩井通り一杯に横隊に二重に並んで、前列が立ち膝、後列が立ってピストルを抜いて上に構えていたような記憶がある。この警官隊と東進を続けるデモ隊がぶつかる前に五、六発銃声が聞えてデモ隊が乱れ四散した」旨の供述記載があるが、右公調中には「警官隊が現実に拳銃を発射する姿、あるいは拳銃から炎が出ているのは見ていない。警官隊が並んでおって拳銃が発射された、その少し前頃に放送車が火が出たというようなことを見た記憶はない。拳銃発射によってデモ隊が崩れ、同証人も西の方へ逃げて大須球場の北門附近まで来たとき、伏見通から大須の方へ少し回った地点の南側で警察の車が燃えていて、警官がそこから飛び降りて消しているのを見た。もっとも同証人は歩道上を相当往き来したので、記憶に混乱があるかも知れない」旨の供述記載があって、本件発生から一五年後の証言のことでもあり、その記憶に前後を混同した錯誤が窺われ、必ずしも正確なものとはいえず、同証人の前記供述記載は直ちに信用しがたい。

同じく原審証人李正泰の原審第七一一回公調中には「同証人はデモ隊の中心部より前の方にいたが、放送車発火後もデモ隊全体が進み、同証人が放送車を通り越さない前に警官の黒い集団が岩井通りの北側からダーッとなだれ込んだ、警官の集団がワーッと押し寄せて来て小競合をやって、デモの隊列が崩れた前後に、放送車の附近で二、三発の銃声を聞いた」旨の供述記載があるけれども、右供述自体、デモ隊の先頭集団に対し山口中隊が拳銃を発射しながら突撃したとの所論主張とそごするものであることが明らかである。

同じく原審証人水野秀夫の原審第二五二回公調中には「同証人はデモ隊の先頭から六、七番目のところにいたが、放送車の発火後、ほんの数秒歩いたら前方からポカポカという、後で警官の拳銃発射と知った音がして前進できなかった。少しの間前方を見ていたら警官が拳銃をこっち向けて発砲しているのに気がついたので、直ぐ後の西の方へ退散した。五〇発以上の音がしたのではないかと思う。警官は道路一杯、数百名近くいたように見え、一番前列の人は低い姿勢で、次の後の人は立って拳銃を構え、一列に道路一杯に並んでいた」旨の供述記載があるけれども、デモ隊の前方に現われた警官の数が数百、右警官隊による拳銃発射音が五〇発以上という右供述記載は、前記の原審各証人のそれと比較しても誇大であるし、右公調中には「警察官が拳銃を擬してデモ隊の方に向けていたという、その手に持っているものが何かということは、そのときは分らなかったが、翌日の新聞に警察官が拳銃を発砲したと書いてあったので、あのときに拳銃を発射したんだと推測した。だから、その場所で発射されたものか、その後現場を去ってから発射されたものか、区別がはっきりしない」旨の供述記載もあって、右証人水野秀夫の証言は不正確で直ちに信用しがたい。

同じく原審証人石黒錦吾の原審第七一三回公調中には、「同証人はデモ隊の先頭から二〇列目位に入り、放送車の中から煙が出ているのを見ながら前進し、放送車を四米位通り越したとき、急に前方がぱあっと明るくなって、警官が照明弾を撃ったなと思ったら、前方に道路一杯に警官が一杯に並んで、ピストルを構えており、パンパンという音がしたので、撃たれては大変だと思って、隊をくずして後へ逃げた」旨の供述記載があるけれども、本件当夜照明弾が撃ち上げられた旨の証言は、警察官側の証人にはなく、その他の本件当夜の騒擾を目撃した証人中にも、右の如き証言をなすものは、原審証人鵜川政宏以外には存しないから(同人も明確に照明弾の撃ち上げを目撃したといっているのではなく、『照明灯で照らされたような気がします』と述べているに過ぎない)、かかる事実はなかったものと認めるのが相当であり、この点に徴しても原審証人石黒錦吾の右証言は、その記憶が不正確で、直ちに信用しがたい。

同じく原審証人春木政行の原審第七〇四回公調中には、「同証人は大須電停附近でデモ隊から離れ、岩井通四の三、西濃トラック運輸株式会社前で一服し、さらに東方へ約一〇米進んだときに、同証人の真東約二〇〇米、歩道に近いところで、火が明るくパッと出た。間もなく警官隊がデモ隊の方に向って来て、デモ隊に突込み、それから余り時間の差はないと思うが、二、三発銃声を聞いたように思う」旨の供述記載があるけれども、右公調中には「その当時、同証人は、その四、五〇米東方で炎上した警察放送車の発火も、あるいは同証人の向い側、岩井通り四丁目八番地の空地北側で炎上した乗用車の発火についても全然記憶がない」旨の供述記載もある。同証人の東方約二〇〇米の地点の発火を認めながら、その前後に、自己の四、五〇米東方の裏門前町交差点附近で炎上した警察放送車、もしくは約二〇米南方の前記空地北側で炎上した乗用車の発火に気がつかないということは(前出の弁護人の主張によっても、放送車の発火は警官隊のデモ隊突入の直前であり、乗用車の発火は、その直後ということになっており、同証人は、そのいづれをも当然目撃していなければならない)とうてい考えられないところであって、同証人の記憶は前後関係が混乱していると認められ、その証言は直ちに信用しがたい。

同じく原審証人松田貞範の原審第七一五回公調中には「警官隊が上前津の方からデモ隊に向って押し寄せて来て、ピストルを二、三発撃った」旨の供述記載があるけれども、同時に右公調中には、「同証人が警官隊の右襲撃に驚いて北側の歩道へ逃げたとき、警察放送車の中で発火し、警官が濡れむしろで押えて消していた」旨の供述記載もあって、山口中隊のデモ隊への突入と放送車発火の順序が、原判決の正当に認定したところと逆であり(所論の主張する順序とも逆である)、同証人の記憶にも混乱があると認められ、その証言も直ちに信用しがたい。

その他所論の援用する原審証人久徳高文等の各供述記載中には所論にそうものと解せられる部分も存するけれども、同証人等は、いずれも直接に山口中隊の拳銃発射を目撃しておらず、これを清水栄のそれと区別し得ないので、前記認定を左右するに足りない。

さらに当審証人田川東輝彦の当審第一五回公判における証言、同久保三郎の当審第二七回公判における証言、同李日碩の当審第三一回公判における証言、同馬場久勝の当審第三八回公判における証言中には所論に沿う部分も存するけれども、右各証言は、いずれも本件発生から約二〇年を経過してのそれであって、その記憶に錯誤、混乱が窺われ、全面的に信用しがたいのみならず、同じく本件デモに参加して、その先頭部分にあり、山口中隊のデモ隊突撃を目撃したという他の当審証人安達義弘の当審第三九回公判における証言、同中島達哉の当審第四一回公判における証言、同山田公平の当審第五三回公判における証言、同今川仁視の当審第五六回公判における証言によれば、同証人等はいずれも山口中隊のデモ隊突入直前に、その発砲を目撃せず、かつその銃声をも聞いていないというのであって、前記各証人の証言と完全に食い違っていることに徴すると、右証人等の証言中、前記所論に沿う部分は直ちに信用しがたく、他に前記認定を左右するに足る証拠は存しない。

結局原判決に所論指摘の如き事実誤認の点はなく論旨は採用できない。

15  第五点、三、第六「放送車に対し最初に火焔瓶を投げたのは警察のスパイ鵜飼昭光である」について

所論は要するに、原判決は第一章、第二節、第一において、「デモ隊の先頭が放送車をやや追越した午後十時五分乃至十分頃、デモ隊列中より岩井通四丁目四番地阪野豊吉方前車道を徐行中の警察の放送車に、石及び火焔瓶を投げつけ、これに続いてデモ隊員中から十数個の火焔瓶が右放送車に投げつけられて、右放送車内で火焔瓶が発火炎上した」旨認定しているけれども、真実は、デモ隊列中より最初に火焔瓶を投げつけたのは鵜飼昭光であり、それに続いて若干の火焔瓶等がデモ隊列中より投げつけられたのは、極く少数のデモ隊員が右鵜飼の投擲に誘発されたためである、このことは一方において、共同して暴行したのがデモ隊でなくて警官隊であったこと、そのためには警官隊の実力行使を正当づける口実が必要であり、それには放送車発火が絶対に必要であったことによって裏付けられ、他方において、当夜鵜飼昭光がデモ隊の前方に入っていて、放送車に向って火焔瓶を投擲していること、同人が当時警察のスパイであったこと、及び、当然のことながら、その後も官憲によって同人がスパイとしての待遇を受けていることによって裏付けられる、というのである。

しかしながら記録を調べても所論主張の如き事実を認めるに足る証拠はなく、右原判示認定に事実誤認の点は存しない。

一、所論は、警察側の行動において、放送車の発火は偶然のものではなく、拳銃発射の口実として、かつ拳銃発射の時期を決定するものとして不可欠であり、正に当該時点に発火しなければならなかったものであることは、デモ隊崩壊までの経過、特に山口中隊が放送車発火以前からデモ隊前面に待機し、放送車に対する火焔瓶投擲とほとんど同時に拳銃を発射したことに如実に示されている、またデモ隊の火焔瓶投擲を誘発する目的からも警察側において最初の投擲をしなければならなかったのである、本件において警察側の用意周到な捜査網及び検挙後の数々の拷問、自白強要にもかかわらず、最初に放送車に火焔瓶を投擲した者が誰であるかについて全く特定され得ないことによっても、警察側によって放送車に最初の火焔瓶が投げられたことを疑わしめるに十分である、と主張する。

しかしながらデモ隊の先頭部分が崩壊したのは、デモ隊の先頭附近の者が放送車に火焔瓶を投げつけたことがきっかけとなったのであり、山口中隊が放送車発火以前からデモ隊前面に待機し、放送車に対する火焔瓶投擲とほとんど同時に拳銃を発射した事実が存しないことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第五の論旨に対する判断において説示したとおりである。従って所論は、その前提を欠くものといわねばならない。捜査の結果、放送車に最初に火焔瓶を投げつけた者が判明せず、これを特定し得なかったからといって、警察側によって放送車に最初の火焔瓶が投げられたことを疑わしめるに十分であるとするのは、論理の飛躍というべきである。

二、所論は、(一)警察側は大須球場に集った民主勢力デモ隊が上前津に至るまでに、これをせん滅し、かつ騒擾罪による大弾圧を加える意図を持っていた、(二)そのためにはデモ隊の攻撃がない場合でも、警察側の実力行使を合法化する口実、すなわち放送車発火程度の擬似被害状況を作る必要があったこと等の諸点からも、警察側の行動上、放送車が当該時点において発火しなければならなかった必然性が裏付けられると主張する。

しかしながら記録を調べても、当時の市警本部が七・七歓迎大会後行われるデモ行進を上前津に至るまでに、せん滅し、かつ騒擾罪を適用して、これに大弾圧を加える意図があったことを認めるに足る証拠はない。むしろ原判決の挙示する証拠によれば、原判決が、その第一章、第一節、第三款において正当に認定しているが如く、本件前日の昭和二七年七月六日、帆足計、宮腰喜助の両名を名古屋駅に出迎えた後、広小路通りを無届の集団示威行進中逮捕された玉置鎰夫が所持していたメモに、「七・七歓迎大会参加者全体として二千個の火焔瓶が持たれる、名電報としては参加者は全部一個づつの火焔瓶を持って参加せよ、中核隊には更に高度の武器を持たせる」等の記載があったので、市警本部はこれを重視すると共に、その頃右大会終了後デモ隊が中署、アメリカ村を攻撃するらしいとの情報を得ていたことと、関西方面における前記帆足、宮腰両名の歓迎大会後に混乱の事態を生じたこと、及び同年六月二五日の中村県税事務所事件、翌二六日の高田派出所事件等、名古屋市内で火焔瓶を使用した暴力事件が発生したこと等を総合して警備計画を立て、七・七歓迎大会終了後、デモ隊が岩井通りを東進する場合は上前津交差点に至るまでに、本町通りを中署方面へ向う場合は同署西の中郵便局に至るまでに、岩井通りを西進する場合は伏見通りの線に至るまでに、南方へ行進する場合は東別院に至るまでに解散させることとしたのである。市警本部が右の如き状況の下に、このような警備計画を立てたことは治安の任に当る者として当然であって、これを目してデモ隊に不当な弾圧を加える意図によるものということはできないし、その実力行使を合法化する口実として放送車発火という擬似被害状況の演出を必要とするものでもない。

所論は、治安当局はデモ隊に対する不当な弾圧を予め準備して、名地検の次席検事、公安部長等首脳部は本件騒擾の現場に来て生のニュースをパトカーから聞きながら、放送車発火と乗用車発火を理由に即座に騒擾罪の適用を決定するという異例の措置を執り、市警本部は取締に際しての拳銃発射を既定の方針としていたと主張する。しかしながら、原審証人寺尾樸栄の36・1・13付尋調によれば、名地検の次席検事、公安部長らは当夜、中署に出張して、刻々の情勢について警察官から報告を聞き、デモ隊が岩井通りにおいて放送車及び乗用車に火焔瓶を投げ、民家に被害があり、警察官、一般民間人にも負傷者が出、警察官がこれを制止し、解散を命じても応ぜず、収拾できない状況に至ったというに及んで、騒擾罪が成立するものと考え、午後一〇時半か一一時頃、その適用を警察側に伝えていたものであり、また原審第三一〇回公調中の証人宮崎四郎の供述記載によれば、前記の如く同年六月二五日の中村県税事務所事件、同月二六日の高田派出所事件等、名古屋市内で火焔瓶を使用した事件が発生し、直接市民あるいは吏員に火焔瓶が投げつけられたことがあったので、当時の市警本部長宮崎四郎は、そのような場合、もしくは取締をしている警察官に火焔瓶が投げつけられるというような非常に危険な事態が起れば、従来の如き消極的な態度でなく、最後には武器を使ってもよいという覚悟で対処するとの趣旨を報道関係者に述べたものであって、いずれも適切な措置であり、何ら取締当局に事件発生前からデモ隊を不当に弾圧する意図があったことを推定せしめるものではない。

三、所論は、本件当夜私服警官や警察のスパイがデモ隊列に混って火焔瓶を投擲し得る可能性があり、デモ隊の多くの者は放送車の発火が警察の仕業であると直観したと主張する。

しかしながら原判決の挙示する証拠によれば、原判決が第一章、第一節、第三款において認定している如く、本件当日、市警本部は七・七歓迎大会における大須球場内の状況、デモが行われた場合の状況とその参加者の確認等の情報収集の目的をもって、相当数の私服警察官を右球場周辺及び右球場近くの岩井通りに配置したことは事実であり、右私服警察官が、デモ隊が右球場を出て岩井通りを上前津方面に向って東進すると、これにつき添って、その動静を監視していたことは認められるけれども、所論の如くデモ隊の中に潜入して、火焔瓶を警察放送車に投げこんだ事実は認められない。

所論の援用する原審証人押野素明、同森錠太郎、同宇都宮吉輝の各供述記載は、放送車発火の際、デモ隊の中から「挑発に乗るな」との叫び声が上ったことを根拠に、その発火は警察側によって弾圧の口実として引き起されたのではないかと思ったとの臆測を述べたに過ぎず、客観的根拠を欠いている。しかも、原判決第一章、第二節、第一認定の如く、放送車内への火焔瓶投入により、車内にいた警察官清水栄、同野田衛一郎、同沢田峰雄、同横井一男、同林惣一はいずれも軽重の差はあれ火傷を負い危険に曝されたのであって、放送車内に火焔瓶を投げ込む以上、当然このような事態は予想し得ることであり、私服警察官が弾圧の口実を作るためとはいえ同僚にこのような危害を加えることは、とうてい考え得ないところである。

四、所論は、放送車の当夜の状況についても、(一)放送車の中に濡れ莚が用意されていた事実、(二)火焔瓶投擲前に大部分の警察官が下車している事実、(三)投擲された火焔瓶を濡れ莚で、またたく間に消している事実等があり、これらは何れも放送車発火が警察によって事前に予定されていたことを明瞭に示していると主張する。

しかしながら原判決が、その第一章、第二節、第一で認定しているとおり、本件当夜、警察放送車は岩井通り四丁目四番地附近において、デモ隊員により車内に約一〇個の火焔瓶を投げ込まれて発火炎上したので、搭乗していた数名の警察官は足で踏み消したりして消火に努めたが、間もなく一、二名を残して早川大隊副官清水栄らは車外に退避して警備に当り、残った巡査野田衛一郎らは莚を使用して消火に努めたものである。

原判決の挙示する証拠、特に原審第二六六回公調中証人野田衛一郎の供述記載によれば、右放送車内にあった莚は、岩井通りに出動する際、栄町の辺りで、搭乗員の野田衛一郎が、車内へ大勢乗り込んだ場合、これを敷いて腰を降すことができると考えて持ち込んだもので、水に漬けてはなかったことが認められる。所論の援用する原審証人村若久治等の供述記載によっても、放送車の中に濡れ莚が用意されていて、これを以て火焔瓶の発火を消し止めたとか、火焔瓶投擲前に大部分の警察官が下車している等の所論指摘の事実を認めることはできない。原審第七二九回公調中の被告人野副勲の供述記載は、「むしろの濡れたようなやつをぱっと広げて、こういう風に」とか「ぬれむしろのようなものをぱっと広げてぱっとかぶせて、それで一生懸命ふんずけていました。すぐに消えたようです。」とあって、車外から見て、濡れ莚と想像したに過ぎず、それを確認したわけではない。結局、放送車発火が警察によって事前に予定されていたことを推定させるような事実は、これを認めることができないのである。

五、所論は、前記一から四の所論主張の各事実と、警察側のスパイであった鵜飼昭光の本件当夜の行動、すなわち同人がデモ隊の前の方に火焔瓶を持って入っていて、これを投げた事実を総合すると、同人が放送車に最初に火焔瓶を投げつけて発火させたことが明らかである、と主張する。

しかしながら、前記一から四の所論主張事実が認められないことは上来説示のとおりである。そして≪証拠省略≫によれば、本件当時日共党員であった鵜飼昭光は、デモ隊の先頭から一〇人か一五人位のところにあって岩井通りを行進し、附近にいた数名のデモ隊員と共に放送車に殺到して火焔瓶を投げたこと、右鵜飼は本件後の昭和二七年九月頃、深尾巡査部長と接触を持ち同人に対し共産党内の情報を提供した事実は認められるけれども、所論の如く、右鵜飼が最初に火焔瓶を投げつけたとか、同人が本件以前から警察のスパイであったとの所論主張の事実を認め得る証拠はない。

結局右鵜飼が、他のデモ隊員の行動を誘発するために、警察の意を受けて、最初に放送車に火焔瓶を投げつけたものであるとの論旨は、採用できない。

16  第五点、三、第七「放送車発火からデモ隊崩壊までの時間は数十秒に過ぎない」について

所論は要するに、放送車が発火すると、ほとんど同時に放送車の附近からデモ隊に向って拳銃が発射され、その附近から後のデモ隊員は雪崩をうったように南北の歩道や空地へ逃げ散った。そして事態が分らず、そのまま行進を続けたデモ隊の先頭部分に対し、このときまでにデモ隊の前面に押し寄せていた山口中隊九〇名によって拳銃発射を含む突撃が為され、デモ隊が完全に崩れた。放送車発火後デモ隊が進んだ距離は四米ないし二〇米であるから、山口中隊が前面に迫っていたために同中隊の拳銃発射前にデモ隊の先頭が足踏みをしていた時間を含めても、放送車発火後デモ隊が完全に崩れるまでの時間は数十秒を超えないことは明らかである。放送車に対する最初の火焔瓶投擲からデモ隊が崩れるまでの段階におけるデモ隊の行動が騒擾を構成するか否かを論ずる際に最も重要なことは、放送車に対して初めて火焔瓶が投擲されてからデモ隊が崩れるまでの時間である。これは仮に、その間にデモ隊によって暴行脅迫が行われたとした場合に、それが多衆集合して暴行脅迫をしたことに当るか否かを判断する上で極めて重要であるだけでなく、それが物的客観的な事柄である故に、事実認定を正確ならしめる上でも極めて重要だからである。しかるに原判決は、この点について全く判示しておらず、そのことが原判決の事実認定を極めて主観的恣意的なものにしている、というのである。

しかしながら所論は、放送車発火とほとんど同時に放送車の附近からデモ隊に向って拳銃が発射され、その附近から後のデモ隊員は雪崩をうって南北の歩道や空地へ逃げ散ったこと、このときまでにデモ隊の前面に押し寄せていた山口中隊によって、そのまま行進を続けたデモ隊の先頭部分に対し拳銃発射を含む突撃が為されてデモ隊が完全に崩れたこと、以上の事実を前提とするものであるところ、右事実が認められないことは、前出の控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において説示したとおりであるから、所論は、その前提を欠くものといわなければならない。そして放送車に対する火焔瓶投擲を契機にデモ隊が崩壊した経過は原判決が、その第一章、第二節、第一において正当に認定しているとおりであって、その事実摘示は、騒擾罪のそれとして欠けるところはない。のみならず、原判決はデモ隊全員を本件騒擾の実行行為に参加した加担者、いわゆる暴徒と認定しているのではないことは、これまで再三説示して来たとおりであるから(控訴趣意((総論))第一点、一、第一同第五点、三、第一、第二、第三の各論旨に対する判断等)、放送車に対する最初の火焔瓶投擲からデモ隊の崩れるまでの時間が幾何であったかは、本件騒擾罪の成否に本質的なことではなく、この点を確定判示しなかったからといって、原判決の認定が主観的、恣意的になったとするのは当らない。論旨は採用できない。

17  第五点、三、第八「警官隊の暴行」について

所論は要するに、騒擾の成否を含めデモ隊の行動を論ずる場合に、警官隊による左の如き数々の暴行、すなわち第一に放送車の発火を合図とした放送車附近及びデモ隊の前面からする理由のない拳銃発射と拳銃を発射しながらの突撃、第二に山口中隊を初めとする警官隊のデモ隊に向っての突撃の暴力的態様、第三に山口中隊を初めとする各部隊の逃げ惑うデモ隊員に対する再三の拳銃の乱射、第四に警官隊のデモ隊に対する拳銃発射が水平に、すなわち少くとも未必の殺意を以て為されたこと、以上の各事実を度外視することは絶対に許されないところであって、原判決が右各事実の認定を故意に避けたことは厳しく批判さるべきである、というのである。

しかしながらデモ隊員の多数を中心として行われた本件騒擾の実態は原判決の第一章、第二節に認定されているとおりであって、記録を調べても、その間に警官隊によって所論の如き暴行が為されたことを認めるに足る証拠はない。

(一)、所論は、警官隊の暴行の最たるものは、既述の如く放送車発火を合図とした放送車附近及びデモ隊の前面からする理由のない拳銃発射と拳銃を発射しながらの突撃である、と主張するが、かかる事実の認められないことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において説示したとおりである。

(二)  所論は、山口中隊を初めとする警官隊は、デモ隊の前方に岩井通りを塞ぐ形でピストルを構えて待機しており、デモ隊に向って喚声を上げて突込み、これに対しデモ隊は無抵抗の形で雪崩をうって四散した。しかも山口中隊等の警官隊は、混乱したデモ隊に六尺棒を振り廻して殴り込み、ビュンビュン叩き、突込み、こじ廻して、デモ隊員、市民の区別なく暴行を加えた、と主張する。

しかしながら所論のうち、山口中隊を初めとする警官隊がデモ隊の前方に岩井通りを塞ぐ形でピストルを構えて待機していた事実が認められないことは、既に控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において説示したとおりである。そして山口中隊が喚声を挙げてデモ隊の中に突入した経緯は、原判決が、その第一章、第二節、第二において詳細に認定しているとおりである。すなわち、春日神社に集結していた早川大隊の大隊長警視正早川清春は、放送車が火焔瓶で攻撃されたことを知って、各中隊に放送車の救出と暴徒鎮圧のため出動を命じたので、まず警部山口康治指揮の山口中隊が駈足で現場に向い出動し、三列縦隊で道路中央を西進し、裏門前町交差点附近で道路一杯に群って喚声を挙げていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら前記岩井通り四丁目八番地空地附近に達したところ、暴徒は同中隊に対し南及び西より火焔瓶、石、瓦等を投擲した、山口中隊は更に西進して大須交差点に達し、群衆を北、西、南へ後退させたが、附近の暴徒は激しく火焔瓶、石等を投擲した、同中隊は反転東進して前記空地前、西北方附近に達したところ、浅井忠文管理の乗用車は炎上していて、多数の暴徒は北側の歩道及び南の空地附近より同中隊に火焔瓶、石、木片等を投擲し、一部は接近して攻撃を加え、特に空地よりの攻撃は熾烈を極めたのである。

原判決の挙示する証拠によれば、山口中隊の隊員は警杖を携帯し、前記の如く暴徒を制圧、排除するために、これを使用したことは認められるけれども、所論の如くデモ隊は無抵抗のまま雪崩をうって四散したものではない。山口中隊を初めとする警官隊が暴徒を排除し、これを規制する際に、暴徒と一般群衆の区別が困難な上、混乱状態のさなかでの興奮と錯乱も加わって、一般群衆にも多少の暴行を加えた行き過ぎの行為があったことは認められるがそれによって本件騒擾の成立が左右されるほどのものではない。まして所論の如く、混乱したデモ隊に六尺棒を振り廻して殴り込み、ビュンビュン叩き、突込み、こじ廻して、デモ隊員、市民の区別なく暴行を加えたとの事実は認められない。原審第二五三回公調における証人藤田亀の供述記載中には所論に沿う部分も存するけれども、同証人は、岩井通り四丁目八番地空地東側路地の東方、一、二軒先の歩道上で、デモ隊の東進を待ち受け、同証人の前をデモ隊の先頭が通過して間もなく放送車の発火を見たというのであるが、デモ隊の方から火焔瓶や石が警官隊の方へ投げられるのを見ていない、といい、放送車の周囲から、鉄甲をかぶり長い棒を持った警官が三、四十名、デモ隊に襲いかかると同時に、放送車に火が燃え移ったように記憶する、それは放送車の陰あたりの群衆の中から湧いて出たような印象を受けた、それから東の方から四、五十名の警官がダァーと来た放送車は、、その間、西向きに停っていたと述べている。右供述記載は原判決の挙示する各証拠と対比するとき、前後の時間関係を混同して不正確であるのみならず、錯覚、誇張も多く直ちに信用しがたい。

他に右認定を左右するに足る証拠は存しない。

(三)  所論は、山口中隊を初めとする警官隊の各部隊は、単にデモ隊との衝突の当初において拳銃を発射しただけでなく、雪崩をうってあるいは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うデモ隊員に対して、何らの理由もないのに一再ならず拳銃を乱射し、各段階において発射された拳銃弾の数は原判決認定の如く少数ではない、と主張する。

しかしながら原判決の挙示する証拠によれば、原判決第一章、第二節、第一、第二認定のとおり、本件騒擾において警察官が拳銃を発射したのは、警察放送車から下車した早川大隊副官清水栄が、本件当夜午後一〇時一五分頃、前記空地北側軌道上において西南方の、空地前で炎上中の乗用車附近で気勢を上げていた暴徒に向け五発を発射したのと、同夜一〇時二〇分頃、山口中隊の隊長山口康治、隊員亀垣槓、同山川十紀夫が各一発、同柴田孝雄が三発、合計六発を、前記空地前西北方において、東南方の空地に向けて発射した二回だけで、右以外の場所で右以外の発砲が行われた事実は認められない。

所論の援用する稲木長子以下一八名の原審証人及び被告人の原審公判における供述記載も、その大部分が、デモ隊が行進中、警察放送車発火を契機にデモ隊が乱れ、その後に一回もしくは二回、一回につき、二、三発ないし五、六発の銃声を聞いたというのであって、それは原判決の認定した清水栄もしくは山口康治等の発砲に照応するものと認められる。もっとも所論の援用する原審証人水野秀夫の供述記載中には、「同人が警察放送車を二、三歩追い越したとき発火し、それからほんの数秒歩いたら前方からポカポカという拳銃を撃つ音がして、デモ隊の前進は終った。相当長い間だから五〇発以上ぢゃないかと思う」旨の部分が存するけれども、同証人の供述記載には誇張が多く、不正確で信用しがたいことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第五の論旨に対する判断の中で説示したとおりである。また同じく所論の援用する原審証人内田基大、同板垣芳男の各供述記載中には一〇発位の拳銃発射音を聞いた旨の部分が存し、右はいずれも山口康治等による合計六発の発砲を指すものと解せられるのであるが、混乱の際、とっさの間のことであり、この程度の聞き違いは十分あり得ることと考えられる。さらに所論は右各証人もしくは被告人の拳銃音を聞いた時期あるいは場所が異なっていることから、前記空地に向って拳銃が一再ならず発射されたことが明らかであると主張するが、右各証人もしくは被告人の供述は、いずれも本件後八年ないし一四年後に行われたもので細かい点について記憶の誤まり、不正確の存することは免れないところであるのみならず、騒擾の混乱中の体験であるから、その点からも錯誤の生ずることは止むを得ないところである。しかも右各証人がデモ隊に加入していた位置、あるいは放送車の発火を目撃した場所、及び放送車発火後に執った行動が各人各様である以上、銃声を聞いた場所が相異していることは、むしろ当然であって、同人等が拳銃発射を聞いた時期及び場所を異にしていることから、直ちに、前記空地に向って拳銃が発射された回数が一度や二度でなく何回にも及んだとするのは速断に失するといわねばならない。

なお当審証人内藤松雄の証言中には、「前記空地の前で乗用車二台が燃えており、三、四人が右空地から土を持って来て消していたが、上前津の方から警官隊が来るのが見えたので、その人達は南の方へ逃げ、同証人も、もう一度群衆に押されて右空地北側の店の中へ入って、その店の中でピストルの音を聞いた、一五、六発ぢゃないかと思う」旨の部分、同じく当審証人久保三郎の証言中には、「警察放送車が同証人等を追い抜いて、その後部が同証人と並んだ頃、右放送車が発火したが、デモ隊は、そのまま二、三米進んだところ、突然一〇発以上、十数発あるいは数十発の拳銃発射音が聞えた」旨の部分が存するけれども、いずれも本件後約二〇年を経過した後の供述であって、不正確であり、錯誤、誇張が混入していると認められることは前記所論援用の原審証人等の供述記載について説示したのと同様であり、前記認定を左右するに足りない。

(四)  所論は、警官隊によるデモ隊に対する拳銃発射は水平に、すなわち、少くとも未必的殺意をもって為されたと主張する。

しかしながら本件当夜の清水栄及び山口中隊の山口康治等の拳銃発射が何ら違法不当なものでなく、真に己むを得ないものであったことは、後記控訴趣意(総論)第五点、五の四、五の五の各論旨に対する判断において説示しているとおりである。

なお所論は、デモ隊が崩れた際に岩井通り車道の左側を歩道寄りに自転車を押して東進していた伊藤柳太郎が左胸部貫通の受傷をしている事実も、山口中隊がデモ隊に突込んだ時点で岩井通り西方に向って拳銃を発射していることを何よりも有力に物語っていると主張するが、右主張が理由のないことも、後記控訴趣意(総論)第五点、五の三、(二)、(三)及び五の五、(一)の論旨に対する判断において説示しているとおりである。

結局原判決に所論の如き事実誤認はなく、論旨はいずれも採用できない。

18  第五点、三、第九「デモ隊分散の状況」について

所論は要するに、警官隊の拳銃発射並びに突撃によりデモ隊は忽ちにして雪崩をうって崩壊四散し、あるいは押しつけ、あるいは叩きつけられ、デモ隊員のみならず、附近の群衆も警官隊の暴行に身の危険を感じて命からがら逃げ出し、逃げた方向も東西南北にてんでばらばらであって、その状況からしてデモ隊崩壊後のデモ隊員に意思の連絡ないし共同意思が存在し得る余地は全くなかった、従ってデモ隊崩壊後に生じた乗用車発火について共同暴行の成否を論ずる余地もないというのである。

しかしながら本件騒擾において警察放送車附近からまずデモ隊が崩れたのは、所論の如く警官隊による拳銃発射及び突撃によるものでなく、デモ隊中より右放送車めがけて火焔瓶が投げられ、これが右放送車内及びその周辺で発火炎上したため、附近のデモ隊員の一部がスクラムを解いて岩井通りの車道南方へ退避しようとして起った混乱をきっかけとしたものであることは、控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において説示したとおりである。さらに所論は、デモ隊はてんでばらばらに四散したから、右崩壊後はデモ隊員間に意思の連絡ないし共同意思の存在し得る余地はなかったと主張して、原判決が、本件騒擾の実行行為者は、いわば一個の意思共同体としてのデモ隊であると認定しているとの前提に立つもののようであるけれども、原判決は決してそのような認定はしていないことは、控訴趣意第一点、一、第一に説示したとおりであって、所論は、その前提を欠き採用できない。

19  第五点、三、第十「放送車への火焔瓶投擲等に対するデモ隊の動向と反応」について

所論は要するに、放送車発火からデモ隊が崩れるまでの段階におけるデモ隊の行動が騒擾罪にいわゆる共同暴行といい得るか否かについては、まず右段階においてデモ隊員によって、どのような暴行が行われたかが確定され、しかる後に右個々の暴行が行われた時点においてデモ隊に共同暴行の意思が存したか否かが検討されなければならない。そして後者の判断は、暴行の実行者、支援同調者の実人員、個々の暴行の行われた時間、暴行の行われた時点におけるデモ隊全体の反応と動向がチェックポイントとされるべきであり、それらの全体と、デモ隊に対する警官隊の実力行使の実態との相関関係をも慎重に検討した上で決定さるべきである。ところがデモ隊による暴行の実態に関する原判決の認定に仮に誤がないとして、その第一章、第二節、第一に認定した、放送車に最初に火焔瓶等が投げられてから、デモ隊が崩壊するまでの個々の暴行の規模内容は、火焔瓶投擲者一七名、その支援同調者七名、計二四名、投擲された火焔瓶等の数合計二三個、その時間は数十秒に過ぎず、これを原判決が認定した本件当夜のデモ隊員の総数一、〇〇〇名ないし一、五〇〇名と比較すると、右各暴行に対するデモ隊全体の反応と動向について論ずるまでもなく、右火焔瓶等の投擲が共同暴行に該当せず、騒擾が成立しないことは明らかである。しかもデモ隊の動向と反応が、右火焔瓶投擲等に対して、全くこれを容認しない態度であったことは、火焔瓶が投擲された際、挑発に乗るな、火焔瓶を投げてはならない旨戒め合い、隊列を崩すことなくスクラムを固め、放送車と約一〇米の距離を保ちながら、整然と行進を続けたことに示されている。さらにデモ隊の全長は二四〇米で、放送車は、放送車発火当時デモ隊の先頭より後方に位置していたことから、放送車発火を目撃し得たのはデモ隊の前部の者のうち、放送車より西にいた者に限定されており、デモ隊の中ごろ以降の者は放送車発火の認識すらなかったのであるから、放送車発火がデモ隊員による火焔瓶投擲の結果であるとの認識も持ち得ず、従ってデモ隊が全体として、一部のデモ隊員による放送車に対する火焔瓶等の投擲等を認識認容し、又はこれに加担する意思を持つこともあり得なかった、というのである。

しかしながら、所論は明らかに、原判決がデモ隊全員が一個の意思共同体として本件騒擾の実行行為に当ったものと認定していることを前提としているが、これが原判決を誤解するものであることは、上来反復説示して来たとおりである。従って所論はその前提を欠くものといわねばならない。しかも所論が、放送車に最初に火焔瓶等が投げられてからデモ隊が崩壊するまでの火焔瓶投擲者一七名、支援同調者七名、計二四名、投擲された火焔瓶等の数合計二三個とする各数値は恣意的であって客観的な根拠がない(所論は、原判決が、その第一章、第二節、第一で認定した「デモ隊列中より放送車に石及び火焔瓶を投げつけて火焔瓶を発火させた者」を一名ないし二名、「さらにデモ隊列中より火焔瓶を投げ込んだ者」を一名、「続いて放送車に火焔瓶、小石、コンクリート破片を投げつけた者」を元被告人片山博外四名を含む計六名、「デモ隊列中より走り出た者が放送車右側の窓ガラスを棒で叩き割り、更にデモ隊列中より火焔瓶を投げ込んだ頃、『わあ、わあ』と喚声を上げ、『馬鹿野郎』『税金泥棒』などと叫んだ者」を四名、「デモ隊員の中で『ざまを見ろ』、『やっつけろ』、『やった、やった』などと叫んだ者」を三名、「放送車に最初に投げつけられた石及び火焔瓶」を各一個、「放送車右側の窓ガラスを棒で叩き割った後に投げ込まれた火焔瓶」を一個、「続いてデモ隊員によって投げつけられた火焔瓶、小石、コンクリート破片」を一五個と、それぞれ算定しているけれども、如何なる根拠に基ずきかかる数値を算出したのか全く不明であり、原判決の挙示する証拠によれば、その人数、個数は、これを特定できないけれども、少なくとも所論の主張する数字よりも遙かに多いことは、容易にこれを窺い知ることができるのである。特に右各証拠によれば、原判決の認定したとおり「放送車附近の岩井通り道路上の諸所に多数の火焔瓶が投擲され発火炎上し」、「空地前附近より警察放送車に至るまでの道路上には、暴徒が投擲した火焔瓶による焔が諸所に燃え上って火の海のように」なったのであって、司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書添付二号図面によれば、放送車の周辺のみで二四個、放送車、空地前の乗用車の周辺には合計七五個の火焔瓶の投擲痕跡が認められるのである。所論は前記司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書が仮に証拠能力を有するとしても、添付の写真綴に写された火焔瓶の投擲痕は少数であり、また右検証調書添付の二号図面は極めて不正確で検証調書の記載自体とも合致せず、このことは右検証調書の作成に当った当時の警察官畠中潜自身、原審第一八五回公判における証言において認めているところであると非難する。右検証調書添付の写真綴が火焔瓶投擲痕の一部しか近接撮影しておらず、従って右写真によって投擲痕の正確な個数を認定し得ないこと、また右検証調書添付二号図面が、限られた紙面に広範囲にわたる騒擾現場のほとんど全景を作図したため、縮尺の比率が不正確で、特に南北に比して東西が甚しく短かきに失し、その結果、右図面に記載された火焔瓶の投擲痕、石ころ、木片等の遺留品等の相互の位置関係、距離関係が不正確なことは所論指摘のとおりである。しかしながら右検証調書添付写真一四七号、一八三号によっても放送車周辺に相当多数の火焔瓶投擲痕が存したことを窺い知ることができるし、同添付二号図面が縮尺の比率が不正確なため、右火焔瓶の投擲痕、遺留品等の記載物件の位置関係、距離関係は不正確ではあるが、右物件の存在自体の記載は当時の現場の状況に可成忠実で信頼に値することは、前記原審証人畠中潜の原審第一八五回公調中の供述記載から、これを認め得るところである)。また放送車に最初に火焔瓶等が投げられてからデモ隊が崩壊するまでの時間が数十秒に過ぎないとの所論主張が、誤った前提に基づく、客観的根拠を欠くものであることは、控訴趣意(総論)第五点、三、第七の論旨に対する判断において説示したとおりである。さらに放送車が発火してからデモ隊が崩れるまでの過程の実態は、デモ隊が東進するに従い放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に超えてこれに接近し、その先頭附近の者がこれに火焔瓶、石等を投げつけたため、デモ隊列は、まず先頭部分の放送車附近で崩れたものの、なお全体としては、特にその最先端部分及び放送車附近より後方の部分は進行を続けたが、間もなく放送車附近の混乱は前方及び後方に漸次波及して行ったもので、所論主張の如き状況でなかったことは控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の各論旨に対する判断において説示したとおりである。また原判決の挙示する証拠及び原審及び当審において取調べた各証拠によれば、放送車の発火はデモ隊の中ごろ以降の参加者にも認識し得る状態であって、現にこれを認識しつつ敢てデモ行進を続けた者も相当数あったことが認められる。もとよりデモ隊に参加した者でも、放送車の発火を認識せず、認識しても本件騒擾に加わる意思も行動もなかった者は、その刑事責任を追及されることのないのは当然であるし、原判決も、原審被告人中このように認定した者に対しては無罪を言渡しているのである。なお所論は、原判決は、第一章、第二節、第一において「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお行進を続け」と判示して、右事実をデモ隊の個別的暴行に対する認容として捉えているかの如くであるが、かかる見解はデモ隊即潜在的暴徒とするいわゆる暴民思想そのものであり、そこには憲法で保障されている表現の自由、デモ行進の自由等に対する理解が全くないと論難する。

しかしながら放送車発火からデモ隊が崩れるまでの状況は前記の如く控訴趣意(総論)第五点、三、第四の論旨に対する判断において説示したとおりであり、所論摘示の原判示部分は右状況を認定説示したものと解されるのである。

もっとも原判決第一章、第二節、第一に摘示されている通り「全体としてはなお行進を続け」た者のうちには、被告人杉浦正康の如く「スクラムを解くな、後を向くな」と叫び、あるいは被告人張哲洙の如く、持っていた旗を横にして「列を崩すな」「逃げるな」と叫んで積極的にデモ隊列の後退を防ごうとした者、その他原判決第一章、第四節、第三、第四において摘示されている被告人らの多数の如く、放送車の発火を認識しながら、これと共にする意思をもって、なおデモ行進を続けた者もあり、これらの者は、いずれも「個別的暴行を認容」したものと解されるのであるが、原判決の前記摘示部分は、デモ隊が崩れるに至るまでの過程をありのままに認定説示したに過ぎず、それ自体直ちに「全体としてなお行進を続け」た者全員を、「個別的暴行を認容した」者とみなしているわけでもなければ、ましてデモ隊即潜在的暴徒と考えているわけでもないことは控訴趣意(総論)第一点、一、第二に対する判断において説示したとおりである。所論は、その点において原判決を誤解もしくは曲解しているものというべきである。

結局論旨は、いずれの点からしても理由がなく、採用できない。

20  第五点、三、第十一「乗用車を発火させたのは警察である」について

一、所論は要するに原判決は、第一章、第二節、第一において「清水栄は前記のように放送車より下車して、警護員等と共に放送車を裏門前町交差点東北角附近に退避させた後、さきに下車した部下の安否を気遣うと共に暴徒を逮捕する目的で、岩井通北側の車道の北側を百米余西に向い、途中火焔瓶一、二個石数個を投げつけられて、前記空地北側車道附近まで来ると、その附近では既にデモの隊列は崩れていたけれども、多数の群衆が南側の車道及び歩道上に群がっていて、空地前にあった後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があったけれども、赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し、北側軌道上に進み出た清水栄に対して「盛んに投石し、うち一個が同人に当って全治五日を要する右前胸部挫傷の傷害を与えるに至ったので、同人は自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受け、かつ暴徒がなお乗用車に火焔瓶を投入しようとするような勢を見て、これを防止するためには拳銃を発射する以外に方法がないと判断し、午後十時十五分頃右軌道上より、西南方の前記気勢をあげていた暴徒へ向けて拳銃五発を発射したところ、これらは前記空地及び西方に後退した」と判示している。

しかし控訴趣意(総論)第五点、三、第五に述べたように、放送車発火直後の警官隊の、デモ隊の前面からの拳銃発射によってデモ隊が全面的に崩れ、その直後に乗用車が発火したもので、放送車の発火の遅くも一、二分後に、まず原判示西側の乗用車が発火したものと見るべきであって、燃えている乗用車附近には、人はまばらにしかいなかったし、警官隊が拳銃を発射しようとして狙っている空地の方向には群衆はいなかった上、清水栄が拳銃を発射した時期の認定が事実に反するものであることは前記控訴趣意(総論)第五点、三、第四、一において論証したとおりであるから、右原判示認定は事実無根である。そして原判決が、もっぱら依拠している清水栄の原審証言によれば、同人は放送車の発火後二分間、警告文を読み、野田巡査が消火した後で放送車を後から押して行って衝突して停ってから、西へ追いかけて行ったのであるから、その頃にはデモ隊は既に四散して逃げた後であり、乗用車も発火した後であるはずであるのに、同人が空地附近まで来てから乗用車が発火したと述べており、同証言は、この点においても明らかに事実に反しており、また同証言は乗用車に火焔瓶が投げ込まれたときの状況について具体的な供述をしておらず、この意味でも信用できない、というのである。

しかしながら原判決第一章、第二節、第一の判示事実は所論指摘の部分を含めて原判決挙示の証拠によって、これを認めるに十分であり、放送車発火直後に清水栄が放送車附近にいたデモ隊に向って拳銃を発射し、その直後にデモ隊の前面の警官隊の拳銃を発射しながらの突撃によってデモ隊が全面的に崩壊したとの所論の前提事実が、これを認め得ないものであることは、控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の論旨に対する判断において既に説示したとおりである。

所論の援用する原審証人岡部福松、同久徳高文、同板垣芳雄、同内田基大、同本多順、同丹羽鈴子、同新村徹、同藤原三郎、同水野秀夫、同三輪啓の各供述記載は、何ら所論主張の事実を裏付けるものではない。

原審証人松田俊博の供述記載中には「同証人が路地をまわって岩井通の空地の北側の附近に出た時は燃えている乗用車の附近には人がまばらにしかいなかった」旨の部分、同井並勲の供述記載中には「警官隊が拳銃を発射しようとして狙っている空地の方向には群衆がいなかった」旨の部分が存することは所論のとおりであるけれども、右は原判決が第一章、第二節、第一の事実認定の証拠として掲げるもの、特に清水栄作成の名古屋市警察本部防犯部長早川清春宛27・7・8付無届デモ取締状況報告書及び原審証人清水栄の原審第一〇八回公調中の供述記載と対比し信用しがたい。殊に前記証人松田俊博の供述記載には、「大須電停北側で警察放送車が発火した」旨、「上前津の方からワァーと喚声を上げて警官隊が来て、デモ隊らしき人の一部が燃えていた乗用車の南側の空地へダッと逃げ込むと、その逃げ込んだあとへ警官がワァと来て拳銃を発射し、それから一応行動を中止して、隊列を整えて上前津の方へ戻ったとうっすら記憶している、それから西の方へ来なかった」旨の各部分、また前記証人井並勲の供述記載中には「同証人が空地へ逃げ込んだとき、巡査がたくさんいて、三、四人が空地に向けてピストルを撃っていた旨の部分があり、右証人松田俊博には相当記憶の混乱が認められるほか、同証人及び前記証人井並勲とも、警官の空地へ向けて拳銃を発射するのを目撃したのは、いずれも清水栄のそれではなく、原判決第一章、第二節、第二に判示する山口中隊の隊員山口康治、亀垣槓、山川十紀夫、柴田孝雄によるそれではないかと解されるので、同証人らの前記各供述記載は前記原判決認定を左右するものではない。

放送車発火後、清水栄が右放送車を裏門前町交差点東北角附近に退避させた後、岩井通車道の北側を一〇〇米余西に向い原判示空地北側車道、乗用車の附近まで来るのに要した時間は原判決の挙示する証拠によれば、二、三分ないし、せいぜい五分位と認められ、また放送車発火後、乗用車に対して火焔瓶が投げつけられてこれが発火するまでの時間については、原審証人岡部福松の原審第七〇九回公調中の供述記載によれば二、三分もない、一分位とあり、被告人王洙性の原審第七三九回公調中の供述記載によれば一、二分か三分位とあり、これらの主観的時間感覚は必ずしも全面的に依拠するには足りないけれども、原判決の挙示する証拠によれば、せいぜい一、二分で、放送車発火後余り間のない時点であったことは所論のとおりと認められる。従って清水栄が前記の如く右乗用車附近に来たときは、原判決もその第一章、第二節、第一末段において認定している如く、附近の群衆の中には右乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があり、さらに乗用車に放火しようとする気勢を示している者もあったのである。この点清水栄の前記報告書、原審公調中の供述記載は必ずしも明確ではなく、特に原審第一〇八回公調中の供述記載、同第一三一回公調中の供述記載中には、同人が引返して前記空地前に到ったとき初めて火焔瓶が右乗用車に投げつけられたものであるかの如く解せられる部分があることは所論のとおりである。しかし右部分も、その前後の文脈の下に検討すると、必ずしも右趣旨に理解せねばならぬものではなく、当時同人は混乱の渦中にあって、同人が右空地前に到達する以前の右乗用車に対する火焔瓶による攻撃については、十分これを確認しておらず、その点についてのはっきりした意識もなく、同人が認識したのは、同人が右現場に到着した際に新たに投げつけられた火焔瓶であったと解することもできる。仮に同人が、そのとき初めて右乗用車に対する火焔瓶攻撃が開始されたものと認識したとしても、右にも述べた如く、混乱の渦中にあったこととて、その程度の誤認もあり得ないことではなく、その故を以て、その供述全体が証明力を失うものではない。また同人の右各供述記載が乗用車に火焔瓶が投げ込まれたときの状況について具体的でないことは、この場合特にその必要性が認められない以上、その証明力に消長を及ぼすわけではない。

所論は原判決が前記の如く、「その附近(注、空地北側車道附近)では既にデモの隊列が崩れていたけれども、多数の群衆が南側の車道及び歩道上に群がっていて、空地前にあった後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があったけれども、赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し」と判示する部分は極めて難解であって、まず原判決のいう後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があった時点では乗用車は既に発火していたという趣旨なのか明瞭でない、原判決が続いて、その後これを消していた二、三名があったけれども、と判示しているところを見ると、右火焔瓶を投げつける者の投擲によって乗用車が発火したようでもある、原判決のいう「赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し」との部分にいわゆる「さらに」とは他の乗用車に対して、さらにの意味か、後藤信一管理にかかる乗用車に対して、さらにの意味かも明らかでないので、一層難解である。しかし、いずれにしても「放火しようとする気勢を示し、」とあるところからすると、当該乗用車はその時点では発火していなかったように解される、しかし原判決は、他の所では、「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお進行を続け、その一部は前記空地の東北角車道に駐車してあった後藤信一管理にかかる、熱田タクシー株式会社所有の『愛三の三〇一一』黒色ラファイエット乗用車一台のボンネット及び屋根の部分に、火焔瓶三個を投げつけて発火させた」旨判示しているから、右の理解は原判決の右判示部分と完全に矛盾することになる、原判決を矛盾なく理解しようとすると、空地附近の南側の車道及び歩道上に群がっている群衆中、後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があった時点では、乗用車は既に二台共燃えていたと解するほかはない。しかしそのように解すると清水栄の前記証言と完全に牴触するというのである。

しかしながら原判決の右判示部分は特に難解でもなければ、相互に矛盾牴触するものでもない。右原判示部分の意味するところは、まずデモ隊の先頭附近の者が警察放送車に火焔瓶を投げつけたために、デモ隊は最初先頭部分の放送車附近で崩れたものの、なお全体としては進行を続け、その後間もなく前記空地附近で乗用車に火焔瓶が投げつけられて右乗用車も発火し、同時に放送車附近の混乱は前方及び後方に漸次波及して行ったものであって、前記清水栄が放送車を東方に退避させて、反転し、原判示空地北側車道に到ったときには、附近のデモ隊員及び南側車道及び歩道上の群衆の中の暴徒によって既に火焔瓶が後藤信一の管理する乗用車に投げつけられて発火し、右群衆中にはこれを消していた者も二、三名いたけれども、右暴徒はさらに右乗用車及びその西側にあった浅井忠文の管理する乗用車にも火焔瓶を投げつけようとしていた、その頃デモ隊の崩れは既に右乗用車附近のデモ隊にも及んでいたけれども、その後部は未だ前進を続けようとしていて、デモ隊全体としては、なお進行を続けていたとみなし得る状態にあったというのである。原判決を素直に読めば右のとおりに理解されるのであって、右認定が原判決の挙示する証拠の裏付けによって正当であることは、前記の控訴趣意(総論)第五点、三、第四の論旨に対する判断において説示したとおりである。原判決が「さらに乗用車に放火しようとする気勢を示し」と判示している「さらに」とは「後藤信一管理の乗用車及び浅井忠文管理の乗用車の双方に対して「さらに」との趣旨、「放火」とは「火焔瓶を投げつけて炎上させる」との趣旨であることに疑を容れる余地はない。また清水栄の原審公判における供述記載中に、右認定と牴触するとも解し得る部分が存するけれども、それが右供述記載全体の証明力を減殺し、ひいては右認定を左右するに足るものではないことは前述のとおりである。

所論はさらに、原判決は一部のデモ隊員が乗用車の消火に当っていた事実を認定しながら、それがその附近のデモ隊員全体の意思の現れである事実を故意に無視し、右消火に当ったデモ隊員を一部の限られた者の行為として、その周辺のデモ隊員と切断している、しかも極めて不当にも、右消火に当ったデモ隊員を警官隊が拳銃を発射して追い払った事実を隠蔽していると主張する。

しかしながら、原判決が、その第一章、第二節、第一において正当に認定しているとおり、デモ隊中の一部の者が岩井通四丁目八番地空地北側車道に駐車していた二台の乗用車に火焔瓶を投げつけて発火炎上させたもので、そのなかにはデモ隊列に加わって岩井通りをデモ行進した被告人李聖一、同林元圭が確認されているのであって、原判示の如く、後藤信一管理の乗用車の発火を消していた二、三名の者があっても、同人らが所論の如く、その附近のデモ隊全体の意思を体現したものとは認められず、また消火に当ったデモ隊員を警官隊が拳銃を発射して追い払った事実も認められない。所論の援用する原審証人加藤秀郎、同谷川浩、同山崎定輝、同新村徹、同板垣芳雄、同藤田亀、同山田太三、同小島耕之助、同松田俊博、同井並勲の各供述記載によっても、所論主張の事実を認めるに足りない。

右原審証人加藤秀郎の供述記載中には、乗用車の消火に当っていた者は一〇人か二〇人であった旨の、同谷川浩のそれには、五、六人であった旨の、同新村徹のそれには七、八人であった旨の、同板垣芳雄のそれには、四、五人であった旨の各部分が存するけれども、同小島耕之助のそれには、二、三人であった旨の、同山田太三のそれには一、二名であった旨の部分が存するほか、原判決の挙示する証拠中、岩田弘の第三回、27・10・6付検調、林學の27・10・31付検調、原審証人田中靖浩の供述記載、原審証人田中真治郎の供述記載のうちには、いずれもそれは一名であった旨の、原審証人三輪啓の供述記載のうちには、それは二人位であった旨の、同大塚喜久の供述記載のうちには、それは一、二名か二、三名であった旨の各部分があり、以上を総合すると、原判決の乗用車の炎上を消火していた者が二、三名あった旨の認定は正当であると認められ、これが附近の多数の群衆の意を体し、それを代表して消火活動に従事していたとの所論主張は、特に原判決が第一章、第二節、第五、五に認定している如く、岩井通において右乗用車の消火に努めていた中消防署橘出張所所属の消防車に対し、附近の暴徒が、数個の火焔瓶を投擲して、これを妨害した事実に鑑みると、とうてい採るを得ないのである。

なお所論は、右乗用車の発火は、放送車の発火と共に騒擾罪適用の理由とされているが、発火中の乗用車に対する警官隊の行動(デモ隊の消火活動を拳銃を発射して阻止したこと)によって、騒擾罪適用の口実を作るために警官隊において故意に乗用車を長く炎上せしめたことが明らかである、当夜上前津交差点から水主町交差点に至るまで、臨時の交通整理に当る警官隊が夕方から配置され、デモ隊出発と同時に右区間の交通が遮断されていたことは証拠上明らかであるが、それにもかかわらず原判示の二台の乗用車だけが空地の前に並んで停車していたこと、乗用車発火についても誰が最初に火焔瓶を投擲したかが明らかにされていないこと、乗用車が不自然に長く燃えていたことは、放送車発火からデモ隊崩壊までの状況と相俟って警官隊が単に乗用車の長期間燃焼を計っただけでなく、騒擾罪適用の口実を作り出すために自らが乗用車に火を放ち、消火活動に当るデモ隊を追い払ってまでして一定時間燃え上らせた事実を示すものである、と主張する。

しかしながら清水栄が拳銃を発射するに至った経緯は原判示のとおりであって、デモ隊の乗用車発火の消火活動を阻止するためではなく、また原審証人浅井忠文の供述記載によれば、同人は本件当日、原判示「愛三の二〇一三二」の乗用車を原判示空地北側車道に置いて大須球場で帆足、宮腰の演説会を聞き、演説が終った後、大須の梅屋という喫茶店に行き、本件騒擾が始まるまで同所にいたものであり、同後藤信一の供述記載によれば、同人は本件騒擾の始まる二〇分位前に右空地北側車道に原判示「愛三の三〇一一」の乗用車を置いたものであって、いずれもそれはデモ隊が球場を出発して、上前津交差点から水主町交差点に至るまでの臨時の交通整理に当った警官隊が右区間の交通を遮断する以前のことであるし、右浅井忠文の管理にかかる乗用車の炎上が不自然に長時間であったとも認められない。そして乗用車発火について誰が最初に火焔瓶を投擲したか明らかでないからといって、そのことから直ちに警官隊が自ら右乗用車に火を放ったものとするのは速断に失し、その他証拠を調べても、所論主張の如き事実を認めるに足る資料は存しない。

結局論旨は理由がなく、採用できない。

21  昭和四六年二月二七日付追加控訴趣意書(総論)第五点、「事実誤認」三、「放送車、乗用車発火」について

一、所論は、その一「警察の謀略による放送車発火」において、原判決第一章、第二節、第一認定の放送車の発火の真の原因は、検察、警察、一体となった計画的弾圧遂行のため、右放送車に乗車していた警察官自らの手によって内部から発火させたものであって、警察側のスパイ鵜飼昭光らの最初の右放送車に対する火焔瓶の投擲は、右放送車の発火がデモ隊の行為に基づくものであるとの印象を与えるための謀略にほかならなかった、と主張し、その根拠として、(一)原判決の認定自体によっても、デモ隊は全体としては「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なう」ことを基本的な目的としており、このようなデモ隊にとって、放送車を発火させるようなことは、全く不必要なばかりか、かえって有害であること、(二)放送車とデモ隊とは大須交差点から発火地点までの約一五〇米の距離を平行して東進し、その間変ったことは何一つ起っていないこと、(三)一方警察側は、事前にデモ隊が上前津方面に行進するという情報に基づき、これを上前津の線までの間に、拳銃発射を含む実力行使によって解散させ、これに騒擾罪を適用して一大弾圧を加えるという計画を持っており、この警察側にとっては、放送車の発火は、攻撃の口実として、なくてはならぬものであって、放送車の発火した岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前は、デモ隊の出て来た大須球場東端と上前津交差点とのほぼ中間、警官隊の待機していた春日神社から約一三〇米の距離にあり、上前津の線までの間にデモ隊に対し実力行使をするという計画にとっては絶好の地点であったこと、(四)デモ隊崩壊までの経過、特に山口中隊が放送車発火以前からデモ隊前面に待機し、放送車発火とほとんど同時に拳銃を発射したこと、以上の各事実を挙げている。

しかしながら、(一)原判決が第一章、第一節、第四款、第二において正当に認定しているようにデモ隊に参加した者は、(1)被告人姜泰俊、同南相萬、同岩田弘ら少くとも二〇名位の如く、デモは上前津方面に向うが、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げる、との認識の下にデモ隊に参加した者、(2)名電報局員、民青団員、東三河及び西三河各地区祖防委より参集した者の各一部など少くとも三〇余名の如く、途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶もしくは石などを投げる目的でデモ隊に参加した者、(3)日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なって、(イ)ある者は中署又はアメリカ村へ行くことを認識し、(ロ)ある者は、その認識はないが、いずれも、その行進途中に警官隊と衝突する事を予想しながら、敢て参加した多数の者、(4)右(3)と同様の抗議のため上前津もしくは金山橋その他へ行進して解散すると予想して参加した者、に大別され、右(1)から(3)の意識の下にデモ隊に参加した者は、所論の如く、単純に「日中貿易の妨害及び警察の処置に対する抗議のためデモを行なう」ことのみを目的としていたのではなく、そのデモの途中、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるという認識、あるいは警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかも知れないとの予測、もしくは警官隊との衝突の予想を、それぞれ懐いていたのであるから、原判示第一章、第一節、第四款、第三、二認定の如く、デモ隊の前方を、「このデモは無届デモで公安条例に違反するから速かに解散するよう勧告する、このまま行進すると上前津の線までにおいて警察は強力な実力行使をする」旨繰返し放送している警察放送車に対して、これらの者のうちから火焔瓶を投げつける者の出ることは当然あり得ることであり、事実原判示第一章、第二節、第一のとおり、岩井通りにおいてデモ隊の先頭が徐々に警察放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に越えてこれに接近して行き、デモ隊の先頭が右放送車をやや追い越したときに、これらの者のうちから右放送車に火焔瓶を投げつける者が出て来たのであって、その中には右(1)のグループに属する元被告人片山博、被告人多田重則、(2)のグループに属する被告人伊藤弘訓、同岩月清が確認されている。右の者らにとっては、放送車を発火させることは、少くとも主観的には所論の如く全く不必要でもなければ、有害でもなかったのである。(二)デモ隊が大須交差点から放送車発火地点まで東進して行って、右地点で、その一部の者が放送車に火焔瓶を投げつけるに至った経緯について原判決の認定した事実及び右認定が正当であることは、右(一)において説示したとおりであって、それは決して所論の如く平穏無事なものではなかった。(三)本件当夜、警察側に所論の如く、デモ隊を上前津の線までの間に、実力行使によって解散させ、これに騒擾罪を適用して弾圧する計画があったとの所論主張事実が認められないことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第六の論旨に対する判断において説示したとおりであって、警察放送車が岩井通四丁目四番地阪野豊吉方前附近に至ったとき、デモ隊中より、これに火焔瓶を投げつける者があり、発火炎上した経過は前記(一)に説示したとおりである。それは何ら、所論の如く、警察側の攻撃の口実として不可欠のものでもなければ、デモ隊に対して実力行使をするという計画にとって絶好の地点であったと解すべきでもなかった。(四)デモ隊の崩壊が、放送車発火以前からデモ隊前面に待機し、右発火とほとんど同時に拳銃を発射した山口中隊の攻撃によって生じたとの所論主張事実が認め得ないものであることは、既に控訴趣意(総論)第五点三、第四及び第五の論旨に対する判断において説示したとおりである。

結局、放送車発火の真因は、右放送車に乗車していた警察官自らの手による内部からのものであり、警察側のスパイ鵜飼昭光らの最初の右放送車に対する火焔瓶の投擲は、右放送車の発火がデモ隊の行為に基づくものであるとの印象を与えるための警察側の謀略であるとの所論の推定を裏付ける各事実は、いずれも是認し得ないものであるから、右主張はその前提を欠くものといわなければならない。

なお、鵜飼昭光が、当時警察のスパイであったこと、及び右放送車に最初に火焔瓶を投げつけたのが同人であったとの各事実を認めるに足る証拠がないことも先に控訴趣意(総論)第五点、三、第六の論旨に対する判断において説示したとおりである。

二、所論は、その二「内部発火の隠ぺいを黙過した原判決」、三「火焔瓶の侵入経過不明の原判決」において、原判決は、その第一章、第二節、第一冒頭において「デモ隊は東進するに従い徐々に警察放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に越えてこれに接近して行ったが、デモ隊の先頭が放送車をやや追越した午後十時五分乃至十分頃、デモ隊列中より、大須交差点の東約百四十米の岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前車道を徐行中の放送車に、石及び火焔瓶を投げつけ、これが後部の窓を破り車内に入って、火焔瓶が発火し、次いで同隊列中より走り出た者が放送車右側の窓硝子を棒で叩き割ると、さらにデモ隊列中より火焔瓶を投込み、附近のデモ隊員は『わあわあ』と喚声をあげ、『馬鹿野郎』、『税金泥棒』等と叫び、続いてデモ隊員はさらに右放送車に火焔瓶、小石、コンクリート破片を投げつけたのであるが、その際、元被告人片山博、全甲徳は各二個、被告人伊藤弘訓、同岩月清、同多田重則は各一個の火焔瓶を投げた。そのため、放送車の後部及び右側窓附近に各三個、屋根に一個の火焔瓶が命中して発火し、車内には十個位の火焔瓶が投込まれて発火炎上した」と認定し、司法警察員菊家啓助外二名作成の検証調書の五、(19)には、放送車に関し、「該車の後部車体に三個、右側の窓附近に二個、右側の窓硝子の附近に三個、屋根に一個、それぞれ投擲されており、後の右側の窓硝子戸一枚、右側の上窓硝子戸四枚が破損しており、内部の右側の長腰掛全部は硫酸のため焼失し黒こげになり、右側の腰掛の一部をも焼失しおりたるが、該車内に小石並びにコンクリート破片七個、火焔瓶の破片若干がありたるを以て、現場において「写真撮影の上、証拠物件として押収した」旨の記載がある。そして原審検察官の主張によれば、本件火焔瓶は薬瓶やウイスキーの空瓶を利用して作られたものであるというのであるが、一般に自動車の窓ガラスが薬瓶やウイスキーの空瓶が当った位ではもちろん、小石やコンクリート破片の投擲によっても、にわかに割れるものでないことは常識であって、放送車に対して外部から投げつけられた火焔瓶が放送車に接触した段階で割れることなく放送車の内部に落下し、内部において割れて発火することはあり得ない。そうだとすれば、火焔瓶が放送車の内部において発火するためには、投石などによって予め作られた割れ目から火焔瓶を放送車に全く接触させることなく内部に投げ入れるしか方法がないことなる。従って放送車の外部から投擲された火焔瓶が多数、内部において発火炎上したというためには、それらの火焔瓶が、いつ、放送車のどの部分から、どのようにして放送車の外部に接触することなく誰によって内部へ投擲されたかが明らかにされなければならない。しかるに原判決の前記部分も前記検証調書も、この点について何ら言及しておらず、また言及し得ないのである。さらに原判決の前記部分は、「徐行中の放送車に石及び火焔瓶を投げつけ、これが後部の窓を破り車内に入って、火焔瓶が発火し」と判示しているけれども、石が破った放送車後部の窓のスペースはどれだけであり、右石が投げられた後に、そのスペースを通り抜けて車内に入った火焔瓶の大きさはどれだけだったのか、右の石が破った部分は前記検証調書添付の写真一九二、一九八のどの部分であり、右石の後に投げつけられた火焔瓶は、右各写真のどの部分を通り抜けて車内に入ったというのか、また原判決の前記部分に「続いてデモ隊員はさらに右放送車に火焔瓶、小石、コンクリート破片を投げつけた」と判示してある火焔瓶は放送車のどの部分に投げつけられたのか、その投入経過はどうか、さらに原判決の前記部分に「隊列中より走り出た者が放送車右側の窓硝子を棒で叩き割ると、さらにデモ隊列中より火焔瓶を投げ込み」と判示してあるが、その棒で叩き割った部分の位置、形状はどうか、についてはいずれも明らかでない。前記検証調書には「右側の上窓硝子戸四枚が破損しおりて」と記載されているが、右検証調書添付の写真中、やや鮮明な一九四のそれには右側窓ガラスは三枚しか写されていない。しかも放送車は火焔瓶を投込まれた後も運転を継続したのであるから、右検証調書及び添付の写真は、放送車に火焔瓶が投擲された当時の状況を記載もしくは撮影したものということはできない。警察側が騒擾罪適用の正当性を立証する手段として自ら放送車の窓を割ることも十分あり得ることである、少くとも仮に原判決認定の如く、放送車右側の窓ガラスが棒で叩き割られた事実があったとすれば、あるいはその後の運転継続による震動により、あるいは他に外力が加わることによって破損部分が飛躍的に拡大したと見るのが経験則に合致する。また放送車の右側の上窓ガラス四枚が同時に叩き割られたのかどうか、そうでないとすれば、どのような順番で叩き割られたのかも不明である。以上のとおり主張する。

しかしながら右検証調書添付写真一九四、一九七、一九八によって、右放送車の右側窓ガラス及び後部窓ガラスの破損状況を見ると、右ガラスは自動車前面に使用されている安全ガラスではなくて、普通ガラスであることが明らかであるから、石及び液体の入った薬瓶もしくはウイスキー瓶によって容易に割ることができたものと認められる。このことは≪証拠省略≫によっても裏書されているところである。しかも≪証拠省略≫によって明らかな如く、右放送車の両側の窓は、いずれも上半分が固定され、下半分は下へ落して開放し得る構造になっており、本件当時は夏のことでもあったので、下半分の窓ガラスは全部下へ落して開け放たれていたのである。従って火焔瓶は右側窓の開放部分からも容易に車内に投入することができたし、上半分の窓ガラスの破損部分を通して投入することも近距離からであれば至難な業ではなかった(前記原判示部分に認定されているように、デモ隊が徐々に放送車との距離を縮め、やがて電車軌道を北に越えて、これに接近した頃に、デモ隊列中より右放送車に火焔瓶を投げつけている)。デモ隊中より放送車の窓ガラスを破壊して、車内に火焔瓶を投入したことは原判決の挙示する以下の各証拠、すなわち張哲洙の第七回、27・9・5付検調中の「デモ隊の先頭が突然進路を左に曲って電車線路を横切り、道路の左側の方に東向に停車していた箱型の警察の自動車に向ってプラカードの棒や、その他の棒のようなもので、その自動車の右側の窓ガラスを叩き破って火焔瓶を投げ込み始め、その投げられた火焔瓶が自動車の中で破裂してパッパッと発火するのが見受けられた、その時投げられた火焔瓶は二十本以上あったと思う」旨、同岩田弘の第三回、27・10・6付検調中の「デモの先頭が、この自動車を少し通り過ぎたと思った頃、デモ隊の後方一五米位のデモ隊が、くの字型に曲った、その湾曲部附近から二、三個の石が投げられ、その石が自動車に当った音が聞えたかと思った瞬間、E点附近から火焔瓶が一個投げつけられ、自動車の後の窓ガラスを破り、自動車の内部で燃え上るのを見た。これがきっかけとなり、デモ隊の中から相当数、石や火焔瓶が投げられた、何発位その自動車に火焔瓶が投入されたかは分らぬ、」旨、原審証人野田衛一郎の原審第二六六回公調中の「放送車は大須の電停附近でUターンして、ずっと東へ向いて行った。突然大勢の『馬鹿野郎』とか何とかいう罵声が聞えたと思ったらガシャン、ガシャンとガラスの割れる音がして火焔瓶が飛び込んで来た、」旨、原審証人鵜飼昭光の尋調中「デモ隊は放送車の窓を割って火焔瓶を投げ込んだ。デモ隊の中から駆け出して行ったと思う。多分プラカードで窓を割ったと思う。火焔瓶が投げ込まれ、それを警察官が二人か三人いたと思うが莚か何かで叩いてもみ消そうと努めていたような覚えがある。火焔瓶は十本内外投げ込まれたと思う」旨の各供述記載等によって、これを認めるに十分であるが、それが物理的に可能であり、何ら困難を伴わないことは前記説示のとおりである。して見れば、火焔瓶がいつ、放送車のどの部分から、どのようにして、誰によって車内に投げ込まれたか、投石によって破壊された放送車後部の窓のスペースはどれだけであったか、それは右窓ガラスのどの部分であったか、その後に投げ込まれた火焔瓶の大きさはどれ位で、右窓ガラスのどの部分を通り抜けたのか、放送車の右側の窓ガラスの棒で叩き割られた部分の位置、形状はどうか、それは同時に叩き割られたのか、あるいはどのような順番で叩き割られたのか、などの確定を求めることは、本件騒擾の混乱のさ中にあって不可能を強いるものであるのみならず、前記原判示認定にとって全く必要のない事柄である。

なお放送車の状況に関する前記検証調書の記載及び前記写真の一九二から一九八が、放送車に火焔瓶が投げつけられた当時、もしくはその直後のそれの記載もしくは撮影でないことは、右検証調書の記載自体によって明らかであり、また右写真一九四もしくは一九七によっても、右放送車の右側窓上部ガラスが三枚破損していることは確認されるが、一番右側のそれが破損されているか否かが判別しがたいことは所論のとおりである(もっとも右写真一九二及び証一二七号現場写真綴(11)の写真によって破損が認められないでもない)。

しかし右検証調書の記載及び右写真一九七に付記された説明によって右側窓上部ガラスは四枚とも破損されていたと認められる。警察側が騒擾罪適用の正当性を立証する手段として自ら放送車の窓を割ったこともあり得るとの所論の憶測は全く根拠のないものであるし、右ガラスの破損部分が、その後の放送車の運転継続による震動により、あるいは他に外力が加わることによって飛躍的に拡大したとする所論の推測も客観性に乏しく、かかる経験則は是認できない。

なお弁護人は当審に至って、証一二七号現場写真綴中の三の写真によれば、放送車の右側窓のガラス戸は全部締っていて、全然破損していない、このことは放送車の内部の発火が警察官自らの手によって引き起されたものであり、検証調書添付写真一九二、一九四、一九七などに見られる右放送車の窓ガラスの破損は、本件後、作為的に割られたものにほかならないことを物語ると主張する(昭和四九年一月二五日付控訴趣意補充書(二)、昭和四九年三月一九日付証拠取調請求書)。

しかしながら右現場写真綴中の三の写真においては、右側窓のガラスの部分が、その周辺の窓枠、車体の部分が黒く写っているのに比し、やや白っぽく、灰色に写っているけれども、放送車の位置が比較的遠いため、放送車自体が小さく写っているので、いささか明瞭を欠き、一見したところでは、その部分にガラスがはまっているのか、あるいは全然ないのか、または窓ガラスの破損したものがあるのか、そのようなものはないのか、いずれとも決しがたい。

従って右三の写真のみによって、放送車の右側の窓ガラスは全部はまっており、かつ破損したものもないと断定し、そのことから直ちに、原判決第一章、第二節第一冒頭における前記認定が虚構であるとするのは速断に失する。右認定の当否は、右三の写真及び前記検証調書添付写真一九二、一九四、一九七などのほか、放送車発火の目撃者の証言、その他の供述を総合して判定されなければならない。そして右各写真及び前記引用の各検調、尋調のほか、原審証人田中靖浩、同清水栄、同横井一男、同沢田峰雄、同野田衛一郎の各供述記載など、原判決が第一章、第二節第一の事実認定の証拠として挙示するところによれば、デモ隊中の暴徒が放送車の窓ガラスを棒や石、火焔瓶などで破壊して車内に火焔瓶を投げ込み発火させたとする前記判示事実を認定するに十分であることは前出説示のとおりである。

しかも現場写真綴中の写真の放送車右側窓の最前部斜め右前に面しているものを1とし、その他の各窓を後方に数えて2から5とした場合、3の窓は、上方ガラス戸の下枠が何らかの原因で脱落している(本来この上方ガラス戸にも下枠が存したことは、他の2、4、5の窓の各上方ガラス戸との対比、及び右放送車と同型の放送車と認められる検証調書中添付写真一二三の放送車の3の窓の上方ガラス戸に下枠が存することによって明らかである)。もし右窓の下方ガラス戸の部分にガラスがはまっていたとするならば、それは下方ガラス戸が上方に引き上げられている状態であって、その上枠が2、4の窓の中間の窓枠と同一線上に認められるはずである。ところがこの位置に窓枠が存せず、窓ガラスの内側の横棒が認められるということは、3の窓の下方ガラス戸は押し下げられていて、その下端に見えている窓枠は、下方ガラス戸の上枠であることを示しているといわなければならない。

従って3の窓の下方ガラス戸の部分にはガラスは存在しないのであって、現場写真綴中一一及び検証調書添付写真一九四は、この状態を示している。しかるに右部分は、その上方ガラス戸部分及び2、4、5の窓のガラス戸部分と同様に灰色を呈している。して見れば、2、4、5の窓の右各部分にもまた、ガラスは存在しないと推定せざるを得ない。すなわちこの点からしても、現場写真綴中三の写真の放送車の右側窓ガラスは全部締っていて全然破損していないとの弁護人の主張は支持され得ないのである。

弁護人は、前記原審証人田中靖浩、同清水栄、同横井一男、同沢田峰雄、同野田衛一郎、の各供述記載の証明力を減殺するものとして昭和四九年七月七日付証拠調請求書により、丹野章、石原俊、各作成の鑑定書を刑訴法三二八条の証拠として取調を求めた。右各鑑定書の趣旨は、結局、現場写真綴中三の写真の放送車の右側窓ガラス部分が灰色に写っていることは、カメラのフラッシュの閃光が右ガラスに乱反射していることを示すものであるから、右側窓全部にガラスがはまっていて、破損箇所はなかったということに帰着する。しかし前記の如く、右三の写真の放送車の3の窓の少なくとも下方ガラス戸の部分には、ガラスがないにもかかわらず、右写真では、その部分が灰色を呈しているのであるから、右各鑑定書の結論は、一般論としてはともかく、右三の写真の解明としては客観的妥当性を欠くものといわなければならない。

従って右各鑑定書によっては、右写真における放送車の右側窓ガラスが全部締っており、かつ破損してもいないことを確定することはできず、前記原審証人田中靖浩らの供述記載の証明力を減殺するものではないのである。

三、所論は、その四「でたらめな検証調書」において、(一)前記菊家哲助外二名作成の検証調書五、(19)には「該車(注、放送車)内に小石並びにコンクリート破片七個、火焔瓶の破片若干ありたるを以て現場において写真撮影の上証拠物件として押収した」との記載があるが、仮にこのような物件が車内に残存していたものであれば、右各物体が放送車の外部から投げ込まれたものであるか否かを明確にするために、右各物体の侵入経路を明らかにするように努めるべきであるのにこのことに不可欠の火焔瓶の痕跡の特定について右検証調書には全然記載がない。右検証調書添付の写真によっても車内において発火した位置は明らかでなく、また前記押収物件について個別的な押収番号は付されていないし、それぞれについての写真も撮影されていない。のみならず右検証調書添付の現場押収品一覧表中、番号二四五の部分の筆蹟は、他の部分と異なっており、形態欄の記載もなく、右記載部分の信用性は極めて薄い。(二)右検証調書には、放送車の窓ガラスの位置、形状、厚さ、材質、硬度、特に火焔瓶との硬度の比較、割られた部分の特定などは何一つ記載されていない。(三)右添付写真についても、放送車を撮影した写真は、それぞれ背景が異なっており、放送車を撮影した時点における放送車の停止地点の周辺を写した写真もなく、右添付写真が果して検証のため撮影されたものかも極めて疑わしい。以上の各事実は、検察官が原審において右放送車内部において発火した火焔瓶の車内侵入経路という最重要点の解明を故意に避け続けて来たことと相俟って、警察側が放送車の内部において火焔瓶を発火せしめた事実の発覚を恐れて故意に体を成さない検証調書を作成したとしか解されない、と主張する。

しかしながら右検証調書に記載された放送車内の残留物体の車内への侵入経路及び火焔瓶が放送車内部で発火した位置の確認が不可能であり、かつその必要もないこと、放送車の窓ガラスの厚さ、材質、硬度、火焔瓶のそれとの比較も、その必要がないことは、前記二において説示したとおりである。また放送車の窓ガラスの位置、形状、割られた部分の特定などについては右検証調書に記載はないけれども、前記写真一九二、一九四、一九七、一九八によって明らかである。次に火焔瓶などによる攻撃を受けた後の放送車を写した右写真一九二、一九七、一九八の各背景が異なっていることは所論のとおりであるが、それは右検証調書五、(19)にも記載してあるとおり、右放送車の検証は、本件騒擾終熄後、右放送車に発火当時乗組んでいた清水栄より火焔瓶投擲などによる被害の申出があったため、他の場所に移動して任務遂行中の右放送車を被害現場に回送させて、これを行ない、とりあえず被害状況を写真撮影し、翌朝正午前頃、さらに再確認のために右放送車を中署附近に回送させて、その外観を撮影したためである。そして右写真一九二の説明によれば右写真は、右放送車を被害現場である岩井通り四丁目四番地ミシン販売業上原明方前車道に東向きに停車せしめて撮影したものであって、その周辺の一部が右停車位置を特定し得る程度には写し出されているのである。右検証調書添付の現場押収品一覧表中番号二四五の部分の筆蹟が他の部分と異なっており、かつ他の部分が謄写刷りであるのに対し、右部分がペンによる手書きであること、当該物件について個別的な押収番号が付されておらず、形態欄の記載もなく、それぞれについての写真が撮影されていないことも所論のとおりである。しかし当審第六五回公判における証人畠中潜の証言によれば、これは謄写刷りの右現場押収品一覧表が出来上ってから、右検証調書の第三区域についての部分の作成を担当した右畠中潜が、放送車内の押収物を右一覧表に書き込むことを忘れていたことに気付き、右検証調書の筆記者たる司法巡査森田外二郎に命じて、右一覧表の末尾に物件番号二四五として追記させたもので、右物件は証拠として特に重要とも認めなかったので、個々の物件についての形態を具体的に記載せず、大きさの測定もしなかったものと認められる。

なお右検証調書五、(19)に「該車内に小石並びにコンクリート破片七個、火焔瓶の破片若干がありたるを以て現場において写真撮影の上、証拠物件として押収した」との記載中、「写真撮影」とあるのは、前後の文脈からすれば、右「小石並びにコンクリート破片など七個、火焔瓶の破片若干」を写真撮影したという趣旨ではなく、右部分に先立って記載された、放送車の車外及び車内の被害状況を写真撮影したとの意味であり、具体的には前記写真一九二から一九六を指称すると解するのが相当である。

従って警察側が放送車の内部において火焔瓶を発火せしめた事実の発覚を恐れて故意に体を成さない検証調書を作成したとの所論主張は、その前提を欠き採用できない。

四、所論は、その五、「乗用車発火の真相」において、(一)乗用車が発火したのが警官隊のデモ隊の前面からの拳銃発射によってデモ隊が全面的に崩れた直後であって、デモ参加者らが火焔瓶を投擲できるような状況には到底なかった、(二)乗用車についても外部からの火焔瓶投擲によっては内部において火焔瓶を発火せしめることが不可能であり、内部において発火せしめるには、火焔瓶投入に先立ち乗用車の窓ガラスを割るなどの行為が必要であることは放送車の場合と同様であるが、そのようなことは到底為し得る状況ではなかったにもかかわらず、原判決は、この点について何らの説明を加えることもなく、浅井忠文管理にかかる乗用車一台に火焔瓶数個を投入して発火炎上させた旨認定し、理由不備の違法を犯している、また司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書には「右浅井忠文管理にかかる乗用車の内部には相当多数の火焔瓶が投入されていて、エンヂンその他内部の座席の構造設備等は跡形もなく燃焼していた」旨記載されているのみで(五、現場の模様並びに被害状況(3))、右の「相当多く火焔瓶が投入され」とあるのは「エンヂンその他内部の座席の構造設備等は跡形もなく燃焼していた」事実についての検証者の主観的判断に過ぎず、投入の有無については全く検証を行なっていないから、火焔瓶が右乗用車の内部に投入された証拠は皆無である、(三)発火した乗用車二台は、いずれも外車の中古車で、発火当時運転手が乗用車の近くにいなかったなど極めて人為的な符合を見せている、以上の各事実からして、警察が自ら右乗用車を発火せしめたことが明らかであると主張する。

しかしながら(一)警官隊の前面から拳銃発射によってデモ隊が全面的に崩れたとの所論主張が認められないものであることは控訴趣意(総論)第五点、三、第五の論旨に対する判断において説示したとおりである。(二)乗用車について外部からの火焔瓶投擲によって、内部において火焔瓶を発火させることの可能であることについても、前記二において説示したとおりであり、また菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、二台の乗用車とも、その附近の諸所に火焔瓶が投げつけられた痕跡が認められるほか、車体の各所に投石もしくは棒などによる殴打の痕跡が認められ、後藤信一管理の乗用車の車体には火焔瓶を投げつけた痕跡があり、その右側窓ガラス二枚が投石または棒などの殴打によって破損しており、浅井忠文管理の乗用車の窓ガラスが全部破壊されたことは、右検証調書添付の写真一八三から一八六、現場写真綴中の(5)から(7)、(13)から(15)の各写真によって明らかである。

なお、原判決の挙示する張哲洙の第七回、27・9・5付検調、王洙性の27・8・7付検調、伊藤栄の27・8・5付検調、原審証人田中靖浩の原審第二一回公調中の供述記載、原審証人清水栄の原審第一〇八回公調中の供述記載によれば、同人らは、いずれも右乗用車に火焔瓶が投げつけられて、そのために右乗用車が炎上するのを目撃しており、右各証拠は、前記検証調書中の所論の引用する「右浅井忠文管理にかかる乗用車の内部には相当多数の火焔瓶が投入されていて、エンヂンその他内部の座席の構造設備等は跡形もなく燃焼していた」との記載を裏付けるに足るものであって(もっとも「エンヂンその他内部の座席構造設備等は跡形もなく燃焼していた」との部分は、右検証調書添付写真一八三から一八六と対照すると誇大に失し、正確でない)、所論の如く、これを目して検証者の単なる主観的判断を断ずることはできない。(三)発火した乗用車二台がいずれも外車の中古車であったことは本件当時の我が国の産業経済が、従って自動車産業も敗戦による打撃、衰退から、まだほとんど回復していなかったことが公知の事実であることを考えれば、あえて異とするに足りない。また発火当時運転手が乗用車の近くにいなかった事情については、原審証人浅井忠文の原審第三九回公調及び第七四七回公調中の各供述記載によれば、同人は本件当日、原判示の「愛の三の二〇一三二」の乗用車を運転して原判示の岩井通四丁目八番地空地北側車道に置いて、大須球場の七・七歓迎報告大会に出かけ、帆足、宮腰両代議士の演説を聞いた後、大須の梅屋という喫茶店にいたが、表が騒がしくなったので、外に出たところ、附近は物凄い群衆で、右浅井は右乗用車に近づくことができず、様子を眺めているうちに右乗用車は発火炎上したものであり、原審証人後藤信一の原審第三九回公調中の供述記載によれば、同人は本件当日、本件騒擾の始まる約二〇分前に原判示の岩井通四丁目八番地空地北側の車道上に、原判示の「愛の三の三〇一一」の乗用車の調子が悪いので点検のため止め、再び発進しようとしたところ、バッテリーがなくてエンヂンがかからなかったので、近所の八百屋から本社に電話をかけ救援に来るよう頼み、約二〇分待っているうちにデモ隊が来て本件騒擾となったので、同証人は恐ろしくなり、歩道上を約一〇〇米東方に逃げたのであるが、そのまま自己の乗用車には人が一杯のため近づくことができぬうちに同車は発火した、というのであって、その間に特に不自然さを感じさせる点もなく、いずれも人為的符合を云々するには当らない。

結局所論が原判示乗用車は警察が自ら発火せしめたものであると推定する根拠とした各主張事実は、いずれも認められないものであって、所論はその前提を欠くものといわざるを得ない。

以上のとおりであって、原判決に所論の如き事実誤認の点はなく、論旨は採用できない。

22  第五点、四「デモ隊の分散と分散後の状況」、第一「デモ隊の分散に対する事実誤認」について

所論は要するに、デモ隊が、いつ、いかなる態様で分散したかは、分散後の暴行、脅迫が共同意思に基いてなされたか否かを判断するうえで極めて重要であるのに、原判決の第一章、第二節、第一の判示からは、原判決はいつ、いかなる態様でデモ隊が分散したと認定する趣旨なのか全くわからない。原判決は、放送車内及び道路上での火焔瓶の発火炎上によって、附近のデモ隊員の一部はスクラムを解いて車道南方へ退避しようとしたため混乱を生じ云々、一部は南側の岩井通り四丁目八番地空地及びその東側路地へ逃げこんだ、というのであるが、日中貿易再開、朝鮮戦争反対等の国民的要求を広く大衆に訴え、この要求貫徹のための団結の姿勢をデモ行進によって示そうとしていたデモ隊が、誰だかわからない、極く一部の者の投げた火焔瓶によって放送車に火がついたというようなことで隊列を崩す筈はなく、デモ隊は放送車内での発火を無視してなお行進を続けていたのである。しかるに放送車の発火当時既にデモ隊に接近していた警官隊が、放送車の発火に接続して敢行したピストル発射を含む無法な実力行使に因って、デモ隊は放送車の発火直後に分散させられたのであり、しかも生命の危険を感じたデモ隊員らは、なだれをうつ様にダーッと下ったり、北側や南側歩道や、岩井通り四丁目八番地の空地附近へ、くもの子を散らすように逃げ散って、忽ちにしてデモ隊としての態をなさなくなり、その後はデモ行進をする団結意思はなく、もちろん共同暴行脅迫意思など存在する筈のない状態になってしまったことが証拠上明らかであるのに、これを認めなかった原判決には事実誤認の違法がある、というのである。

よって検討するに、デモ隊分散の時期及び態様が、所論のように、放送車の発火に接続してなされた警官隊の拳銃発射を含む実力行使により、くもの子を散らすように四散し、忽ちにしてデモ隊としての態をなさなくなったというようなものでなく、デモ隊中より放送車めがけて火焔瓶が投げられ、これが放送車内及びその周辺で発火炎上したため、デモ隊員の一部がスクラムを解いて岩井通りの車道南方に退避し始めたが、それはデモ隊員中その時偶々放送車附近を行進していた一部のもののみであり、大部分のデモ隊員はなお行進を続けているうち放送車附近で起った混乱が隊列の先頭や後方に漸次波及していくとともに、山口中隊の原判示第一章、第二節、第二の実力行使があり、デモ隊全体が崩れたものであることは、控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五、第九の論旨に対する判断において説示したとおりであって、この認定は論旨指摘の各証拠によっても左右されるものではない。すなわち所論が、所論一(一)に挙げている証拠中元被告人片山博の27・9・10付検調中には「放送車に火の手があがり皆わーっと叫びました、そこで私もこの焔によって明るくなった為に、その警察放送車を認め、その車の附近に幾つかの人影を見て、警官がやって来たなと思った」との供述記載があるけれども、右放送車には清水栄外十余名の警察官が乗っており、同被告人の見た人影というのが放送車から下車して附近を警備していたこれらの警察官であった疑があり、必ずしも春日神社に持機していた早川大隊の警官隊であったとまでは認められない。また被告人崔漢洛の27・8・22付検調中には、投げられた火焔瓶が宣伝カーの中やその附近の路上で発火炎上しているのを「見ながらデモ隊はワッショワッショと喚声を挙げていると、東の方から制服の警官隊が四、五尺の警棒を持って、ワァーと云ひながら突込んで来た」との供述記載があるが、同検調の他の部分をも参酌すると、右供述記載は、放送車内での火焔瓶の発火と同時にデモ隊全体が、その先頭部分を含めて進行を停止し、隊伍を乱すことなく、放送車内で火焔瓶が炎上するのを見ていた趣旨に解されるのである。そうだとすると放送車内での火焔瓶の発火直後デモ隊は放送車附近から崩れ始めた趣旨の被告人岩田弘の27・10・6付第三回検調、被告人王洙性の27・8・7付検調、伊藤栄の27・8・5付検調その他と矛盾することになって信用できない。被告人林元圭の27・12・29付検調中には「この様な状態の時デモ隊の進行方向から何名位か判りませんでしたが、多勢の警官がデモ隊の方え向って来る様な様子だった」との供述記載がある。同検調によると、右の「この様な状態」というのは、隊列を崩したデモ隊員が放送車の西側で、これを取巻くように半円形になって、放送車に火焔瓶等を投げている状態をいうのであるが、若しそうだとすれば警察官の方でも、カ飲食店前附近で燃えている放送車を目撃していなければならないのに、そのようなことをうかがう証拠は見当らない。のみならず現場写真綴中の写真(1)によっても、崩れたデモ隊員がそのような状態になったとは認められないから、右供述記載をそのまま信用することはできない。また原審第七〇四回公調中の証人室生昇の供述記載中の、「放送車から火が出た時、デモ隊は殆んど停止していたが、それは確か警棒を持ってヘルメットをかぶった五、六〇人から一〇〇人近い警官隊が、北や東の方から隊列を組んで徐々に進んできたからであり、警官隊が来たのと放送車から火が出たのとは殆んど同時であった」旨の部分もその後同証人自身が、放送車から火が出たのと警察官が来たのとは殆んど「同時じゃないかと思うということですが、ちょっと警察官の姿が見えるまで間があったように思いますがどうですか、」との検察官の反対尋問に対し、「……あんまり記憶にないんですけれども、どうですか、あるいはそうかもしれません。」と答えていることからみて、それ程正確な記憶とはいえない。原審証人林勇平の尋調中の「あそこの十字路の辺まで来た時に、前の方で拳銃の発射音がありました、その発射音でデモ隊の先頭のほうの者がバラバラと隊を乱して四方八方へ散った」旨及び「先頭の方が騒がしくなり明りがパアッ、パアッと出、ついで乗用車が燃え始め、その直後に拳銃の発射音を聞いた」旨の各供述記載も、同人がデモ隊の最後尾附近を進行していて、先頭附近で起きた状況を正確に見聞することのできない位置にいたことを考慮すると、そのまま信用することはできない。さらに原審証人加茂春雄の27・7・11付尋調中の、「後で拳銃の音だとわかった大きな音がして、デモ隊が散りじりばらばらになった」という趣旨の供述記載も、記載内容を仔細に検討すると、その点に関する同人の記憶はかなりあいまいであることがうかがわれ、そのまま信用することはできず、二村貞一の27・7・19付検調中の論旨指摘の部分も、放送車に火焔瓶が投げられ「一瞬にして車内は火の海となりました、私はその時ラジオカーの前方十三米位の(D)点に居りましたが危険を感じたので裏門前町通りとの交叉点附近(E)点に後退しました、其の時に拳銃の発射音四、五発を聞きましたが、同時にデモ隊は進行を止めた様でありましたが、其の頃には前方に向って火焔瓶や石を多数投げつけて居たので(F)点に後退しました、丁度其の頃に東方から本隊が来たので合流して東進して来たデモ隊に突込みますと両側の歩道や西の方へ逃げ出しました、」となっており、右の(F)点というのが裏門前町交差点を東に越えて、次の新天地通りに近い地点であり、同人が同所で初めて、西進して来た警官隊に会ったというのであるから、右供述記載は必ずしも所論に沿うものとはいえない。

次に所論が所論一(二)に挙げている証拠のうち、前掲証人室生昇、同林勇平、同加茂春雄の各供述記載の右所論の事実に沿う部分が信用できないこと前叙により明らかであり、元被告人片山博の27・8・27付検調、被告人杉浦正康の27・11・13付検調、同張哲洙の27・9・5付第七回検調、同伊藤弘訓の27・8・26付検調、同梁一錫の27・12・29付検調、同多田重則の27・8・2付検調、同林学の27・10・31付検調、同王洙性の27・8・7付検調、元被告人全甲徳の27・11・11付第一回、27・11・13付第三回各検調、同三谷昭の27・8・4付第二回検調、被告人宮脇寛の27・11・5付検調、同方甲生の27・11・5付第二回検調、同朴昌吉の27・11・29付検調中の論旨指摘の各供述記載部分も、放送車内あるいはその周辺での火焔瓶発火炎上と同時に、デモ隊列中放送車附近を行進していた部分が先づ崩れて混乱したとの、原判決の認定に沿うものでこそあれ、決して右所論の事実を認めさせるに足るものでなく、被告人崔漢洛の27・8・22付検調中の論旨指摘の供述記載部分の信用できないことは、右一の(一)の論旨に対する判断で述べたとおりである。

次に所論のうち所論二に挙げている証拠中元被告人片山博の27・8・27付検調、被告人杉浦正康の27・11・13付検調、同張哲洙の27・9・5付第七回検調、同林学の27・10・31付検調、同宮脇寛の27・10・23付検調、原審第七〇四回公調中の証人室生昇、原審証人林勇平の尋調、原審証人加茂春雄の37・7・11付尋調中の各供述記載によっても、デモ隊全体が、放送車の発火直後に、警官隊の実力行使により、くもの子を散らすように四散し、忽ちにしてデモ隊としての態をなさなくなったとの所論の事実はとうていこれを認めることができない。すなわち右各供述記載によると、放送車発火当時元被告人片山博、被告人杉浦正康、同林学、原審証人室生昇は岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前を徐行していた放送車の直ぐ近くに、被告人張哲洙は、放送車から約五〇米西に寄ったところに、同宮脇寛は大須交差点を東に越え、放送車内で火を消している人の姿が識別できる距離のところに居たことが認められるから、同人らの述べているデモ隊分散の状況は、デモ隊列中放送車附近を行進していた部分若しくはそれに近い部分の分散の状況を述べたものとみるべきであって、裏門前町交差点附近から大須交差点附近まで続いていたデモ隊全体の分散の状況を述べたものとは認められず、また原審証人林勇平は、デモ隊列の最後尾附近に居たものではあるが、同証言によれば、デモ隊後部の崩れたのは、空地北側に停めてあった黒塗の乗用車に火焔瓶が投げられ、続いて拳銃が発射された後であったというのであって、所論に沿うものではなく、原審証人加茂春雄の証言中デモ隊分散に関する部分の証言があいまいで信用できないことは前に述べたとおりである。

なお所論は、原判決は、デモ隊は一部に混乱を生じたものの、被告人杉浦正康が「スクラムを解くな、後ろを向くな」と叫んだこと、及び被告人張哲洙が持っていた旗を横にして、「列を崩すな」、「逃げるな」と叫んで後退を防ごうとしたことのため、全体としてはなお行進を続けたと認定している。しかし前掲被告人杉浦正康の27・11・13付、同張哲洙の第七回各検調も、結局同被告人らがそのようなことを言ったり、したりしたけれどもデモ隊の崩れるのをくい止めることができず、崩れるに任せて逃げたという趣旨であるから、かかる証拠によって原判示のように認定することは理由にくい違がある、というのであるが、被告人両名の右検調の供述記載は、デモ隊全体ではなく、デモ隊中放送車附近が崩れた状況を述べたものであること前叙のとおりであり、原判決も、被告人両名の所論のような言動に拘らず、デモ隊列が放送車の附近から崩れていったと認定したもので、所論のような言動に因って、なお全体として行進を続けたと認定したものでないことが明らかであるから、原判決に所論のような理由のくい違はない。また所論は、証拠上被告人杉浦正康の投げた火焔瓶が発火炎上した事実が認められないのに原判決がこれを認めたのは事実誤認である、というのであり、記録を調査しても、被告人杉浦正康の投げた火焔瓶の発火炎上したことが認められないこと所論のとおりで、原判決に事実誤認があることになるが、その誤認が判決に影響を及ぼすこと明らかとはいえないので、判決破棄の理由とするに足りない。

結局原判決には、所論の点に関し原判決を破棄しなければならない事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

23  第五点、四、第二「乗用車の発火に対する事実誤認」について

所論は要するに、原判決は、第一章、第二節、第一において、「デモ隊列は、右のように放送車の附近で一部に混乱を生じたけれども、全体としてはなお進行を続け、その一部は前記空地の東北角車道に駐車してあった後藤信一の管理にかゝる熱田タクシー株式会社所有の『愛三の三〇一一』黒色ラファイエット乗用車一台のボンネット及び屋根の部分に火焔瓶三個を投げつけて発火させ、石を投げ、棍棒で叩く等して、前面窓硝子、左方向指示器、左ドア窓枠、右窓硝子等を破壊して三万四、五千円の損害を与え、続いて右乗用車の西方約十三米に駐車してあった浅井忠文管理にかゝる、土屋某所有の『愛三の二〇一三二』空色四十年型ダッジ乗用車一台に、火焔瓶数個を投入して発火炎上させ、石を投げ、棍棒で叩く等した」と認定しているけれども、デモ隊は、乗用車に火焔瓶等の投げられた当時既に四散してしまっていたのであり、決して全体として行進を続けていたわけではない。従って乗用車に火焔瓶や石を投げつける等の暴行も、デモ隊員の共同の意思に基づいた集団としての行為ではなく、偶々その附近に居た者が、個人的に敢行した行為と認めざるを得ない。このことはデモに参加した人達が、警官隊の攻撃による身の危険を顧みず、消火活動を行ったことからも十分窺うことができるから、原判決の右事実の認定は誤っている、というのである。

よって検討するに、乗用車に火焔瓶の投げられた当時デモ隊は既に四散してしまっていたわけではなく、なお全体として行進を続けていたものであり、乗用車に対する暴行が集合した多衆の共同暴行意思に基いてなされたものであることは原判決の挙げている証拠によってこれを認めるのに十分である。すなわち、先に出火した東側の黒色乗用車に火焔瓶の投げられた当時のその附近のデモ隊の状況につき、被告人張哲洙の27・9・5付第七回検調中には、「その頃(注、放送車に火焔瓶の投込まれた頃)デモは自ら停止して先頭の方のデモ隊がワァーと崩れて逃げ始め、その附近から四方へ散る様な具合になったのです、私達民青団の方のデモもその状勢に押されて列が崩れて行きました、私はこれはいかんと思い旗を横にして私の近くにゐた者は手を広げたりして『列を崩すな』とか『逃げるな』とか叫んで早速ピケラインを敷こうとしたのですが、大勢はどうする事も出来ず、これはいかんと云ふので皆んなてんでに逃げ出したのでした、その様にして私達が逃げ出そうとする時でしたか、道路の南側に西向きになって停車してゐた民間の自動車二台、それは私の処より約十米位東寄りの処でありましたが、先頭の方から崩れて逃げて来た連中や、その附近にゐたデモ隊の者達と思いますが、その二台の自動車めがけて火焔瓶をテンデに投げつけるのが見受けられ、自動車の中で火焔瓶が破裂して火を発し真赤になって燃えてゐるのが見受けられました」との供述記載があり、被告人朴孝栄の28・1・26付検調中には、「私が林とスクラムを組んで②点に来ました、この②点は③点にあったハイヤー附近の車道上であります、私が②点に来た時③点にあった自動車はまだ燃えてはおりませんでした、私が②点に来た時④点の車道上に屋根の高い自動車がボッと火をふく様な音がしたかと思うと明るくなり、その自動車の中が燃えておった様でした、その自動車をよく見ると中で盛んに警官が火を消しておりましたので、自動車の恰好からして、この自動車は警察の自動車だなあと直感したのであります、この時デモ隊の先頭が崩れ、私がワッショワッショと声を出して前進しようとする鼻先きに、崩れたデモ隊員が押しかけて来るので、私は林と一緒に逃げようと思った時には林の姿は見えませんでしたが、赤線矢印の方向に逃げようとして⑤点に来たとき何かガチャンと割れる様な音がしたので何事かと思って③点のところを見ました、するとその③点にあった自動車一台の内部が燃えているのを見ました」との供述記載があり、伊藤栄の27・8・5付検調中には、放送車に火焔瓶が投込まれ、ついで「私の居た附近路上にもデモ隊の方から飛んで来たと思ひますが数発の火焔壜が飛んで来て発火し、凄い勢で燃え出したので、夫れ迄街燈が消えたのか薄暮(暗)くなって居たのがよく見える状態になりデモ隊の先頭の一部は燃えて居る放送自動車の南側車道附近に一団となり、私の居た(2)地点より西の方にデモ隊列の乱れた一団が居り、之等のデモ隊はワァワァと喚声を拳げたり、『ザマを見ろ、』『やっゝけろ、』『やったやった』等と罵声を沿びせて気勢を挙げておりましたが北側車道附近に居た群衆は火焔壜の発火するのを見て悲鳴を挙げて逃げまどい自転車を持って倒れる者もあり、其の上を踏んで行くと云う状態で一瞬にして修羅場となりました、私も右の様な状況で危険となり、退避しようと思って(2)の地点から西方を向いた時に西南方五、六米の軌道附近で飛んで来た火焔壜が発火し、パッと明くなった時に、私の居る所より西方八米位のX地点附近で喚声や罵声を挙げていたデモ隊と認められる一団の中に(吉川曻が居り、その後(3)地点附近に移動して現場の状況を見ていると、)デモ隊は先頭の一部が南側の歩道や民家の軒下や第一銀行大須支店東側に在る空地附近にも逃げ込んで喚声や罵声を挙げたり、路上や南側車道に在った乗用車二台に火焔壜を投げつけるのが見えましたが、其の中に二台の乗用車は燃え出しました。」との供述記載があり、原審第二一回公調中の証人田中靖浩の供述記載中には、「(問)ワシノ機械の隣の空地附近では自動車二台が燃えたのですか、(答)左様です、(問)それは空地の方で投げたもので燃えたのですか、(答)いや自動車に近寄って投げたのです、(問)自動車に近寄って投げたのは放送車に投げてからどの位経ってからですか、(答)五分も経っていないと思います、(問)其の時二台の自動車の周りにはデモ隊や弥次馬は居りませんでしたか、(答)投げつけられるまでは居りましたが投げつけられると同時に皆居なくなりました、(問)では投げるまでは相当居たのですか、(答)さがって直ぐの時でしたから大分残って居ました、歩道に八分位人は居りました、」との部分があり、原審第三九回公調中の証人後藤信一の供述記載中には、「(問)証人の前に停めてある自動車から火が出たと思われるときデモ隊はデモを組んでいましたか、(答)その時は大体デモを組むというとおかしいが、ばらばらではなく、やはり団体で群衆という風に受取りました、(問)最初のわっしょわっしょという風ではなかったのですか、(答)まだそんな風じゃなかったかと思います。」との部分があり、原審証人林勇平の尋調中の「(問)黒塗りの自動車が燃え出したときは、デモ隊はどんどん東へ進んで行っていたんでしょうか、(答)黒塗りの自動車が燃え出したときは行ってません、(問)燃え出すと同時にデモ隊というのは混乱を起こして西のほうへ行ったわけですか、その関係はどうですか、(答)燃え出したときには、まだ黒塗りの自動車から言いますと、西のほうにいたように覚えております、(問)そうすると東へ進んで行っていたんですか、(答)いや進んでいるんでなくて停滞しておるというんですか、とゞまっていたように思います。」との部分があり、被告人呂徳鉉の27・11・20付検調中には「すると先頭のデモ隊は後ろへ押し戻され、スクラムはくづれてデモ隊はばらばらになり、私は左手に雑誌、右手で火焔瓶の入っているズボンのポケットを押えて群衆と共に車道を西へ走って逃げ、本町通り道路上まで逃げました……すると近くにいた角帽を冠った大学生が『もう一度デモを組め』と大声で怒なりながら東の方へ歩道上を進み始め、ワァと声を上げながら三、四十米位進んで行くと約三十米前方に民間乗用車がもえ上っており、その前方で鉄兜の警官が右手を前に伸して南の方を打っている拳銃の言が聞えましたので恐ろしくなり私は又本町通りへ逃げ」との部分があり、以上を総合すると、放送車附近で起きた混乱は次第にデモ隊列の後方に波及し、乗用車発火当時既に空地北側附近にまで及んでいて、その附近は崩れ始めていたけれども、そのあたりより後ろの部分は、かなり混乱していたにしても、なお従来のデモ隊としての隊形をある程度維持し、行進を継続しようとする大勢にあったことが認められる外、被告人岩田弘の27・10・6付第三回検調、原審第二二回公調中の証人丹羽鈴子の供述記載によれば、放送車発火当時デモ隊の先頭はほぼ岩井通り四丁目阪野豊吉方前附近を行進しており、また原審証人林勇平の尋調によれば、その当時デモ隊の後尾はほぼ大須交差点附近を行進しており、菊家哲助外二名作成の27・7・8付検証調書によれば、この間の距離は約一四〇米であることが認められるので放送車発火当時デモ隊は一四〇米位の長さの隊列となって進行していたことになり、乗用車の発火した空地北側附近が丁度デモ隊の中央附近であったことも認められることを勘案すると、デモ隊列は全体としてはなお進行状態にあったと認めるのが相当であり、この点に関する原判決の認定に所論のような誤りはない。所論が、所論の事実に沿う証拠として掲げている証拠中、原審第二一回公調中の証人田中靖浩の供述記載、被告人張哲洙の第七回検調、伊藤栄の検調、原審証人林勇平の尋調は、むしろ原判示事実に沿う証拠と解されること前叙のとおりであり、原審第七八回公調中の証人藤原三郎の供述記載中には「(問)この時(注、乗用車の燃えているのを見たとき)デモ隊は進行していたかどうですか、(答)進行して居りました、(問)やはりかけ声をかけて居りましたか、(答)やはりかけ声をかけて進行して居りました、(問)火によってデモ隊の隊列が乱れましたか、(答)デモ隊そのものの隊列は崩れていなかったように思います、(問)外の人たちは崩れましたか、(答)逃げる人もあったので崩れました、(問)それは証人の周囲の人たちの事を云うのですか、(答)そうです、」との部分があり、また原審二五八回公調中の証人久徳高文の供述記載中には「(問)二台の乗用車の火をご覧になった時、その時のデモ隊はどんな様子だったでしょうか、(答)ピストルの発射音で浮き足だって、後退して来ておるわけですが、さあその燃え上がった乗用車の近くまでデモ隊が後退していたかどうか、私の記憶ではまだそこまでは来ていなかった、こっちは一人ですから、早くどんどん西へ逃げてこれたわけです。」との部分があり、同人らの供述記載も原判示事実に沿いこそすれ、決して所論の事実を認めさせるに足るものではなく、原審第二二回公調中の証人丹羽鈴子の供述記載も乗用車が炎上している時の岩井通りの状況に関するもので、乗用車の発火した時におけるデモ隊の状態については触れるところがなく、原審第二四八回公調中の証人小島康男の供述記載、第二六二回公調中の証人新村徹の供述記載、元被告人片山博の27・9・10付検調、被告人李圭元の27・10・18付第一回検調、原審証人加茂春雄の尋調中にも、乗用車発火時におけるデモ隊列の空地北側より後ろ(西方)の部分の状態について所論に沿うような記載はなく、原審第八六回及び第一二九回各公調中の証人浅井輝正の供述記載も浅井忠文管理の乗用車の炎上した時の状況に関するもので、最初に後藤信一管理の乗用車の発火した時のデモ隊の状況をうかがわせるものでなく、結局所論の掲げている各証拠及び当審証人平尾昌士の当審第一二回公判における証言、同田川東輝彦の当審第一五回公判における証言も原判決の認定を左右するに足るものではない。さらに所論は、乗用車に火焔瓶や石を投げる等の暴行は一部の者の個人的な行為であって、デモ隊全体の共同の意思に基づいた集団としての行為ではない、というのである。しかし原判決は、デモ隊全員を自動車騒擾に参加した加担者いわゆる暴徒と認めているわけではなく、原判決が有罪と認めた原審各被告人を中心として、共同暴行、脅迫意思のあった相当数のデモ参加者及びこれに呼応した岩井通り上にあった群衆の一部を本件騒擾の加担者と認めているに過ぎないことは、これまでにも説示したとおりであり(総論第一点、一、第一、第五点、三、第三)、原判決がデモ隊全体を暴徒と認定していることを前提として、その事実誤認を主張する所論はその前提を欠くものといわなければならない。のみならず、原判決が、第二章、第二節、一に掲げている証拠によれば、原判決も正当に認定しているとおり、乗用車に火焔瓶等の投込まれる直前、乗用者の駐めてあった所の東方約五〇米の阪野豊吉方前を東進していた警察放送車に、デモ隊列中より多数の火焔瓶や石が投げつけられ、それ等の火焔瓶が車内や附近路上で発火、炎上し、デモ隊員の中には「わあ、わあ」と喚声をあげ、「馬鹿野郎」「税金泥棒」等と叫ぶ者もあって附近は騒然となり、デモ隊列もその附近から崩れ始めてそれが次第に後方に波及し、乗用車の駐めてあった岩井通り四丁目八番地の車道南側や歩道及び空地にはデモ隊列が崩れるとともに放送車の附近から後退して来たデモ隊員や、その附近を行進していたデモ隊員あるいは見物人ら多数が群って喚声や罵声を挙げている状況となっており、かかる状況の下に、右群衆中より、黒色乗用車に火焔瓶三個が投げつけられて発火し、さらに石を投げつけ棍棒で叩く等の暴行が加えられ、その後しばらくして空色乗用車一台にも、火焔瓶数個が投げつけられて発火炎上し、石を投げ、棒で叩く等の暴行の加えられたことが認められるから、乗用車に暴行を加えた者は、附近にいた多衆が警察放送車や乗用車に対し集団的に、右のような暴行を加えていることを知りながら、これに加担する意思で、自らも乗用車に火焔瓶や石を投げたものであり、共同意思に基いて暴行したものと認めざるを得ない。浅井忠文管理にかかる乗用車の運転台ドア附近に火焔瓶一個を投げた被告人李聖一の27・8・28付検調中の「丁度銀行の前でしたが歩道寄りに二台のタクシーがとまっておりました、この二台の自動車にわしより前のデモ隊の者が何かばらばらと投げつけたと思うと二台共にぱっと燃え出したのでこれは火焔瓶を投げたなと思われました、そこでわしもみんなも火焔瓶を投げるから一つやってやろう、面白いなあと思って、」火焔瓶を投げた旨の供述記載も右認定を裏付けるものということができる。所論は右李聖一の右供述記載は、同被告人が「デモ隊の先頭から七、八米位の後の真中に入った」との供述記載と対比して信用できない、というのであるが、「デモ隊の先頭から七、八米位の後の真中に入った」ということが、当時夜間で、しかもかなり混雑していた状況にあったことを考えると信用できず、むしろ二台の乗用車に火焔瓶が投げつけられるのを見て同被告人自身も乗用車に火焔瓶を投げつけたことの方がより特殊な体験であり、強く記憶されるとみるのが相当であるので、所論に拘らず前掲供述記載部分の方が信用できるといわなければならない。さらに所論は、原判決が、空地北方の岩井通り北側歩道から浅井忠文管理の乗用車に向って火焔瓶一個を投げたと認定している被告人林元圭、同じく右歩道から道路上に火焔瓶二個を投げつけて発火させたと認定している同梁一錫について共同暴行意思は認められないから、乗用車に対する暴行も集団の共同意思に基いてなされたといえない、というのであるが、右被告人両名の暴行が共同暴行意思でなされたことは控訴趣意(各論)33被告人林元圭、32同梁一錫に関する論旨に対する判断で説示しているとおりであって、所論の事実も右認定を左右するものではない。また所論は、前掲伊藤栄の27・8・5付検調、同被告人張哲洙の27・9・5付第七回検調によれば乗用車に暴行したのはデモ隊員のうちのごく一部の者に過ぎない、というのであるが、右各検調中の論旨指摘の供述記載も、乗用車に現実に暴行を加えたのは乗用車の附近にいたデモ隊員の一部であった、というに過ぎず、その暴行が乗用車の附近にいた多数の暴行の意思と無関係に、一部の者によって加えられたという趣旨ではないので、前認定を左右するものではない。さらに所論は、デモ隊員の中に乗用車の火を消そうとしていた者が数名あり、このことからもデモ隊全体に乗用車に火焔瓶を投げつける等の暴行する意思のなかったことがうかがわれる、というのであり、所論の摘示する原審第二四七回公調中の証人谷川浩、同第二四九回公調中の証人小島耕之助、同第二五一回公調中の証人板垣芳雄、同第二六二回公調中の証人新村徹、同第六九九回公調中の証人三輪啓の各供述記載によれば、デモ隊員の中に乗用車の火を消そうとしていた者のいたことは認められるけれども、右各証拠によってはそれがデモ隊員全体もしくは乗用車の附近にいたデモ隊員大多数の意思であったとまでは認められない。のみならず、原判決が、デモ隊全員を本件騒擾に参加した加担者と認めているものでないこと前叙のとおりであり、デモ隊員の一部に騒擾加担の意思のない者がいたからといって、本件騒擾罪の成否に影響のないことはもちろん、原判決に事実誤認があるともいえない。論旨は理由がない。

24  第五点、四、第三「群衆は警察官を攻撃しておらない」一「山口中隊に対する攻撃の実態」について

所論のうち、(一)の「山口中隊の実力行使と群衆の行動」の論旨は要するに、原判決は第一章、第二節、第二において、「山口中隊は三列縦隊で道路中央を西進し、裏門前町交叉点附近で道路一杯に群って喚声をあげていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら前記空地附近に達したところ、暴徒は同中隊に対し南及び西より火焔瓶、石、瓦等を投擲したが、その際被告人方甲生は二個、同朴昌吉、同宮脇寛は各一個の火焔瓶を投げつけた」「山口中隊は西進して大須交叉点に達し、群衆を北、西、南へ後退させたが、附近の暴徒は激しく火焔瓶、石等を投擲した」と認定している。しかし、山口中隊は群衆より大した攻撃を受けることなく大須交差点まで進んで行ったのである。裏門前町交差点附近で群衆が喚声を挙げていたとしても、それは放送車及びその附近の道路上の発火に驚いたためであり、警官隊に対する火焔瓶や石等の投擲も、デモ隊が放送車発火後なおデモ隊としての団結意思に基いて行進しているところへ、山口中隊より突撃という不法な実力行使を受けて四散せざるを得なくなり、そのため憤激した一部のデモ隊員であった者によってなされたのである。原判決が火焔瓶を投げたと認定している被告人宮脇寛、同方甲生、同朴昌吉も山口中隊に対して投げていない。のみならず同被告人らが共同の意思に基き、暴徒という集団の一員として火焔瓶を投げたことを認める証拠もない。原判決は、群衆に対し喚声をあげて突撃するという暴行脅迫を加えた山口中隊の不法な実力行使に眼をつぶり、証拠に反して誇大に攻撃されたことのみをあげつらっている。また司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によっても、大須交差点附近で火焔瓶の投げられた形跡は殆どなく、まして火焔瓶が山口中隊に向って投げられたという証拠は全くない、というのであり、(二)の「空地附近における山口中隊の拳銃発射と群集の行動」の論旨は要するに、前叙の部分に引続き原判決は、「同中隊は反転東進して前記空地前西北方附近に達したところ、前記浅井忠文管理の乗用車は炎上していて、多数の暴徒は北側の歩道及び南の空地附近より同中隊に火焔瓶、石、木片等を投擲し、一部は接近して攻撃を加え、特に空地よりの攻撃は熾烈を極わめたため、同中隊は道路中央で進退に窮し、警部補酒井元一が通院加療約一ヶ月を要する左側下口唇挫創、治癒後知覚神経麻痺の傷害を受けたほか、十一名が三日乃至二週間を要する傷害を受け、二十一名の衣服が損傷するに至ったので、中隊長山口康治は午後十時二十分頃、部下警察職員の生命身体を護り、暴徒を制圧する目的をもって、『うつぞ』と警告を発した後拳銃の発射を命じ」と認定している。しかしデモに参加した人達を含む群衆は、山口中隊の実力行使によって北側や南側や、南側歩道や空地に逃込んだが、山口中隊はこの空地へ逃込む人達に対して背後から拳銃を発射したのであり、この不法な山口中隊の拳銃発射に抗議するため、あるいは警官隊に対して怒りを覚えた一部の人達が投石したり、火焔瓶を投げたりしたに過ぎず、司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書から窺われる、その数はせいぜい四〇名足らずで空地よりの攻撃が『熾烈』を極めたとはとうていいうるものでない。原判決が証拠としている警察官山川十紀夫、同亀垣槓、同野崎孝雄の拳銃使用状況報告書は全くでたらめで信用できない、というのである。

しかしながら原判示第二節、第二の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるのに十分である。所論の暴徒による山口中隊に対する攻撃の点についても、山口中隊の中隊長であった山口康治の西警察署長宛「けん銃の使用状況報告」書中には、「大隊長の命により同神社(注、春日神社のこと)前歩道上に各中隊毎に西向に整列した直后大須電停附近にて突然と火勢が上り、つゞいて喚声を聞き、すわデモ隊の焼打と知り、大隊長の命令一下隊長につづき駈足にて現場に急行、途中道路両側等より雨の如き飛礫と火焔瓶の爆発の中を大隊副官清水警視の塔乗するデモ隊に解散を勧告する放送車が暴徒に襲はれ、火焔瓶を投入され、炎上しつつあるを発見急行、附近を取り廻はす暴徒約二百名位を押出し、本町通、岩井町角まで進出し、部隊を横隊南面に展開し、岩井通りを東南の方向に圧縮しつつあったが、暴徒の投石と火焔瓶は熾烈を極め、附近は一帯の火の海と化し、投石により部隊員中に既に数名の負傷者を出し、濃硫酸による被害は続発しつつあるが暴徒鎮圧のため強行に東南の方向に圧縮したが、暴徒中の尖鋭分子約五十名位は南側道路に面した空地に侵入し頑強に飛礫と火焔瓶により反撃を繰返し、附近の民家の硝子は破れ、民衆にも危害を加え、あまつさえ附近の路上に西向きに駐車してあった乗用車に火焔瓶を投入炎上を図り、益々勢をつけつつあり、これ以上圧縮し検挙にうつれば隊員の生命も案ぜられ、現存のまゝ放置せば一般市民の生命財産の安全はもとより隊員の生命も危殆に頻する状況」であった旨の記載があり、また同中隊員であった野崎孝雄の右同署長宛「けん銃の使用報告」書中には、「中隊長の命に依り岩井町附近の暴徒鎮圧の為、春日神社を出発し、駈足にて現場に急行、途中電車道及び附近露路にむらがる数百名が投てきする火炎びん、小石、かわら、こん棒等の雨と降り来るのを浴びながら岩井町四丁目の自動車焼打現場に到着したが比の附近が暴徒の中心と目され、同町先第一銀行東側で人道に面した約三十米位の空地(F地点)があり、雑草がおゝい繁っているのを利用した暴徒約七、八十名が手に手に兇器をふりかざし我が部隊に(C地点)対し同時に火炎びんを投てき中なるを発見し、更に上前津方面には暴徒の集団が奇襲して抵抗を示し、四面そかの状況に立至り、殊に前記雑草の中(F地点)には強力な暴徒が潜在し、D地点に於ては今猶乗用車が暴徒の火炎びんに依り無きみな音を立てて炎上中で、F地点に於て最(盛)んに火炎びん等で抵抗中の暴徒はC地点に於て之を撃退せんとしている我が部隊に対し更に同時に数十発の火炎びん及び数十個の小石、瓦等を投げ付け、附近一帯はその為火の海と化し、我が部隊は平林部長、平岡巡査、庄司巡査等負傷し猶も附近に於て負傷者が続出し、部隊は危機にひんし」た旨の記載があり、同中隊員であった亀垣槓、同山川十紀夫各作成の西警察署長宛「けん銃の使用報告」書中にもほぼ同旨の記載がある。また原審第八五回公調中の証人山口康治の供述記載中には、「春日神社で待機していたところ、大隊長から放送車の救援に赴くよう命じられ、直ちに二列縦隊で大須の方に駈足で出発した、途中火焔瓶を投げたと思われる連中が西の方からワァと喚声を挙げながら車道一杯になって東進して来るのに出会い、裏門前町交差点附近からは、早く放送車を救援しなければいけないと思い喊声を挙げて進んで行った、大須交差点に達するまでの間西側から火焔瓶や木や石を投げられた、大須の交差点で群衆を北と南西の方向にさがらせながら南東に進路を変えた、進路を変えてから、木の上からは火焔瓶や石や木が飛んで来た、大須交差点の角から空地の方にかけて沢山群衆がおり、その群衆から火焔瓶や石等が非常に激しく飛んで来た、その中でも南東の空地からの攻撃が最も激しかった」という趣旨の部分があり、山口中隊長付の伝令をしていた証人亀垣槓の原審第二五九回公調中の供述記載中には、「大須交差点のところまで行き、反転して東進を始めたところ、北の歩道の附近とか、南の空地、東の車道上から火焔瓶や石を盛んに投げて来て、進むこともできず、後退することもできず、道路の真中で手を顔の前に上げて、石などが顔に当らないようにかばいながら、しばらく立ち止っていた、特に空地の草むらの中から一番熾烈に、火焔瓶、石、棒切れ等を投げており、火焔瓶が一発当ったらえらいことだ、死んでしまうかもわからん、拳銃を発射しなければ、自分の身体や生命も危いというふうに感じたとき山口中隊長が撃てという命令をした」という趣旨の部分があり、山口中隊第一小隊長であった証人松下新之亟の原審第二六八回公調中の供述記載中には「大隊長の出動命令により西に向い駈足で進んだ、しばらく進むと石ころや火焔瓶が投げられた、空地の附近でも西や南側から石や木片や火焔瓶が投げられた、突地のところで自動車が二台燃えているのを見たが、消している暇がなく、攻撃の激しかった西の方に進んで行くと、群衆は若干後退したが、今度は東の方からまた攻撃して来て取り巻かれたような状態になった、群衆の層の厚そうな所を目がけて部隊が固って行くと向うは下がり、その間相当ひどく石ころや木片、火焔瓶の攻撃を受けた」という趣旨の部分があり、市警本部の情報班長として現場に出動していた証人小林甲子雄の原審第三三八回公調中の供述記載中には、「最初に拳銃が発射された後も、空地に固っていたデモ隊の中枢部隊が中心となって、電車通りを隔てて北東の対角線のような位置にいた警官を目がけて火焔瓶や石等により波状攻撃をしていた、しばらくして二回目の拳銃が発射された、拳銃が発射される前は警官隊の相当近くまで多勢つめ寄り、警官に確実に届くような地点に行って火焔瓶とか石を投げており、拳銃発射後も相当遠くから石を投げていた」という趣旨の部分がある。のみならず、司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、同人らが昭和二七年七月七日午後一〇時三五分頃から翌八日午前七時頃までの間本件現場を検証したところ、既に岩井幹一一号電柱南側歩道附近に集められていた石ころ、コンクリートや瓦の破片二〇七個を除いても、裏門前町交差点附近より大須交差点附近に至る約一七〇米の岩井通り一帯には、プラカードやプラカードの壊れたとみられる棒や木片、石ころ、コンクリートの塊、瓦の破片等多数が散乱し、路面には火焔瓶の燃焼したとみられる跡があちこちについており、特に空地近くの公園線A九九、九八号鉄柱附近には、石ころ、コンクリートや瓦の破片約七七個、プラカードの壊れたとみられる棒や木片約二九個等が散乱し、火焔瓶の燃焼したとみられる跡も約二三個あったことが認められるし、≪証拠省略≫によれば、山口中隊の隊員八七名中酒井元一が通院加療約一ヶ月を要する左側下口唇挫創、治癒後知覚神経麻痺の傷害を受けた外一一名が治療三日乃至二週間の打撲傷等を受け、二一名が硫酸の飛洙により被服に損傷を受けている事実が認められる。以上の証拠を総合して検討すれば、暴徒が空地附近に達した山口中隊に対し南及び西より火焔瓶、石、瓦等を投擲した事実、さらに西進して大須交差点に達した同中隊に対し同所附近でも火焔瓶を投擲し、同所より反転東進した同中隊に対し再び空地附近より火焔瓶、石、木片等を投擲する等熾烈な攻撃を加えた事実は優にこれを認めることができ、司法警察員菊家哲助外二名の検証時大須交差点近くの公園線A一〇一、一〇〇号、同B一〇一、一〇〇号の鉄柱附近より火焔瓶の破片が全く発見、押収されていない、との所論の事実も右認定を左右するに足りず、論旨摘示の原審第二五九、第二七五回公調中の証人亀垣槓の供述記載、同第二六四、第二八三回公調中の証人柴田孝雄の供述記載、同第二八〇、第二九八(第二五一回は誤記と認める)、第四一三(第三五一回は誤記と認める)回公調中の証人山川十紀夫の供述記載も、同人等の作成した「けん銃使用状況報告」書中には一部思い違いをしている部分があるものの、同報告書が当時の記憶に基いて作成されたものであることを認めさせこそすれ、その信用性を失わせるものではない。所論は、司法警察員菊家哲助外二名が本件現場を検証した際、公園線九九号鉄柱附近及び岩井幹一一号の電柱附近より押収した石ころ等の数は三十数個であったから、空地附近より山口中隊に石ころ等を投げた者はせいぜい四〇名足らずで、空地附近の群衆の極く一部であったというのであるが、所論の検証調書によれば、岩井幹一一号電柱のところに集められていた石、コンクリート塊、瓦等だけでも二〇七個である。のみならず、仮に空地附近から山口中隊に攻撃を加えた暴徒の数が四〇名足らずであったとしても、それだけで前叙のような熾烈な攻撃を加えることも十分可能であるから、そのような事実も右認定を左右するに足りない。しかも原判決が認定しているように、山口中隊に右の如き攻撃の加えられる直前、既に大須交差点の東約一四〇米の岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前では、デモ隊に解散を呼びかけていた警察放送車内で暴徒の投げた火焔瓶が発火炎上し、さらに岩井通り四丁目八番地空地北側に駐めてあった乗用車二台も暴徒の投げた火焔瓶によって炎上していたほか警察放送車より空地前に至るまでの道路上でも、暴徒の投げた火焔瓶が諸所に燃え上っており、暴徒の中には「ざまを見ろ」「やっつけろ」「やったやった」等と叫ぶ者があって、附近一帯は騒然となっていたのである。このような状況の下で、暴徒を解散させようとして西進して来た山口中隊に対し、両側歩道や西側車道或いは空地等の群衆の中から、他の暴徒とともに火焔瓶、瓦、石ころなどを投げた場合、それらは右に述べたような他の暴徒の暴行に加担する意思でなされたと推認するのが相当であり、被告人朴昌吉の27・11・29付検調中「見ると車道を西に向って沢山の警官が突込んで来たので、私は外の人も投げているし、持っていては危いしするので、左ポケットから火焔瓶を取り出し、右手で突込んでいる警官に向って投げました。」との供述記載も右認定に沿うものといえよう。所論は、被告人宮脇寛、同方甲生、同朴昌吉は山口中隊に対して火焔瓶を投げていないのみならず、同被告人らが共同の意思に基き暴徒という集団の一員として投げたことを認めるに足る証拠もない、というのであるが、原判決が、同被告人らが山口中隊に対して火焔瓶を投げたと認定しているものでないことは、原判示第二節、第二のほか第四節、第三の十六、十七、二十二の判文に照らして明らかであるばかりか、被告人朴昌吉については、前掲同被告人の検調と、最初に岩井通りを西進して来たのが山口中隊であった事実とを併せ考えると、同被告人が他の暴徒の暴行に加担する意思で山口中隊に対し火焔瓶を投げつけた事実さえ十分認めることができるのであり、被告人宮脇寛、同方甲生に共同暴行の意思のあったことは、控訴趣意(各論)の同被告人らに関する論旨についての判断で説示しているとおりである。また所論は、山口中隊により突撃という不法な実力行使がなされたため、警官隊に対して火焔瓶や石が投げられたというのであるが、論旨の摘示する原審第八五、第八九回公調中の証人山口康治の供述記載、同第二四八回公調中の証人小島康男の供述記載、同第二五九回公調中の証人亀垣槓の供述記載、同第七〇一回公調中の証人若尾正也の供述記載によっても山口中隊は警杖を構えて三列縦隊のまま岩井通り上に群って喚声を挙げていたデモ隊崩れの群衆に向って突込んでいったところ、群衆が道路の両側に分れて進路をあけたため、そのまま通り過ぎて行ったことが認められるに止まり、右証拠からは、同中隊が群衆に警杖で殴りかかる等の暴力を加えた形跡を窺うことはできないのである。のみならず当時デモ隊に加わっていた者より火焔瓶攻撃を受け、孤立状態にあった放送車やその塔乗員を救出するようにとの早川大隊長の命令を受けて現場に行くことを急いでいた山口中隊が、進路を妨害する群衆に対し、右に述べたような行動に出ることは相当であって、これを目して不法な実力行使とはいえない。右のとおり裏門前町交差点附近で群衆は喚声を挙げていたに過ぎず、山口中隊を攻撃していたわけではないから論旨の指摘する原審第二九八回公調中の証人山川十紀夫の供述記載も右認定と抵触するものとはいえない。さらに所論は、山口中隊は空地へ逃込む人達に対して背後から拳銃を発射したというのであるが、山口中隊が拳銃を発射する前同中隊に対し空地附近より、火焔瓶、石、木片を投げる等極めて熾烈な攻撃のなされたことは前に認定したとおりであり、山口中隊の拳銃発射がこのような暴徒よりの攻撃から部下職員の生命身体を護り、暴徒を制圧する目的でなされたことは後記第五点、五、五の論旨に対する判断で説示するとおりであって、空地へ逃込む人達に対して背後から拳銃を発射した事実は認められない。所論の摘示する証拠中、原審第二四七回公調中の証人谷川浩の供述記載は、山口中隊の拳銃発射前空地附近より警官隊に対して火焔瓶を投げつける等の攻撃の加えられていたことの窺える点で、必ずしも山口中隊が無抵抗で逃げる群衆に対して拳銃を発射したとの所論に沿うものということはできず、同第六九九回公調中の証人三輪啓の供述記載、同第二五三回公調中の証人藤田亀の供述記載、同第六九八回公調中の証人岡田利一の供述記載はいずれも同人らが空地もしくは空地東側の路地に逃込むとき背後で拳銃の音を聞いたというのであって、これらの証拠も、山口中隊が空地に逃込む人達の背後を狙って拳銃を撃ったことを認めさせるに足らない。その余の同第二六〇回公調中の証人松田俊博の供述記載、同第六七四回公調中の証人山部光久の供述記載は、前掲山口康治、亀垣槓、山川十紀夫、野崎孝雄の西警察署長宛「けん銃使用状況報告」書に照して信用することができない。

なお所論は、北側の歩道及び南の空地附近にいた群衆の数がほぼ何名で、それが結集していたか否かは、それらの群衆の中に暴行脅迫を共同にする意思があったか否か、そして火焔瓶等を投げた行為が、集団の行為としてなされたか否かを明らかにするためにも必要であり、騒擾罪の成立に関する基本的な事実であるのに、原判決は単に多数の暴徒というだけでその数を大体においても認定していないし、結集していたか否かをも認定していないのは理由不備である、というのである。しかしながら原判示事実を挙示の証拠と対照して検討すれば、暴徒は南の空地附近だけでも少くとも五十名以上おり、原判決が多数と判示しているのはそれ以上の多数を意味していることが明らかである。のみならずそれ等の暴徒が共同の意思に基づき山口中隊に対し火焔瓶を投げつける等の暴行をしたものであることは前叙のとおりであって、暴徒の数が確定されなければ共同の意思の存否が明らかにならないわけではないから、原判決の判示は相当にして、原判決に所論のような理由不備もない。論旨は理由がない。

25  第五点、四、第三、二「警官隊に対する攻撃の事実誤認」(一)「空地及び岩井通り四丁目三番地附近の状況」について

所論のうち(1)「浅井中隊に対する攻撃の実態」の論旨は要するに、原判決は、第一章、第二節、第四の一において、「浅井中隊は裏門前町交叉点附近より大須交叉点附近に至るまでの間、火焔瓶、石等の投擲を受けながら北側車道上の暴徒及び群衆を歩道上に押上げつつ西進したが、特に岩井通り四丁目三番地西濃トラック運輸株式会社附近より激しい攻撃を受けたので、その附近の暴徒を同会社東側路地に追込んだところ、その一部は民家の屋上から投石してきた、他方岩井通り南方の空地附近からも投石してきた」と認定している。しかし原審第八六、第九一、第九五回公調中の証人浅井輝正の供述記載及び原審第二九〇回公調中の証人堀義光の供述記載によっても、大須門前町の北側にいた人たちから、火焔瓶、石などが投げられたので解散措置をとったこと、西濃トラックの東から北へ入る路地まで押していったことが認められるだけで、路地の奥へ逃げた者が同中隊に投石したとかやかましいことを言った事実はなく、暴徒の一部が附近の民家の屋上から投石したこともない。また司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によって認められる岩井通り上に散在していた石や火焔瓶の破片等によれば、同中隊に対する空地附近よりの攻撃は極く一部の者による全く散発的なものに過ぎず、原判決の認定しているような攻撃がなされたとは認められない、というのである。

しかしながら、原判示第一章、第二節、第四の一の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるに十分である。所論の点についても、原審第八六回公調中の証人浅井輝正の供述記載中には、「岩井通りを西進して来た浅井中隊が同通り南側の空地前附近で停止したところ、反対側の岩井通り北側歩道上には、その附近から西方の大須交差点附近にかけて、プラカードを持ったデモ隊崩れと思われる群衆が沢山群っており、同中隊に火焔瓶や石ころ等を投げてきたので、同中隊はまづ西北進して西濃トラック運輸株式会社前に行ってから、岩井通り北側を大須交差点附近まで西進してそれらの群衆を東西に解散させた後、今度は右西濃トラック運輸株式会社東側の路地の入口附近にいた群衆を解散させるため路地の中まで追って行ったところ、南の方から盛んに石が投げられて路地の奥まで追って行くことに危険が感じられたので、隊員を岩井通り路上まで引返させたうえ、今度は石を投げている南側の暴徒を退散させるため、空地東側の路地を南に入って行った」旨の部分があり、原審第九一、第九五回公調中の同証人の供述記載中にも同旨の部分があるほか、原審第一二九回公調中の同証人の供述記載中には、「石を投げたり火焔瓶を投げつける方を主に解散活動を行った」旨の部分がある。さらに原審第九五回公調中の同証人の供述記載中には、「西濃トラック運輸株式会社東側路地を北に入って行くとき、部下の者が屋根の上からも石を投げていると叫んだので、見ると東側の角の民家の屋根の上に二、三の人影が見えた、それらの人が石を投げているのを現認したわけではないが、部下の叫び声から自分はその人達が投石したと判断した」旨の部分があり、原審第一二九回公調中の同証人の供述記載中にも同旨の部分があるほか、当日浅井中隊長の伝令をしていた証人河野勝の原審第六一五回公調中の供述記載中には、「北へ行ったり南へ行ったりして群衆を押している間も、両側の歩道にいた人達から石が投げられただけでなく、屋根や街路樹の上からもぶつけて来た」旨の部分がある。以上の証拠に加えるに、司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、同人らの検証前既に岩井幹一一号電柱附近に集積されていた小石、瓦の破片、コンクリート塊等二〇九個を除いても、浅井中隊が西濃トラック運輸株式会社附近より攻撃された時いたと推定される公園線A九八、九九号鉄柱附近路上には検証時になお小石、瓦の破片、コンクリート塊等が約七三個散在し、火焔瓶の燃えたと思われる跡も一四ヶ所あり、また同中隊が空地附近より攻撃された時いたと推定される公園線B九八、九九号鉄柱附近路上にも、小石等四三個の散在していたことが認められることをも参酌すれば、西濃トラック運輸株式会社附近より激しい攻撃のあったこと、暴徒の一部が民家の屋上から投石したこと、及び南方の空地附近からも投石のあったことは優にこれを認めることができるのであって、右検証調書も南方の空地附近からの攻撃が、所論のように極く一部の者による全く散発的なものに過ぎなかったことを窺がわせるに足りない。また路地の奥へ逃げた者が同中隊に投石したとか、やかましいことを言っていない、との所論の事実の如きは原判決の認定していない事実であって、事実誤認の理由とはなし得ない。

所論(2)「神田中隊に対する攻撃の実態」の論旨は要するに、原判決は第一章、第二節、第四の二において「神田中隊は裏門前町交叉点附近より大須交叉点附近まで、中隊を二分して、車道上の暴徒及び群衆を南北の歩道に押上げつつ西進したが、これらは同中隊に対し『馬鹿野郎』『税金泥棒』等と罵声を浴びせ、数個の火焔瓶と多数の小石を投擲し、特に南側空地及びその東側路地附近よりの攻撃は激しかった」と認定している。しかし≪証拠省略≫によっても、神田中隊に対する火焔瓶や石等の投擲は、警官隊の近くにいた群衆とは関係のない、遠くにいた極く一部の者により散発的になされたことが認められるに過ぎないし、さらに≪証拠省略≫によれば、南側の空地及びその東側路地附近より火焔瓶や小石が激しく投げられたとは考えられず、結局原判示事実は認めることができない、というのである。

しかしながら原判示第一章、第二節、第四の二の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるに十分である。所論の点についても、原審第八八回公調中の証人神田隆次の供述記載中には、「同中隊は裏門前町交差点附近より二手に分れて、車道や両側歩道に群っていた群衆を散らしながら大須交差点まで西進して行ったのであるが、その間同中隊は両側の歩道の群衆の中から可成りの数の小石や数発の火焔瓶を投げられ、殊に火焔瓶は空地の中とかその傍の路地の奥から飛んで来た」旨の部分があるし、同第二六九回公調中の証人福田武二郎の供述記載中には、「西進して空地前の燃えている自動車のところへ行くまでの間小石を投げつけられてそれが鉄帽や身体に当り、又火焔瓶も投げつけられてそれをよけたようなこともあった。自動車の燃えていた附近では、石つぶてがバラバラと飛んで来て身体に当ったり、火焔瓶も二、三個飛んで来るなど強い抵抗を受けた」旨の部分があり、これ等の証拠のほか司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によって認められる小石や瓦の破片等が岩井通りの路上に散乱していた状況をも併せ考えると、原判示事実は優にこれを認めることができる。なるほど原審第八八回公調中の証人神田隆次の供述記載中には、「余り抵抗しているという状態は私の中隊はなかったのでありますから、此方が喚声をあげてすすめば向うは逃げる、そうして遠くから石を投げるという形でありました。」との部分のあること論旨の指摘するとおりであるけれども、右供述記載部分を同公調のその余の供述記載あるいは原審第九三回公調中の同証人の供述記載と対照してみるとき、同供述記載部分は、西進する同中隊に対し両側の歩道特に小路の入口とか奥の方、民家の屋上、空地の中等から小石や火焔瓶が投げられてくるので、同中隊がそれらの暴徒を解散させるため喚声を挙げて進むと暴徒は余り抵抗もせずに逃げて今度は遠くから投石してきた、という趣旨に解され、必ずしも所論の事実を裏付けるものではなく、また所論が原審第二六九回公調中の証人福田武二郎の供述記載として摘示しているのは「(問)それらの群衆(注、軌道上と燃えてる自動車の間にばらばらといた群衆)は、あなた方に対して何かやってましたか。(答)その人方がやってたのか、だれか両側の群衆がやってたのかその区別がはっきりしませんが、私どもがそこへ行くまでの間には小石を投げつけられて鉄ぼうがカンカンとなるし、それからからだにもあたるという状態はありました、それから火焔瓶を投げつけられてそれをよけたという記憶もございます。(問)何本ぐらいそこまでに投げられたんでしょうか。(答)そこまで行く間、その附近の状態など、二、三本私は記憶ございます。私だけですね。」との部分や、神田中隊は警杖を使って車道上の群衆を両側の歩道に押上げながら西進して行ったのであるが「(問)押し上げる時に群衆のほうから抵コウを受けましたか。(答)直接その警備実施するに際して警察官のびんたをはるとか、そういうような暴行は私の見たところでは見うけませんでした、私もまたそういう暴行は受けません。」「(問)その燃えている自動車の南側のほうに群衆があったというふうな記憶はないでしょうか。(答)群衆がおりました。(問)その群衆はあなた方に何か反こうというか、抵こうというようなものを示していたようですか。(答)まあ小石をぶつけるという程度で、前のほうにいる人はおとなしいんですが、それからはるか後方におる人は石を投げつけたり火焔瓶を投げたりなんかそういうことをしよったですね。(問)その火焔瓶や石を投げてるすがたがあなたの目に映るんですか。(答)えゝチラッと映るんですけれども人がきの中でとび込んで行けなかったんですね。」「(問)歩道上をずっと西のほうに押して行ったんですか。(答)そうです。(問)この際に抵こうはあんまりなかったとおっしゃいましたが、警杖を横に構えて押して行っただけで群衆は退ったんですか。(答)退りました。前におる方はおとなしかったです。後のほうにおるのが石を投げたり、火焔瓶を投げたり、悪口を言うという状況だったですね、私どもに対してぼう切れを持って立ち向うというような状況はなかったです」との部分を要約したものと思われるけれども、これらの証拠からは、岩井通りの両側や一部車道に群っていた群衆の背後から神田中隊に対しかなりの投石のあったことが窺がわれこそすれ、所論のように、投石が警察官の近くにいた群衆とは無関係な極く一部の者により散発的に行われたに過ぎなかったとは認められない。また所論は、同証人の「空地のところの群衆から火焔瓶や小石を投げたという姿を確認したことはない。」との供述記載から南側空地及びその東側路地附近よりの攻撃が激しかった事実は認められない、というのであるが、同供述記載は単に火焔瓶や石を誰が投げたか確認していないというだけであって、空地の方から神田中隊に小石や火焔瓶の投げられたことまで否定しているわけではなく、原判示事実認定の妨げとはならない。

所論(3)「山田(喜)中隊に対する攻撃の実態」の諸旨は要するに、原判決は第一章、第二節、第四の三において、「山田(喜)中隊は裏門前町交叉点附近より空地前附近まで暴徒及び群衆を歩道に押上げつつ西進したが、これらは同中隊に対しても『馬鹿野郎』『税金泥棒』『やっつけろ』等と罵声を浴びせ、火焔瓶、小石、コンクリート片等を投擲し、特に南側空地附近よりする攻撃が激しかったので、同中隊は数回にわたり、空地東側路地を南方に進んで暴徒を解散させた。岩井通り四丁目三番地附近の暴徒も同中隊に対し小石、棒切れ等を投げつけて攻撃したので、同中隊はこれらを北側歩道及び路地に追い解散させる等の行動を繰返した」と認定している。しかし中隊長山田喜四郎の証言によっても空地附近より火焔瓶は投げられていないし、小石、コンクリート片等による攻撃も、≪証拠省略≫によれば極く一部の者による全く散発的なものに過ぎず、原判決が認定しているような激しいものではなかったのであり、また岩井通り四丁目三番地附近の暴徒が同中隊に対し小石、棒切れ等を投げつけて攻撃したことはない、というのである。

しかしながら原判示第一章、第二節、第四の三の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるに十分である。所論の点についても、原審第一〇九回公調中の証人山田喜四郎の供述記載中には、「(問)証人は隊員を引率して進行して行く途中で群衆から攻撃を受けたというようなことはなかったか。(答)ありました。(問)それは大体どの辺の位置であったか。(答)咄嗟の場合でしたのではっきりしませんが、約一丁位西へ行ったところで石を投げられたり、又火焔瓶を投げられたりしました。(問)一丁位というのは、どこから一丁位というのか。(答)春日神社の西側の路地を出てから一丁位ということです。(問)証人たちが攻撃を受けた場所には相当大勢の人がいたか。(答)初めはそう沢山の人はいませんでしたが順次なだれて来て増えて来ました。(問)その群衆は証人たちに何か言っていたか。(答)「バカヤロー」とか、「税金ドロボー」とか、「やっつけろやっつけろ」とか雑多なことを言っていました。(問)それで証人はどのような処置をとったか。(答)最初の命令が上前津の線までで解散させよということでありましたので、私は自分で声を限りに無届デモはいかんから解散せよとさかんにいゝました。(問)それで附近にいた群衆は解散したか。(答)そんなことはとても問題にならん収拾のつかん状態になっていました。石は飛んで来るし、火焔瓶は電車道でめろめろと炎をあげて燃えているという状態で、しかもこちらが押して行くと退き、こちらが退がると押し返し、全く一進一退の状態でありました。(問)最初どの方面に向って解散させるために実力行使に出たか。(答)最初群衆がなだれて来たのは車道中央より南の方が多かったので、その群衆を南の方へ押して分散させようと思いまして、そちらの方へ押して行きました。すると後の方に沢山の人が増えて来ました。(問)証人たちは群衆を南の方へ押して行くとき群衆から攻撃を受けなかったか。(答)群衆は退きながらも投石しました。またその外に空地の方からも相当石が飛んで来ました。(問)そのとき火焔瓶は飛んで来なかったか。(答)火焔瓶が投げられたのは電車道だけでした。電車道には数十個の火焔瓶が炎を上げていました。(問)証人たちは群衆を南の方へ押して行ってからどうしたか。(答)群衆は南の方へ退きましたので、私たちは電車道に戻って来ました。すると今度は北の方に群衆が増えましたので、これを北の方へ押して行くと群衆は北の方へ退いて行きました。しかしこのときも攻撃を受けながら押して行くという状態でした。(問)証人たちはどのような攻撃を受けたのか。(答)投石が主でしたが、その外に棒切れのようなものも飛んで来ました。」との部分があり、原審第一三三回公調中の同証人の供述記載中には、「(問)あなたは一町位西へ行ってから、デモ隊を解散させる、いわゆる実力行使をされたわけですか。(答)それは殆んど、私共がそのデモ隊の流れと会ったときには、石が飛んできますし、火焔瓶が飛んできますし、そういうふうの混乱状態でありましたので……。(問)あなたは五十七問で、附近にいた群衆は解散したかという問に対し『そんなことはとても問題にならん収拾のつかん状態になっていました、石は飛んでくるし、火焔瓶は電車道でメロメロと焔をあげて燃えておるという状態で、しかもこちらが押して行くと退き、こちらがさがると押し返し、全く一進一退の状態でありました』という証言がありますが、その群衆の中からあなた方へめがけて石などを投げつけてきたということですか。(答)そうです。(問)その投げつけ方はどんなふうでしたか。(答)暗かったですから、どんなふうだったか、投げた人間もわかりませんし、その中からどんどん投げてきますし、それを申し上げることはちょっと難しいです。(問)いわゆる石合戦のような恰好でどんどん石が飛んでくるというような状態じゃないでしょう。ときたま飛んでくるというような状況だったか。(答)石合戦と申しますか、相当多数なんですからね、石合戦といえば、いえんことはないでしょうが……」との部分があり、さらに原審第一三九回公調中の同証人の供述記載中には「(問)証人は検察官の尋問の五十一問の中で、春日神社から部隊を引き連れて大須電停の方に向う際に、春日神社から約西へ一丁位のところで、石を投げられたり火焔瓶を投げられたりしたという証言をしておりますけれども、そういう記憶ございますか。(答)それは、その地点がこゝだと思いますが。(問)その地点が①の地点ですか。(答)この空地の前ですからね。自動車の燃えておったというところですが。」との部分があり、これ等の証拠によれば、山田(喜)中隊に対し、空地附近より、火焔瓶の投げられたこと、小石等による攻撃も激しかったこと、岩井通り四丁目三番地附近の暴徒も同中隊に対し小石、棒切れ等を投げつけて攻撃したことが認められるのであって、原審第六四六回公調中の証人小沢正夫の供述記載中の、「大須電停のちょっと手前ぐらいまで行ったとき両側からものすごく火焔瓶とか石がとんで来た、それは北側の歩道に上ったが、そのとき南側からとんで来た石が、右足のひざに当った。」旨の部分(なお証拠によれば、山田(喜)中隊は当夜岩井通りを空地附近より西に行っていないので、右の大須電停のちょっと手前というのは空地附近を指しているものと認められる。)、原審証人提計三の尋調中の、「乗用車の燃えている附近まで行ったところ、足元ではボンボン燃え出すし、両側から石が飛んで来て、下がるに下がれん状態になった。」旨の供述記載部分、原審証人堀場菊三郎の尋調中の、「放送車の横を通り過ぎた頃から、道路の両側にいたデモ隊員らしい人達によって火焔瓶が投げられ、特に乗用車の燃えているあたりでは集中して火焔瓶が飛んで来て、制圧できない状態だった。」旨の供述記載部分も右認定に沿うものということができる。所論は、これらの供述記載は、菊家哲助外二名作成の検証調書の記載に照らして信用できない、というけれども、同検証調書によれば、検証前既に岩井幹一一号電柱附近に集積されていた小石、瓦の破片、コンクリート塊等二〇九個を除いても、空地入口附近の岩井通り路上には検証時になお、小石、瓦の破片、コンクリート塊等約七三個が散在し、火焔瓶の燃えたと思われる跡も一四ヶ所あったこと、前叙のとおりであるから、同検証調書も右認定に沿いこそすれ、決してこれを妨げるものではない。

所論(4)「山田(京)中隊に対する攻撃の実態」の論旨は要するに、原判決は第一章、第二節、第四の四において、「山田(京)中隊は自動車二台に分乗して門前町通りを南下し、大須交叉点を左折して岩井通りを東進したところ、同通り四丁目三番地附近で暴徒より投石を受けたので下車したが、暴徒が前記西濃トラック運輸株式会社東側路地や附近の民家の屋上等から激しく投石し、『馬鹿野郎、何しに来た』と罵声を浴びせてきたので、同中隊は二、三回右路地の奥までこれを追って解散させた、他方五、六十名の暴徒が南側空地及びその東側路地附近から盛んに投石してきたので、同中隊の一部は右空地前歩道附近でこれを制圧したが、暴徒はなお空地東側路地の南方から激しく繰返し投石した」と認定している。しかしながら西濃トラック運輸株式会社東側路地から投石していた者も、山田(京)中隊の解散措置を受けてすぐ解散しており、とうてい暴徒といえないし、暴徒が附近の民家の屋上から激しく投石した事実を認めるに足る証拠はない。また南側空地及びその東側路地附近に五、六十名の暴徒がいたことを認めるに足る証拠もない。のみならず司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書、原審証人池田友造の尋調の記載によれば、南側空地及びその東側路地からの投石も極く一部の者による全く散発的な攻撃に過ぎず、原判決が認定しているように盛んなものではなかった、というのである。

しかしながら原判示第一章、第二節、第四の四の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるのに十分である。所論の点についても、原審一三八、第一四一回公調中の証人山田京市の供述記載中には、西濃トラック運輸株式会社東側路地にいた暴徒は同中隊の解散措置によって直ちに解散したとの所論に沿うかのような部分があるけれども、これを仔細に検討すると、同供述記載は、同中隊が群衆を解散させるため路地の奥に入って行くと、投石していた者達は何等抵抗することなく、すぐ奥の方に逃げ散ったという趣旨のことを述べているに過ぎず、その後全く投石等をしなくなったということまで述べたものとは認められない。かえって原審第一〇九回公調中の証人山田京市の供述記載、原審証人池田友造の尋調によれば、暴徒は同中隊の解散措置に会うと直ぐ退散するものの、同中隊が岩井通りに引揚げると、またもとのところに集ってきて相変らず同中隊に投石し、そのようなことが二、三回繰返されたことが認められるのである。そしてこのように同中隊に投石した者に共同暴行の意思があったと認めるべきこと後記(5)の論旨に対する判断で説示するとおりであるから、原判決がこれ等の者を暴徒と認定したのは相当である。また前掲原審第一〇九回公調中の証人山田京市の供述記載中には、「私たちが北へ入った道路から元の位置に戻って来ると、一旦解散した人たちが又北側の方に集って来ました上に、今度は石が頭の上の方から落ちて来るという状態になり、しかも通行人であったと思いますが、『あそこの屋根から石を投げている』と教えてくれた人もありました。その通行人が『あそこの屋根』と言って教えてくれた屋根というのは、北へ入る道路の東北角のところに二、三軒ありましたバラック様の家の屋根のことでありましたので、私は近所から梯子を借りて部下をその屋根に上がらせましたが石を投げているらしい人を発見することはできませんでした。」との部分があり、山田(京)中隊の隊員であった証人永田幸治の原審第一八三回公調中の供述記載中には、「それから今申しあげましたように石が飛んで来たから屋根の上に誰かいるんじゃないか、屋根の上からぶつけるんじゃないかということで、誰か小隊長か中隊長か記憶ありませんが、その指示で屋根を一ぺん見よということで、誰か隊員が裏のほうへ行って梯子を借りてきたはずなんですが、そのはしごが、丁度ぼくの前に、立てかけた梯子でぼくが上へ上って看板を乗り越えて見たら誰もおらなかった。」との部分があり、これ等の証拠のほか前叙のように浅井中隊に対しても民家の屋上から投石のあった事実を総合すると、山田(京)中隊に対し民家の屋上から投石のあった事実をも認めることができる。なるほど当時山田(京)中隊の隊員であった中村春雄、池田友造の両名とも原審において、屋上から投石のあった旨証言していないこと所論のとおりであるが、屋上から投石のあったというようなことは、山田(京)中隊の隊員すべてが必ず認識し記憶していると思われる程の事柄でもないから、所論の事実も右認定の妨げとはならない。さらに前掲原審第一〇九回公調中の証人山田京市の供述記載中には、屋根に上げた部下を降ろした頃になると、「今度は南の方から石が飛んで来て、南の空地の方にはデモ隊に参加したと認められる人達がいたので、一小隊をもとのところに残し、一小隊だけ連れて空地の方へ行った、その時空地の方からは盛んに石が飛んで来た、空地の中は草むらになっており、草が深いうえ暗かったので、そこにどれ位の人がいるのか見当がつかなかった、草むらのすぐ東側には南へ抜ける細い道路があって、その道路上に五、六十名の人がいたと思われ、しかもその人たちが石を投げているのだろうとは思われたが、誰が投げているのかよくわからず検挙するのが困難な状況だったので、群衆に向ってそういう危険なことをしてはいかんと再三警告した、すると先方は『税金ドロボー、やっちまい』というようなことを叫んでいた、私は石が飛んで来て隊員を路上におくことが危険だと思ったので南に抜ける細い道路の東側にあった自転車屋や八百屋の方へ避難させ私だけ、空地北側路上に駐めてあった乗用車を楯にして南から投石する状況を見ていた」旨の部分があり、同証人の原審第一三八回公調中の供述記載中にもこれと同旨の部分があり、原審六〇七回公調中の証人中村春雄の供述記載中には、中隊長より南に抜けている間所に入って行って検挙せよという「命令を受けたが、石が飛んで来るし、危くて入れない危険な状態だったので部下が入って行くのを止めた」旨の部分があり、原審証人岩月繁の尋調中には、「道路の南へ行く路地の入口附近にいたとき石がぼんぼん飛んで来た」旨の部分があり、前掲池田友造の尋調中にも「小隊長か中隊長かの命令で南側へ転進した時にも丁度北と南から石がどんどん飛んで来ていたが、その割合は南側の方が多かった」旨の部分や、「空地や路地に群衆がどの位いるか電車道からはわからなかったが、石が沢山飛んで来るので大勢いるということはわかった」旨の部分があり、これ等の証拠を総合すると、南側空地やその東側路地に五、六〇名の暴徒がいたこと、それらが山田(京)中隊に盛んに投石したことを認めることができる。所論は、前掲中村春雄の供述記載中に「まっ暗な中から石が飛んで来たりした。」との部分、同池田友造の供述記載中に「真暗だから、石が飛んで来るということは判るが、どこに居るということは判らなかった。」との部分があることから、山田京市の空地東側路上に五、六〇名の人がいた旨の前掲供述記載部分は信用できない、というのである。しかし原審証人吉田国雄の37・8・6付尋調によれば、全く人数が確認できない程暗かったわけではなく、近くにいる者の人数ならば確認し得る程度の明るさであったことが認められるうえ、前掲第一〇九回公調中の証人山田京市の供述記載によれば、同人は空地東側路上にいる群衆の方が彼の率いる警官隊より人数が多かったことをも考慮して、投石者の検挙を断念したというのであり、そのことによっても同人が空地東側路上の群衆の数の確認には相当の注意を払っていたことが窺がえるから群衆の数に関する同人の供述は信用できるといわなければならない。その他所論の指摘する原審証人池田友造の尋調中「空地の北側附近の車道上に、山田(京)中隊が並んだ時空地の方からぼつぼつ石が飛んで来た。」旨の供述記載は、同中隊が岩井通り南側に移動して後の状態を述べたに過ぎず、同人はほかに南側に移動する前南側から多数投石があった旨述べていること前叙のとおりであるし、司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書も空地及びその南側路地からの投石が盛んであったとの事実の認定に沿いこそすれ、そのような認定の妨げとなるものではない、なお所論は、暴徒が原判決認定のように警官隊を罵倒したとしても、警官隊の中にも勢よく飛び出して来て群衆を罵倒した者がいたのであるから、群衆が罵倒したことのみを問題とすることはない、というのであるが、群衆中より警官隊に対し投石等の暴行がなされているとき「馬鹿野郎何にしに来た」と叫ばれたという事実は、たとえ警官隊の中にも群衆に罵言を投げかける者があったとしても、なおその集団の暴徒性を推測させる事実としての意味を失うものではないから、罪となるべき事実として判示するのが相当であり、原判決がこれを判示したのを不当といえない。

所論(5)「警官隊に対する行為が散発的な個々の行為であること」の論旨は要するに、空地及び岩井通り四丁目三番地附近において警官隊に加えられた攻撃は、各自が思い思いになした全く散発的な攻撃であり、決してデモ隊員であった者や群衆の共同意思に基づく集団行動ではなかった、というのである。

しかし空地及び岩井通り四丁目三番地附近に集っていた群衆が、山口中隊に続いて群衆を解散させようとした浅井、神田、山田(喜)、山田(京)各中隊に対し、火焔瓶、小石、コンクリート片等を投げつけ、警官隊に追われるとすぐ退散するものの、警官隊が引き揚げると再び集って投石を繰返すというような、執拗にして激しい攻撃を加えたことは原判示第二節、第四認定のとおりであって、かかる攻撃の態様からでも、投石等の暴行をした者が多数にして、しかも同人らは互に他の者が警官隊に対し投石等の暴行をしていること、あるいはするだろうことを知りながら敢えて行動を共にしていたことが推認できるから、空地及び岩井通り四丁目三番地附近より警官隊に対して加えられた投石等の暴行は、同所に集合していた多衆の共同意思に基く集団的な行動であったと認めるのが相当である。所論は、所論に沿う証拠として、原審第二六九回公調中の証人福田武二郎の供述記載、原審証人池田友造の尋調、同吉田国雄の38・3・11付尋調を挙げているけれども、原審証人福田武二郎、同池田友造の各証言が必ずしも所論に沿うものといえないことは前叙(2)(4)の論旨に対する判断の際説示したとおりであり、原審証人吉田国雄の尋調中の所論摘示の供述記載部分は、最初に空地へ入った時の空地の中の状況を述べた「空地へはいったのは、さきほども言ったように自動車が燃えておる状態もあまり強く気付く状態でなく、空地の中、半暗がりの中にまだデモ隊の者が潜伏しておるのではないかということで視察のためにはいって行ったと、そのときにはぎっしりとおるような状態ではなく、バラバラと黒ずんだような状態でこれが見受けられたわけなんです。」との部分、その後一旦岩井通りまで出てから再び空地の中に引き返し、空地からその東側の路地に出た時の路地の状況について述べた「はっきり記憶しております、数名の者が投げておったということ、」との部分及び「(問)じゃあその投石をしておる際に、数人の者が投石をしておったと言われましたが、そのほかに、あなたの南のほうで会合をやっておるらしい人もあった云々と言われるのですが、あなたの見た範囲では空地東の道路上には何人ぐらいの人がおったと思いましたか、(答)まず集会を持っておった人が六、七人か七、八人、それからまばらではございますが、私の付近には私の位置から車道、すなわち岩井通りの方面には数名あるいは七、八人かその程度のことなんです。(問)するとあなたの視界の範囲の中で見たというのは両方合わせて十四、五名、十数名……(答)そんなことなんですね。」との部分を要約したものと解せられる。しかしながら同証人の37・8・6付尋調中には「数的にはわかりませんけれども大分おって、伏せ、あるいはすわっておって、私を同志と間違えて、同志大丈夫かというような声をかけられておるし、それから向こうがそういうふうでくれば、あらゆるものが武器だ、というようなことですね、」との部分があり、空地の中には大分人が居ただけでなく、その中には闘志の旺んな者もいたことが認められる。また原判決挙示の証拠によれば、同証人が二回目に空地東側路地に入ったのは既に同所よりの警官隊に対する投石等が終りに近づいていた頃であったことが認められる。のみならず右尋調中の「(問)それからもっと道をはいっていったほうの南のほうには一人もいなかったんでしょうか。(答)いやこれはおっただけれども気がつかなかったですね、今思い起こしても、その当時のことでもちょっとそこまでは気がつかなかったです。」との部分によれば、空地東側路上に十数名いたというのも、同証人の目にとまったのが十数名で、それ以外にはいなかったという趣旨でないことがうかがえるから、警官隊に盛んに投石等のなされた頃にはもっと沢山の群衆のいたことは間違いない。これ等のことを考え合わせると所論吉田国雄の尋調の記載も、空地附近よりの警官隊に対する投石が集合した多衆の共同意思に基く集団行動であったとの認定を妨げるものとはいえない。さらに所論は、原判決は元被告人片山博が暴徒の一員となって火焔瓶を投げた、と認定しているけれども、既に(4)山田(京)中隊に対する攻撃の実態のところでも言及したように、同被告人は単独で投げたのであり、共同意思に基づき集団の一員として投げたのではない、というのであるが、同被告人の27・9・10付検調によれば、同被告人は、警察放送車に火焔瓶が投込まれたのを見て、皆やったな俺もやるぞと思い、所持していた火焔瓶二本を同放送車に投げつけた後、群衆とともに一旦空地東側路地の奥にある墓地まで逃げ、同所に暫くいたが、附近の人達が北の方の岩井通りに向って「おい行こう行こう。」と言って歩き出したので、一緒になって少し北上したとき、岩井通りの方から警官隊がワーッとやって来たので、こん畜生と思って、所持していた火焔瓶一発をその警官隊目がけて再び投げつけたことが認められ、その間同被告人は、附近にいた多衆が警官隊に対し多衆の合同力を恃んで火焔瓶や小石、コンクリート片等を投げつけ、罵声を浴びせる等原判示第四の共同暴行脅迫を加えている情況を当然目撃していたと認められるから、同被告人が共同意思に基いて火焔瓶を投げたことは明らかである。

以上要するに、原判示第二節、第四の事実についての原判決の認定は正当であり、原判決に所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。

26  第五点、四、第三、二、(二)「大須交叉点附近の状況」について

所論のうち(1)「警官隊に対する攻撃の実態」の論旨は要するに、原判決は第一章、第二節、第五の一として「神田中隊は大須交叉点に到着し、同所附近に群っていた数百名の群衆を北、西、南へ追って解散させたが、南方へ後退した二、三百名の者が同中隊に対し『馬鹿野郎』『税金泥棒』『こゝまで来い、殺してやるぞ』等と罵声を浴びせ、火焔瓶や小石を投擲したので、同中隊はこれを二、三回にわたりさらに南方に追散らした後、同交叉点で警備に従事した」と認定し、同二として「山田(京)中隊の一部は前記四の警備活動の後、他の部隊と共に、西方岩井通り四丁目十二、三番地前附近の歩車道上に群っていた暴徒及び群衆を、大須交叉点南方西別院の入口附近まで追って解散させた。」と認定している。しかしながら当時デモ隊は既に崩れてしまっており、大須交差点附近には、見物人やデモ隊員だった群衆が群っていたに過ぎない。警官隊は群っているに過ぎない群衆に対し、威力をもって追いかけ解散させているのである。このような警官隊の無法な実力行使に会って、一部の群衆が警官隊に抵抗したり、罵言を浴びせたりしたのを、警官隊に暴行、脅迫を加えたとして騒擾罪に問擬するのは、法の正義を無視したものといわなければならない。さらに大須交差点附近から南方へ後退した二、三百名の者が神田中隊に火焔瓶を投げた事実は認められず、石を投げたのも大勢の群衆の中の極く一部で、大多数は警官隊に追われると逃げ、警官隊が引揚げると野次馬根性で引返したに過ぎない。また岩井通り四丁目一二、三番地前附近の歩車道上に群っていた人々の中に暴徒と呼ばれるような人はいなかったのに、原判決はこれらの人々を暴徒及び群衆と認定している、というのである。

しかしながら、岩井通りを東進していたデモ隊中より、デモ隊に解散を勧告しながら岩井通り四丁目四番地阪野豊吉方前を徐行していた警察放送車に石や十数個の火焔瓶が投込まれて火焔瓶が車内で発火炎上し、同放送車に乗っていた警察官野田衛一郎外三名がそのため負傷し、その頃投げられた火焔瓶の中には附近の民家のガラス戸の桟や板塀、柱に当って発火炎上するものがあり、そのため、それらの一部も焼焦げ、さらにデモ隊員中より岩井通り四丁目八番地空地附近に停めてあった民間の乗用車二台にも火焔瓶が投込まれて発火炎上したほか、警察放送車より空地前附近にかけての岩井通り路上では、その頃暴徒の投げた多数の火焔瓶があちこちで燃上り、群衆の中には「ざまを見ろ」「やっつけろ」「やったやった」などと叫ぶ者があって、附近一帯は騒然となっていたこと、デモ隊は右に述べたような放送車や乗用車の発火、それに引続く警察官清水栄の拳銃発射を伴う解散措置により崩れていったものの、崩れたデモ隊員の多くは岩井通りから退散することなく、見物人らと裏門前交差点附近より大須交差点附近にかけて車道や両側歩道等に群り、その中の多数の者が暴徒となってそれらの群衆を解散させるために出動した山口、浅井、神田、山田(喜)、山田(京)の各中隊に対し、火焔瓶や小石、コンクリートの破片を投げつけるなどして激しく抵抗したことは原判決が第二節、第一、第二、第四で正当に認定しているとおりであり、しかも原判決が第二章証拠の標目第二節、一ないし五に挙げている証拠によれば、裏門前町交差点附近より大須交差点附近にかけての岩井通り上に群り、警官隊に右に述べたような暴行、脅迫を加えた者あるいはそれに加担する意思を有していた同調者等多数の暴徒は警官隊の解散措置により次第に群衆とともに四方に分散移動したもののなおも退散することなく、そのうち岩井通りを西方に移動した者が、大須交差点附近に群っていた暴徒及び群衆と合流して数百名の集団となったことが認められるから、同所に集っていた群衆の中に多数の暴徒の混っていたこと、及び岩井通り四丁目一二、三番地前附近の歩車道上に群っていた人々の中に多数の暴徒のいたことは容易に推認することができ、これらの群衆をそのまま放置するときは、その中に混っている、暴徒が多衆の力を恃んでなお火焔瓶や石を投げる等の行為を継続し、警察官や通行人の身体に危害を加え、あるいは附近の住民の財産に重大な損害を及ぼす虞があり、これを解散させる緊急の必要があったといわなければならない。従って神田中隊や山田(京)中隊がこれらの群衆に対し原判示のとおりの解散措置をとったのはまことに止むを得なかったというべきであり、原審がこれに対する原判示のような暴行、脅迫を騒擾罪に問擬したからといって法の正義を無視したものといえない。論旨の指摘する原審第八八回公調中の証人神田隆次の供述記載部分も、その前後の部分と併せて読むと、同中隊が投石等をする暴徒を解散させるため、南に追って行くと、暴徒は一旦逃げるものの直ぐ引返して集団となり、なおも投石するので、同中隊はまた解散措置をとるというようなことを繰返していたが、そのようなことを繰返していても仕方がないので三回位で止め、今度は交差点の角に検問所を設けて通行人を取締り始めたところ、暴徒はその後も若干騒いでいたけれども相手にしないでいるうちに漸次退散していったという趣旨に過ぎず、もし警官隊が威力を以て不法な実力行使をしたりしなかったなら群衆はそのまま解散したとの趣旨ではないので、右認定を左右するに足りない。さらに右証人神田隆次の供述記載中には、「(答)南の方へ逃げた一番数の多い群衆は電停から約半丁位南のところで一応又二、三百人……二百人位かたまってそこで又警察部隊に対して罵詈雑言を浴せかけ、其の言葉は、馬鹿野郎、税金泥棒、こゝまで来い、殺してやるぞというような事をさかんにわめきたて、小石を投げる、或は火焔瓶もこゝで若干投げて来たという事もありましたので、西と北は散ってしまって周囲にわめく人も見えず、影も見えなくなってしまったので、中隊全員が此の南の方のかたまって居る群衆を散らそうとかゝったわけです。(問)之はそこに集って居る人が殆んどそういうことを云って居るのか、ごく僅かの人が云って居るのか、どんな形で浴せかけられましたか、(答)之は集って居る人たちが相当多いせいか交互にそういう事を浴せかけて或は石を投げて来るという状態であったと思います。一人二人ではなくて交互に浴せかけてくるという状態であったと思います。(問)南の方にかたまって居る人たちに対し証人はどういう措置をとりましたか。(答)此の人たちはこゝから散りませんので之を散らそうと思って二、三回約一丁位追ったのであります。追うと或は西別院の境内の方へ逃げこむ、又は橘町或は飴屋町の方へこういう小路へ逃込む、或は真直に広い本町通りを南へ逃げるという状況でありますから、此方も電停まで戻ると又波のおし寄せる如くに元の位置まで戻って来て同じような事をくり返して居る。そして二、三回こういう事をくり返しましたが、もうだんだん罵詈雑言は相変らず浴せてくるが小石を投げるとか火焔瓶を投げるとかの状況も次第になくなりましたのでいつまでもこんな事をやって居ても仕方がないと思って三回位……追っては引返し又追っては引返すという事をくり返した後は一応部隊を大須電停に集結させました。(問)その南の方へ三回位追って行ったというがその間証人たちは群衆から攻撃を受けましたか。(答)攻撃は前に申したように、小石を相当投げてくる、火焔瓶も二、三発投げて来るという事がありました。(問)それは主としてどこから投げて居たか証人にそれが察知出来ましたか。(答)之は大須電停の約半丁位南の地点から投げて来たという風に思われました。」との部分があり、これによれば大須交差点附近から南方に後退した二〇〇名余りの集団の中に神田中隊に火焔瓶を投げた者のいたこと、石を投げた者も多数いたことが認められる。のみならず、残りの群衆も、自らそのような行動に出ないまでも、集団の中にそのような暴行をしたり、罵言を浴びせたりする者の混っていることを知りながら、警官隊に追われれば一応逃げ、警官隊が引揚げるとまたもとのところに引返すような行動を三回位繰返しているのであるから、集団員全部に騒擾加担の意思があったと認めざるを得ないのであって、所論のように群衆の大多数が単なる野次馬に過ぎなかったとはとうてい認められない。原審第二六九回公調中の証人福田武二郎の供述記載、同第七八回公調中の証人藤原三郎の供述記載、同第二七六回公調中の証人鈴木正実の供述記載も右認定を裏付けるものである。右証人藤原三郎の供述記載中の論旨に指摘する部分は、警察官が南へ押寄せたとき警察官に向って火焔瓶が投げられた光景を見た記憶がない、というだけであって、同証人も毛皮店の前の本町通りの車道上で南の群衆の方から飛んで来たと思われる火焔瓶二、三本が燃えたのを見たことは否定していないのであるから、右供述記載も右認定を妨げるものでなく、また論旨の指摘する原審第二三回公調中の証人神田末吉の供述記載、同第二四回公調中の証人小林きし、同加藤眞七の各供述記載、同第二五〇回公調中の証人山崎定輝の供述記載、同第二五六回公調中の証人野副菊枝の供述記載も、果して同証人らが群衆の行動全体を観察していたかどうか疑わしいふしがあって、右認定を左右するに足りない。

さらに所論は、原判決は、同三として「荘司中隊は自動車に搭乗して門前町通りを南下する途中、大須交叉点より北約二十米の地点で、北へ後退する群衆のため進行不可能となって下車したところ、暴徒は北及び西より激しく投石してきたので、同中隊はこれを門前町通りの北方及び東西の道路へ追散らしたが、さらに又集って投石するので、解散活動を繰返した。」と認定し、同四として「青柳隊が大須交叉点北の門前町通りで、群衆整理と警備のため行動していたところ、暴徒は同隊に対し西又は南方より投石した」と認定している。しかしながら荘司中隊に暴徒の投石したのが北及び西からであったこと、投石が激しかったことを認めるに足る証拠はなく、また原審第一六三回、第一五七回公調中の証人荘司安一の供述記載によれば、石は群衆の前の方の人に当るかもしれない状態で投げられていた、というのであるから、投石は群衆とは無縁になされた個々の行為に過ぎないし、青柳隊に投石したのが西又は南方よりであったことを認めるに足る証拠もない、というのである。

しかしながら原審第一五七回公調中の証人荘司安一の供述記載中には「(答)その騒ぎが一段落すんだ頃だと思います、その人波が一流れしてしまって車道上に人がいなくなった頃になりまして、止めてある車に西の方から、あるいは北の方から石を投げる者が相当出てまいりましたので、これは車に当るばかりでなくうしろから投げますというと人の層が厚いので前の人にも当るということで非常に危険だったですから、それをつかまえようと思いまして部隊を何小隊であったか知らんが一つの小隊は北の方、一つの小隊は半分ずつに分けまして西の方からもう少し北へ行って、一丁位北へ行ってから仁王門通りの東の方へも多少部隊を出してこれを追払ったとこういうようなことをやったんです、第一回それをやりましてこちらへ帰ってくるというとまただんだんと一般のその附近の群衆の人だとか、あるいはそのデモ隊の人なんかゞまた戻って来て石が投げられるとまたそれを追いに行くというようなことを二、三回繰返しておったと思います。(問)それであなた自身石をぶつけてよこす人影を見るとか、あるいは石が人や車に実際当るところを見るとか、そういうようなことは現実に見られたと思いますが……。(答)その頃になりますとなんか電気が停電しておったような気がしますが、どこから石が飛んで来るか、もちろん投げる人とかは私の位置からは見えなかったんです、たゞ車に石が当る音であるとか、あるいは車のガラスが破れる音であるとか、それから私の出ておりましたときに私達のほうに投げてくる、私は電柱で防いでおったんですがそれがそれてそちらのほうの東側の民家のガラス戸等に当るのが相当ありました」との部分があり、原審第一六〇回公調中の右同証人の供述記載中にも「(問)あなたはその車を降りてから群衆の中から石を投げられたというような趣旨の証言をされておると思うんですけれども、それはどこでどの辺から石が飛んできたということになりますか。(答)石の飛んできましたのは車を停めた西側の歩道、北側の歩道であったと思います。(問)そうするとその車よりは大体西並びに北の方角からということになりますか。(答)西からあるいは北からということははっきりしませんが、とにかくそちらの方であったと記憶しております。(問)あなた自身がそれを目撃したわけではないんでしょうか。(答)西側からあるいは北側と思われるようなところから石が飛んでくるというようなところは、まあカンと当ってから、大体あの附近からきたんじゃないかな、ということなんで、夜間だから石がどこからくるということはわからないわけで、大体そうじゃないかと思われるわけで、道の方からそれ石を投げたぞというような言葉もときどき聞えるというような状況でありました。(問)車に当った石が、音がするというんですけれどもどんな風に何個位飛んで来たのでしょうか。(答)何個位飛んできたかということはこちらの気も散っておりますので記憶ございません。(問)その場合車のガラスでも破れたというようなことがありましたか。(答)ガラスも二、三枚割れたと思います、もっと割れたんじゃないかと思います。」との部分があり、原審証人佐野正広の尋調中には、投石の状況につき、「機関銃で一斉掃射するようなことはなかったですが、鉄かぶとにあたった音を聞くとか、そういうような状況でした。」との部分があり、これ等の証拠を総合すると、荘司中隊に対する投石は北及び西からであったこと、投石も相当激しかったことが認められる。また原判決は、所論のように投石者が附近の群衆全部と一体となり投石したと認定しているわけではなく、岩井通り上や大須交差点附近にいた多数の暴徒との共同意思のもとに投石したと認定していると解せられるところ、前掲荘司安一の供述記載によれば、荘司中隊に投石した者は、前叙のように大須交差点附近に集っていた群衆中、警官隊の解散措置に会って同所より北あるいは西に分散移動した群衆に混っていたと認められるのであるが、大須交差点附近に集っていた群衆というのは、同交差点附近まで東進したときデモ隊が崩れてそれ以上進行できなくなったため、その附近に群っていた者及び原判示第一、第二、第四の暴行、脅迫の行われた附近より後退して来た者の集りであったこと前に認定したとおりであるから、荘司中隊に投石したのがそのいずれであったにしても、同人らは大須交差点東側岩井通り上において、多数の暴徒が警官隊に火焔瓶を投げつける等の暴行をしていることを知っていたと認められるうえ、前掲荘司安一の供述記載によれば、投石者は、同中隊が増援隊として到着したこと、附近の群衆の中から他に同中隊に投石する者が相当数いることを知りながら、それらの者とともに、同中隊の二、三回にわたる解散活動にかかわらず、執ようにその場に集って来ては投石したことが推認できるから、これら多数の暴徒との共同意思のもとに投石したと認めざるを得ず、この点に関する原判決の認定は正当であって、前掲荘司安一の供述記載中論旨に指摘する部分は単に石が群衆の前の方の人に当るかもしれない状態で投げられていたというだけで右認定の妨げとはならない。また青柳隊に対する投石が西又は南からであった事実は、≪証拠省略≫によってこれを認めるに十分である。

所論(2)「消防車に対する攻撃の実態」の論旨は要するに、原判決は、第五の五として、「中消防署橘出張所所属の消防司令補伊藤光秋が指揮する消防車『愛八の七三』が、岩井通りで炎上中の浅井忠文管理の乗用車の火災を消火するため、門前町通りを大須交叉点に向って北上中、暴徒は石及び火焔瓶を同消防車に投げつけたが、……中略……右消防車が岩井通りで約二十分にわたり浅井忠文管理の乗用車の消火に努めていたとき、暴徒はこれに対して数個の火焔瓶を投擲した」と認定している。しかし消防車に対する門前町通りでの火焔瓶の投擲は、多くの群衆のうちの、極く一部の者が群衆の意思とは関係なく、散発的に行ったに過ぎず、またデモ隊員であった者が消火活動中の消防車に火焔瓶を投げつける等消防活動の妨害になるようなことをする筈はなく、仮にそのような事実があったとすれば、それはデモ隊員であった人達を含む、全ての群衆の意思と全く無関係な、挑発的な意思を持った者の行為であったとしか考えられない、というのである。

しかしながら門前町通りを北上中の消防車に火焔瓶の投げられた当時既に大須交差点東側の岩井通り上では原判示第一、第二のとおり、多数の暴徒により警官隊に火焔瓶を投げつける等の暴行が行われていたのである。そして大須交差点南側門前町通り上にいた群衆というのは、右の如き暴行等の行われた附近から後退して来た者、あるいは大須交差点の附近から南に逃げて来た者の集りで、しかも当夜火焔瓶を携帯していた者はデモ隊と警官隊との衝突を予測しながらデモ隊に加わって岩井通りを行進していた者であったことを考えると、消防車に火焔瓶を投げた者は岩井通り上において多数の暴徒による集団的な暴行の行われていることを知っていたと認めるのが相当であり、そのような集団による暴行の行われている現場に急行中とみられる消防車に火焔瓶を投げつけたこと自体からでも、火焔瓶を投げた者には岩井通りで暴行している集団に加担する意思のあったことが認められるのであって、論旨の摘示する原審第二四回公調中の証人小林きし、同加藤眞七の各供述記載も、消防車に火焔瓶を投げたのが多数の群衆中の数名であり、附近にいた群衆にも特にこれに同調する気配が感じられなかったことを窺がわせるに止まり、右認定を妨げるに足りない。また原審第二五回公調中の証人伊藤光秋の供述記載中には「消火活動中消防自動車の周囲、三、四個所で火が出た、火が出た個所は自動車の西側三、四米ないし五、六米のところで、附近のことについてははっきり記憶ないが、一二、三人の人がいたように思う、その人たちのいたのは本町と岩井通りの十字路の西南角のところだった」という趣旨の部分があり、乗用車の消火に努めていた消防車に数個の火焔瓶の投擲された事実は優にこれを認めることができ、しかも原判示第一、第二のとおりの岩井通りの状況から、暴徒集団の火焔瓶投擲により、炎上しているとみられる乗用車の消火活動に従事中の消防車に向って火焔瓶を投げつけたこと自体から、火焔瓶を投げた者にはそのような集団の合同力に加担する意思のあったことが認められるのである。所論はデモ隊員であった人達が、デモ隊全体の意思として、乗用車の燃えるのを食止めようとしていたことを前提として、原判決の事実の認定を論難するけれども、その前提の採ることができないことは既に控訴趣意(総論)第五点、四、第二、三の論旨に対する判断で説示したとおりであり、原審第七二九回公調中の被告人野副勲の供述記載中には、「(問)その群衆が、その消防車の消火作業を妨害するというようなことがありましたか。(答)妨害というんじゃなくて『おれ達に水をひっかける気か、』というような罵声がとんだということはあるんです、というのは、その前にちょっとさかのぼって、デモ隊に消防車で水をぶっかけて解散させたというようなことが、あれは占領中でしたか、そういうことがあったんで、そういう記憶がやっぱりみんなの気持の中にあったんじゃないかと思うんです。(問)それで『おれ達に水をぶっかける気か』というような声が群衆から出たんですね。(答)えゝしかしホースがずっとのばされまして、それで燃えている乗用車のほうへホースがひっぱられて行って、消火を始めたら、そういうような、やじのようなものが全然なくなって……」との部分があること所論のとおりであるけれども、前掲伊藤光秋の供述記載の信用性を左右するに足りない。

さらに所論は、原判決は第五の五末尾に「暴徒のこのような攻撃の際、被告人小野芳二は同交叉点附近で警備活動中の警察官を『税金泥棒』と罵り、同崔且甲は同所附近で暴徒及び群衆に向い『憎しみをこめて石をぶっつけろ』と叫び、同朴正熙は同交叉点東南角附近より火焔瓶二個を、同朴柄采は同西南角附近より、同宮村治は同東北角附近より火焔瓶各一個を警備活動中の警察官に投擲し、李一宰は同交叉点西南角附近より火焔瓶一個を、同東北角附近を多数の警察官を乗せて進行中のトラックの後車輪の近くに投げつけた。」と判示しているけれども、この被告人らが原判決の認定しているような行為をしたという明確な証拠はなく、さらに、これらの被告人の行為によって、原判決のいう暴徒なり群衆なりが、勢を増して警察官を攻撃したということもなく、デモ隊員であった人達を含む群衆と一体となって、右被告人らが行動したという証拠はもちろん存在しない、というのである。

しかしながら被告人小野芳二の27・7・26付27・7・25付各検調は同被告人が、原審証人林勇平の尋調は元被告人崔且甲が、被告人朴正熙の28・1・9付、28・1・16付検調は同被告人が、原審証人大津正則の37・9・20付、37・11・28付尋調は被告人朴柄采が、被告人宮村治の27・7・14付検調、原審証人奥田豊の尋調は被告人宮村治が、被告人朴孝榮の検調、同朴正熙の28・1・16付検調は李一宰が、いずれも原判示第二節、第一、第二、第四、第五のとおりの暴行、脅迫を行った暴徒集団に加担して原判決認定どおりの暴行あるいは脅迫を行った事実を認めるに足るものということができる。所論のうち、これらの被告人の行為によって原判決のいう暴徒なり群衆なりが勢を増して警察官を攻撃したとか、デモ隊員であった人達を含む群衆と一体となって右被告人らが行動した、というような事実はない旨の部分は、原判決の認定していない事実の誤認を主張するものであって、その採るを得ないことは論をまたない。

以上のとおりであって、原判示第二節、第五の各事実は、原判決の挙げている証拠によって優にこれを認めることができ、記録を調べてみても原判決に所論のような事実誤認があるとは認められない。論旨は理由がない。

27  第五点、四、第三、二、(三)「大須交叉点以西の状況」について

所論は要するに、原判決は第一章、第二節、第六として、「富成大隊の鶴田中隊と近藤中隊がトラック等に搭乗して相次いで伏見通りを南下し、左折して岩井通りを東進する際、同通り三丁目南北歩道附近の暴徒及び群衆は右両中隊に対し、『馬鹿野郎』『税金泥棒』等と罵声を浴びせ、多数の石を投擲して攻撃を加え、特に近藤中隊には数個の火焔瓶を投げつけ、うち二個はトラックの車体と車輪に命中し、うち三個は同通り三丁目一番地寺西政十方前歩車道上に破裂して発火炎上した、鶴田中隊は同通り三丁目七番地前附近車道上に下車し、南北歩道上の群衆を整理解散させて同所附近の警備についたところ、暴徒は同中隊に対し火焔瓶二、三個及び多数の石、瓦等を投擲した、」と認定している。もし原判決が、警官に罵声を浴びせたり、石とか火焔瓶を投げた者を暴徒と判示していると解すると、特に両中隊に罵声を浴びせた者に限って「暴徒及び群衆」と判示した理由が理解できないし、もしまたデモ隊に加わった者を暴徒と判示していると解すると、デモ隊が崩れた後はデモ隊に加わっていた者と一般群衆とを区別できなくなってしまっているから、デモ隊に加わっていた者のみを群衆と区別し、特別に扱うことはできない。のみならずデモ隊に加わっていた者即暴徒といえない。このように原判決の「暴徒及び群衆」「暴徒」「群衆」の意味が不明であるから、原判決には理由不備の違法がある、というのである。しかし原判決が本件騒擾の現場にいた人達のうち、多衆の合同力を恃んで自ら警官等に石や火焔瓶を投げたり、脅迫的なことを叫んだりした者、及びそのような暴行又は脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思で行動した者即ち共同意思のあった者を暴徒と呼び、それ以外の者を群衆と呼んでいることはこれまでにも再三説明したとおりである、なるほど原判決は、同通り三丁目南北歩道附近の「暴徒及び群衆」が、両中隊に、罵声を浴びせ、多数の石を投擲して攻撃を加えたと判示しているけれども、それは、岩井通り三丁目南北歩道附近に暴徒や群衆が群っており、その中から両中隊に対し罵声を浴びせ、多数の石を投擲するという攻撃が加えられたという趣旨を判示したのであって、決して「暴徒」及び「群衆」の双方が罵声を浴びせたり、投石したりしたとの事実を判示しているわけではないから、右の判示があるからといって、原判決の「暴徒」或は「群衆」の概念が混乱していて不明であるとはいえず、原判決に所論のような理由不備はない。

次に所論は、原判決は、前叙のように、暴徒及び群衆が両中隊に対し「多数の石を投擲して攻撃を加え」とか、暴徒が鶴田中隊に対し「火焔瓶二、三個及び多数の石、瓦等を投擲し」た旨、恰もこれらの者が全体として両中隊に多数の石、瓦等を投擲し、また鶴田中隊に火焔瓶を投擲して攻撃を加えたかの如く認定している。しかし司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書によっても、投げられた石や瓦等が多数であったとか、火焔瓶の投げられた事実は認められず、火焔瓶や石等の投擲も、暴徒や群衆の集団的な統一行動としてなされたわけではなく、群衆中の極く一部の者により、個別的、散発的になされたに過ぎない、というのである。

しかし原判決が第二節、第六の証拠として第二章、第二節、六に挙げている証拠によれば、富成大隊の鶴田中隊と近藤中隊とはトラック等に分乗し、相次いで伏見通りを南下し、西大須交差点を左折して岩井通りを東進して行ったのであるが、鶴田中隊の中隊長であった証人鶴田諸兄の原審第一五五回公調中の供述記載中には、「そこで電車道へ曲って進行したんですが今申し上げましたような状況で非常に人が多くて仲々走れない、更に石が沢山飛んでくる、現に私の乗っておったジープの前面のウインドガラスは、その投石によって割れましたが更に雨あられといっては形容が大きいかしれませんが、それ位の程度で石が沢山飛んでくるというような状況でありましたので、思うように車が進めなかったわけです。」「出発して進行中に石を沢山投げられた、これは第一の攻撃ですけれども更に現場で警備配置についてからも、どこから飛んでくるかわからんが、石が沢山飛んでくる、更に車輛めがけてでしょうけれども火焔瓶が飛んでくる、それも幸い車輛に一つも当りませんでしたけれども、火焔瓶が飛んでくる。更にこれは肉体的な暴力じゃありませんが、税金泥棒だの馬鹿野郎、たわけだのというような罵声をあげながらやってくる、こういうふうないわゆる攻撃といゝますかそういうふうな攻撃を受けたというわけです。」とか「私の身のそばへ飛んできたのは現在の記憶では二、三発ですけれども……」との部分があり、鶴田中隊の隊員であった原審証人北口留男の37・6・29付尋調中には、「(問)それから五十メートルくらい東へ進まれた時に石が飛んできたと言われますが、その石はどちら側から飛んできましたか。(答)上前津へ向って右側です。(問)どのくらい飛んできたように思いますか。(答)ちょっと記憶はないですが、とにかく飛んでくるのが見えたです、だからなんかその時に無意識に自分でしゃがんだんですが、鉄かぶとをかぶっていてがんがんと音がする感じを受けたような記憶があるですね、それから車のボディーに当ったあれですね。(問)その時に誰か同僚がけがをされたように言われましたが誰がけがをしましたか。(答)ちょっと記憶ないですけれど誰だったですかね、とにかくけがをしたことは覚えています。」との部分があり、近藤中隊の中隊長であった証人近藤時義の原審第一一〇回公調中の供述記載中には「(問)其の火焔瓶の他に何かトラックにあたったものがありますか。(答)石を投げるから危いで注意せよと上の方に乗って居る者(注、証人はトラックの助手席に隊員は荷台に乗っていた。)が云って居たから石を投げて来たと思います。(問)石を投げるから危いと云ったという者というのは証人の部隊の隊員ですか。(答)そうです、危いから踞め踞めと云って居ました。」との部分があり、同中隊の第一小隊長だった証人枝吉末虎の原審第三二三回公調中の供述記載中には「(問)火焔瓶を投げられた地点附近で投石されたことはありますか。(答)私は丁度運転台の助手席に乗ってましてボデーにあたったりなんか……音がそのときしてましたから。(問)相当たくさんですか。(答)カンカンというふうに石がボデーにあたる音が今でも記憶にあるんです。」との部分があり、同中隊の隊員だった証人都築末弘の原審第六四一回公調中の供述記載中には「電車通りを曲がりますと、すぐどこからか石が車めがけてとんできまして、けがをするほどではありませんでしたが、私の腕にあたった記憶です、同リョウの中にはけがをした者もありました」との部分があり、大隊長として、近藤中隊のトラックに追随進行していた証人富成守次の原審第二八二回公調中の供述記載中には「金沢町の電車通りへ出てから少し行ったところへんで、前の二輛や私たちの車に相当石が飛んでくるということと前の車のトラックのボデイに火焔瓶をぶつけられてトラックの下で燃えているのを私がその車のあとから行ってそれは現認しておりますが、それは北側のほうのボデイにあたったんですが、それをずっと行きますと、もうずっと大須の電停までの間に石が飛んでくるということで相当危険な状態であったわけです。」との部分があり、さらに司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書中の「(30)中区岩井通り三丁目四番地付近北側車道上に暴徒が投石したと思料される小石が無数に散乱していたがその状況は別添写真112に示すとおりである」との記載と別添写真112をも総合すると、岩井通り三丁目附近を東進中の鶴田、近藤両中隊に対し、多数の石を投擲して攻撃の加えられた事実及び同通り三丁目七番地附近で警備配置についた鶴田中隊に対し火焔瓶二、三個及び多数の石等の投擲された事実を認めるに十分である、所論は、菊家哲助外二名作成の検証調書によれば、同人らが検証の際大須交差点と西大須交差点の間の岩井通り上で押収した石等は僅かに小石一二個とコンクリート塊二個に過ぎず、岩井通り三丁目七番地及び四番地附近では火焔瓶の爆発箇所は二ヶ所に過ぎないから、右の供述記載はいずれも信用できない、というのであるが、同検証調書によれば、大須交差点と西大須交差点の間の岩井通り上で押収した石等は、石ころ九個、コンクリート塊六個の計一五個であるけれども、同検証調書中にはその他に岩井通り三丁目四番地附近北側車道上に小石が多数散乱していた旨の記載のあること前叙のとおりであり、原審第二〇九回公調中の証人大平嘉夫の供述記載によれば、これらの小石が暴徒によって投げられたことをうかがいうる状況であったことも認められる。また同検証調書によれば、原審第一六二回公調中の証人鶴田諸兄の供述記載によって鶴田中隊が警備配置についたと認められる同通り三丁目七番地中央木材相互株式会社と、三丁目一〇番地堀場常三郎方前の二ヶ所に火焔瓶の爆発した跡と思われる箇所のあることも認められるから、同検証調書は右認定に沿いこそすれ、右認定を妨げるものではない。さらに所論は、原判決が証拠として挙げている元被告人杉浦登志彦の27・11・4付検調、原審第七三〇回公調中の被告人井上信秋の供述記載によっても大勢の人が多数の石を投げた事実は認められない、というのであるが、鶴田、近藤両中隊に多数の投石のなされた事実は右各証拠の外前叙各証拠によって十分認めることができること前叙のとおりである。さらに原判決が第二章、第二節、六に掲げている証拠特に、同第六九六回公調中の証人櫛田喜一の供述記載、同第七〇八回公調中の証人沈宜虎の供述記載、元被告人朴敬春の27・8・6付検調、同金道弘の27・7・21付検調、同杉浦登志彦の27・10・29付検調のほか、原審第八八回公調中の証人神田隆次の供述記載をも参酌すると、大須交差点以西の岩井通り上に群っていた者の中には、もともと、その附近にいた者のほか、既に騒ぎの始っていた大須交差点以東の岩井通りから移動してきた者もかなりいたことが認められるし、≪証拠省略≫によれば、大須交差点以西の岩井通り上からでも、大須交差点以東の岩井通り路上で火の燃えている程度のことは一部望見できたことが認められるから、大須交差点以東の岩井通りから移動してきた場合はもちろん、もともとその附近にいた場合でも両中隊に火焔瓶や石を投げた者は、いずれもその頃大須交差点東側岩井通り上において原判示第二節、第一、第二、第四、第五のとおり、多数の暴徒が集団的に警官隊に火焔瓶を投げつける等の暴行をしており、鶴田、近藤の両中隊が右警官隊の増援に行くものであること、周囲の人々の中に両中隊に火焔瓶や石を投げたり、馬鹿野郎とか税金泥棒などと罵声を浴びせる者、あるいはこれに同調する者が多数いることを知りながら敢えて石や火焔瓶を投げたと推認せざるを得ないのであって、投石者らは、これらの暴徒の合同力に加担する意思即ち共同意思のもとに暴行、脅迫に及んだと認めるのが相当であり、元被告人杉浦登志彦の27・11・4付検調も右認定を裏付けるものであって、火焔瓶や石等の投擲が決して所論のように、群衆中の極く一部の者により個別的散発的になされたものとは認められない。原審第一五九回公調中の証人鶴田諸兄の供述記載中の論旨指摘の部分も、結局同所にはデモ隊は既に崩れてしまって、デモ隊とみられる統一的な集団はいなかった、という趣旨のことを述べているだけであって右認定を妨げるものではない。

次に所論は、原判決は「特に近藤中隊には数個の火焔瓶を投げつけ、うち二個はトラックの車輪と車体に命中した」と認定しているが、火焔瓶が近藤中隊のトラックに当ったことはない、というのである。

前掲第二節、六の証拠によると、大隊長富成守次は、パトカーに乗って待機場所を出発し、近藤中隊の二台のトラックのうち、先発したトラックの後ろについて伏見通りを南進し、西大須交差点のところで左折して岩井通りを東進し始めて間もなく、先行する近藤中隊のトラックに、道路左側より火焔瓶の投げられるのを目撃したのであるが、そのときの状況について、原審第二八二回公調中の証人富成守次の供述記載中には、「(問)それは何発ぐらいぶつけられるところを見たんですか。(答)私が見たのはボデイに一発とトラックのタイヤに一つあたっていました、これは南側のほうははっきりした記憶はありませんが、私はすぐあとから行ったですから、その車のことだけは覚えております。(問)それはあなたの乗っておられた前の車のことですか。(答)えゝ前の車です。」との部分があり、原審第三〇二回公調中の同証人の供述記載中にも「(問)前の車に当たった火焔瓶が二つであったということも間違いないんですか。(答)この前に申上げた通りの記憶です。(問)それについて近藤中隊長は当夜トラックのタイヤのところに一発火焔瓶が当たったのだと言っておりますが。(答)近藤警部がそういうことを申上げたかもしれませんが、私はこの車のすぐ後を行ったんですから、当たるところを見ているんですから、私の記憶に間違いないと思います。(問)これは後で車を調べておるんですよ、痕跡を調べてタイヤのところに一つ当ったと。(答)ボデーに当たったのはすぐ落ちて下で燃えたんですから、私はその痕跡はそう残っていないんじゃないかと思いますが、この前も申上げたようにボデーとタイヤに当たったということについては申上げたはずです。(問)ボデーとタイヤに当たったのは同一のものじゃないですか。(答)同一のものじゃないというふうに思っておりますが」との部分があり、原審第一一〇回公調中の証人近藤時義の供述記載中には、「西大須交差点を左に曲って五メートルか一〇メートル位行ったとき、道路の左側から火焔瓶が投げられ、それがトラックに当って自分の近くでぱっと火が出た、当ったのは二、三発だろうと思うが数の記憶はない、当たった箇所は左側の車輪のところだった、翌朝自動車を点検したところ、左側後車輪のタイヤのところに油がにじんでいた」旨の部分があり、これを総合すれば、西大須交差点を左折して間もない近藤中隊のトラックに、岩井通り北側より火焔瓶二個が投げつけられ、うち一個はボデーに当たったがそのまま落ちて路上で発火炎上し、他の一つは左後車輪のところに当たって直ぐ発火したことが認められるから、火焔瓶二個がトラックの車体と車輪に命中したとの原判決の認定は正当である。所論は原審第三二三回公調中の証人枝吉末虎の供述記載中の、「前に進んでいる車に火焔瓶があたり発火したというようなことは別になかった」旨の部分を根拠に、火焔瓶が近藤中隊のトラックに当たったことはない、というのであるが、原審第二七〇回公調中の同証人の供述記載によれば、同証人も西大須交差点を左折し岩井通りに出て間もなく前方に火焔瓶が二つ三つ投げられて発火したのを見た記憶はあり、ただそれが先行するトラックに当ったのを見ていないというに過ぎない。しかし同証人よりも富成守次の方がトラックに火焔瓶の当ったのを目撃し易い位置にいたことを考えると、前掲富成守次の供述記載の方が信用できるといわなければならない。また所論は原審第一一〇回、第一四二回、第一四八回各公調中の証人近藤時義の供述記載によれば、トラックに当った火焔瓶は一個だということになる、というのであるが、同証人は、火焔瓶がトラックに当たるところを目撃したわけではなく、翌朝トラックを点検したところ、火焔瓶の当たったと思われるところが後輪のタイヤのところ一箇所だけだったため、トラックに当たった火焔瓶は一個だったと思うと述べているに過ぎず、前叙のような状態で火焔瓶がトラックに二個当たったことまで否定しているわけではないから、同証人の供述記載も右認定を妨げるものではない。

次に所論は、原判決は、岩井通り三丁目七番地前附近で警備についた鶴田中隊に対し、暴徒は火焔瓶二、三個及び多数の石、瓦等を投擲したと判示しているだけで、投げたのが何処にいた暴徒なのか、どちらから投げたのか全く判示していない。かかる判示は暴行の判示として十分でなく、原判決には理由不備の違法がある、というのである。

しかし原判示事実を挙示の証拠特に原審第一五五回、第一五九回、第一六二回各公調中の証人鶴田諸兄の供述記載と併せて検討すると、原判決は岩井通りの南北両側の歩道や附近の路地にいた暴徒の中から火焔瓶や石が投げられた事実を判示したものと解され、しかも騒擾罪の暴行の判示としてはその程度で十分であるから、原判決に所論のような理由不備はない。

以上のとおりであって、所論の点についての原判決第二節、第六の事実の認定は正当であり、原判決に所論のような事実誤認も、理由の不備もない。論旨は理由がない。

28  第五点、四、第三、二、(四)「裏門前町交叉点附近の状況」について

所論は要するに、原判決は第一章、第二節、第七として、「浅井中隊と山田(喜)中隊とは前記第四の一及び三の警備活動の後、群衆を整理しつつ裏門前町交叉点まで東進したところ、三、四百名の暴徒及び群衆は東方から北側歩道と南側歩道にかけて半円形に両中隊を包囲し、『馬鹿野郎』等と罵り、プラカードの柄を構えて、『やったるか』と叫びながら警官隊の直前まで迫り、盛んに火焔瓶、石、コンクリート片等を投げつけたので、警察官は生命身体の危険を感じ、浅井中隊長は拳銃を構える姿勢を示して、『うつぞ』と叫び、隊員の中には拳銃を構える者もあり、」と認定している。しかし原審第二九〇回公調中の証人堀義光の供述記載、原審証人河田克己の尋調、同伊藤肇の尋調によれば、暴徒及び群衆が両中隊を包囲したことはなく、証人堀義光の右供述記載によれば、警官隊の中に拳銃を構えたものもいなかったことが明らかであり、また司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書、原審証人堤計三の37・7・16付、37・7・24付各尋調、同堀場菊三郎の尋調、原審第六一五回公調中の証人河野勝の供述記載、原審証人伊藤肇の37・7・24付、37・10・18付各尋調、同佐野政広の尋調、同河田克己の尋調、原審第二七〇回公調中の証人枝吉末虎の供述記載によれば、両中隊に火焔瓶が投げられたとは認められず、原判示事実に沿う原審証人浅井輝正、同山田喜四郎の各供述記載、原審証人小玉房男の尋調は右各証拠に照らして信用できないし、さらに、被告人山田順造、同伊藤弘訓、同稲森春雄がこの附近で火焔瓶を投げた旨の原判決の事実の認定も誤っている、というのである。

よって検討するに、浅井中隊の中隊長であった証人浅井輝正の原審第八六回公調中の供述記載中には「裏門前町の岩井通りへ出る出口、其の近辺から東へ向って沢山のデモ隊が居ました、そして其の人たちが主として十字路の東南の方から車道へだんだん溢れて来て私が部隊を集結すると直ぐ今申上げました私たちが入って出て来た十字路の南側の辺まで半円形でもってデモ隊が私たちを取巻いたという状態になりました、其の時に車道に居た人たちからも、或は南北の、と云っても半円形ですが南北の両端の方からもさかんに火焔瓶、石、石と云っても私も其の時現実に当りましたが、私の鉄かぶとへぼんと当ったのが其の為に前へ曲って目が見えなくなり、足にも当る、靴にもぼこんと当るという状態で、其の時下を見るとコンクリートのかけらだと思いますが、大きさで云うと直径十糎位のものが落ちて居りました、そういうものをぼんぼん投げられたので、又現実に私も見ましたが、デモ隊の中の勇敢な人は、大勢取り巻いて居る最前列までプラカードか何かの切れはし、その手だと思いますが、そう云ったもので火のついたものを持って来て『こらっ』とか『やったるかっ』とか云って最前列まで出て来た人もあります、其の時非常に多くの石くれというか、コンクリートのかけら或は火焔瓶が集結している部隊に投げられ、この時が一番激しい攻撃でした、私がその時直感したのは之は自分の部隊が之だけ攻撃され、しかも大勢の人に半円形に取巻かれたからぐずぐずしていてはわれわれ警備隊員はこゝでやられるのだ、こういう危険を感じたので隊員に『ぐずぐずして居たら取巻かれるから此方から解散の攻撃せにゃいかん』というので、自分の部隊の集結している最前列まで出て、私が様子を見たところ、私の考では非常にそのデモ隊の攻撃力が旺盛だと思いましたので、私は自分では拳銃を取り出さなかったが一応手で拳銃を腰のところまで出した形を見せ、『解散しなかったら拳銃をうちますよ』とこういう命令をしました、こういう風に叫びました、こう大声を上げた、すると北東の所謂大須の入口附近から今の私たちを取巻いて居た群衆がぞろぞろと東の方へ退却しだしたので、私が云った『拳銃をうつぞ』という声で動き出したとこう思った、そういう相手の所謂退却解散してゆく姿が見えたので私は自分の隊員を振り返ると、私のすぐ後に居た隊員の連中が実際に拳銃を出して構えて居たので、私はデモ隊員は解散の色が見えるし、之は僕の云ったのでなく隊員が拳銃を出したからこういう風に引込んだという考を持つと同時に、仮にそこで隊員が拳銃を発射すると、所謂私たちの攻撃対象だけでなく其の附近或は商店等へもどういう危害を及ぼさんとも限らんと考えたので『射っちゃいかん』と拳銃を構えている隊員を制止しました」との部分があり、また山田(喜)中隊の中隊長であった証人山田喜四郎の原審第一〇九回公調中の供述記載中には、「そのうちに群衆に東の方に廻られ、結局門前町通りの自動車の燃えたところより少し東の方の十字路で私たちは約三、四百名位の群衆に取り囲まれてしまったというような格好になってしまいました」との部分がある。所論は右各供述記載は信用できないというけれども浅井中隊の第一小隊長だった証人堀義光の原審第二九〇回公調中の供述記載中には「岩井通りの大須電停と上前津の中間に十字路があったように記憶していますが、あの辺まで進んできたときも、南側から火焔瓶とか石とか飛んできた記憶です、」との部分があり、被告人伊藤弘訓の27・8・26付検調中にも「図(注、第八図)に書いた様に西側に警官隊が百人か二百人固っており、それより約五十米位東側にはデモ隊や群衆が青線で線を引張った様に湾を作って警官隊と向い合っておりました、私は歩道から赤線を引張った様に①の地点へ行きました、其処から前を見ると道路上には火焔瓶が燃え上っておりました、ところが其処に丁度山田順三君がおりました、すると順三が私におい持っておるか、と云って火焔瓶を持ってゐるかどうかを聞きましたので、私は『持ってない』と答へました、山田は黙って多分ズボンの右ポケットから火焔瓶を出してくれたのでそれを受取りました、私はその瓶一本を右手で握ったまゝ右ズボンポケットへ入れて人の中を五、六歩かき分けて、その図の②点迄進み出て、その火焔瓶をキャッチボールをやる時位の力をこめて警官の方へ向けて投げ」との部分があり、被告人高田英太郎の27・8・7付検調中には、逃込んだ家の塀の内側から外の電車通りの方を見ると「電車道では図に青と赤線を引いた様に惰円形を作った人垣があり、その西側に警官がおり、人垣の中からは語句は聞きとれませんでしたが警官に向って野次を飛ばして騒いでおり、又前に前進して警官に向けて石を投げるその姿が見られました」との部分があり、被告人山田順造の27・8・17付検調中には「電車通りへ出ると西の方に警官隊が居て、東の方のデモ隊の残りの連中と進んだり退いたりして押しあって居りました、私はその間を通って電車通りの北側の歩道へ渡りましたがその歩道でも西の方の警官隊と東の方のデモ隊の残りの間で押しあいして居りました、その時に私は警官隊が押して来て私達がザッと後え引きましたがその際に逃げて来る前の人の頭越しに警察官に向ってビュット小さい方の火焔びんを一個投げつけました。」との部分があり、山田(喜)中隊の隊員であった小玉房男の検調中には「私共が約四、五十名ほど岩井通りと裏門前町との交叉点北西の角で集結し石や火焔瓶を投てきする者を確認しようとして居りましたとき丁度私の処から道路の向側に当る交叉点の南西の角の処から、一名の男が我々に向って火焔瓶を投てきして、そのまゝすぐ後向きに向きを変えて裏門前町を南の方え逃げ込まうとするのと目撃しました。」「その男の氏名は稲森春雄と判明した。」との部分があり、これらの証拠は、前掲証人浅井輝正、同山田喜四郎の各供述記載の信用性を裏付けるものであって、これらの証拠を、総合すれば、裏門前町交差点附近で暴徒及び群衆が、浅井、山田(喜)の両中隊を包囲した状態になったこと、浅井中隊長が拳銃を構える姿勢を示し、同中隊員の中には拳銃を構える者のいたこと、両中隊に火焔瓶の投げられたこと、その際被告人山田順造、同伊藤弘訓、同稲森春雄が火焔瓶を投げたことはこれを認めるに十分である。なるほど前掲証人堀義光の原審第二九〇回公調中の供述記載中には、拳銃を出せと命じたとか、構えたことはない旨、裏門前町交差点附近で群衆に包囲されたことはない旨の部分のあること所論のとおりである。しかし同証人は当時の状況の細部についてかなり記憶を失っているふしが窺がわれるのであって、右供述記載部分も、記憶を失ったのではないかとの疑が強く、前掲各証拠に照らしてとうてい信用することができない。また原審証人河田克巳の尋調中の論旨指摘の部分は「(問)証人の山田中隊第一小隊が西へ進んで行く時の両側の歩道にいた人たちの状況は、非常にこわいと、動揺して浮足立っておったんじゃないですか。(答)北のほうの群衆は、我々が北の歩道へパッと上がって行った時には浮足立っておったという表現を使うことができますが、南側の群衆に対してはそういうことは感じませんでした。」との部分と思われるが、これは山田(喜)中隊が、待機していた春日神社前から大須交差点附近に西進していくときの岩井通り両側の状況を述べたものであって、大須交差点附近から引返して裏門前町交差点に達したときの同所の状況を述べたものでないし、山田(喜)中隊の河田小隊員であった原審証人伊藤肇の37・10・18付尋調中には、論旨指摘の趣旨の部分があるけれども、同供述記載部分も群衆に包囲されたかどうか記憶がない、というに過ぎないから、いずれも暴徒及び群衆が両中隊を包囲したとの右認定を妨げるものでないといわなければならない。さらに司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書中第三区域の(9)(10)(12)項の部分に火焔瓶の燃えた跡とか、火焔瓶の破片と認められるものの存在していた記載のないこと所論のとおりであるけれども、火焔瓶の燃えた跡については、同検証調書、特に添付の第二号図面や写真一二九によれば、同交差点の西約一七、八米附近の岩井通り中央から北側にかけての車道上に火焔瓶の燃えた跡が数ヶ所散在するとともに、前掲証人浅井輝正の供述記載、被告人伊藤弘訓の27・8・26付検調によれば、浅井、山田(喜)両中隊に対して火焔瓶の投げられた当時の両中隊の位置もその附近であったことが認められるから、右の火焔瓶の燃えた跡も、両中隊に対して投げられた火焔瓶の燃えた跡ではないかと考える余地がある。のみならず、たとえ投擲された火焔瓶が路上で壊われて炎上したとしても、火焔瓶の大きさや燃焼の度合いかんにより必ずしもはっきりした痕跡が残るとは考えられないし、ことに原判示第一章、第二節、第七のように、路上を多数の人が行き来した場合路面は踏み荒されて痕跡が不鮮明となり、火焔瓶の破片も蹴散らされて分散逸失することも十分考えられる。しかも現場を検証した司法警察員である証人畠中潜の原審第四〇五回公調中の供述記載によれば、短時間に広範囲にわたって検証した関係上火焔瓶の炎上した痕跡、瓶の破片の中に記載洩れになったり、押収されなかったもののあることも窺がえるので、検証調書の第三区域の(9)(10)(12)項の部分に火焔瓶の燃えた跡とか、火焔瓶の破片と認められるものの存在していた記載がないからといって、火焔瓶が投げられた旨の前掲浅井の供述記載及び被告人稲森春雄が火焔瓶を投げた旨の原審証人小玉房男の尋調の記載が信用できないとはいえない、また原審証人堀場菊三郎の尋調中には、「それから河田小隊長が指揮なさったと思いますが、まだ歩道上に暴徒化した人達が火焔瓶をまだ警察官の方に投げておりますから、一気にそれを鎮圧するということだったと思います、警杖を横にお互いに持って肉弾で押して行ったわけです。」との部分があり、同尋調は余り明確にではないけれども一応同証人の所属していた山田(喜)中隊に火焔瓶が投げられた旨述べており、その余の原審証人堤計三の37・7・16付、37・7・24付各尋調、原審第六一五回公調中の証人河野勝の供述記載(一六八―一一以下)、原審証人伊藤肇の37・7・24付、37・10・18付各尋調、同佐野政広の尋調、同河田克巳の尋調、原審第二七〇回公調中の証人枝吉末虎の供述記載中に、裏門前町交差点附近において、火焔瓶が投げられた旨の記載部分がないからといって、両中隊に火焔瓶が投げられた事実を認めることができないとはいえない。

次に所論は、原判決は、前敍の判示に続いて「両中隊はたまたま荘司中隊と近藤中隊の来援を受けたので、浅井、山田(喜)両中隊の一部と荘司中隊は、再三押返してくる暴徒及び群衆を裏門前町通りの南方へ追って数回にわたり解散活動をしたところ、暴徒は火焔瓶、石等を投擲して抵抗した」と認定している。しかし前掲検証調書の記載によると火焔瓶の投擲された形跡はなく、被告人稲森春雄が火焔瓶を投げた証拠である前掲証人小玉房男の尋調は信用できず、元被告人片山博が火焔瓶を投げたことを認めた同被告人の27・8・27付検調も信用できず、結局火焔瓶の投げられた事実は認められないし、また暴徒が抵抗した事実もない、というのである。

しかしながら前掲証人浅井輝正の原審第八六回公調中には、「それから隊員を軌道の中央部へ集結し尚裏門前町通りの十字路の南側附近からずっと蝟集して居たので之を追って行き裏門前町通りを岩井通りへ南の方へ二本目位まで追いました、そして其処に居た人が東西の道路或は南の方へ散って行ったので、部隊を更に岩井通りと裏門前町の十字路のやゝ西寄りの地点に集結しました。」(そこで前敍のように最も激しい攻撃を受け、隊員の中には拳銃を構える者があったが制止した。)「私が制止した直後私の小隊に属する堀井警部補が私のもとへ来て、南方の、先程私の申しました裏門前町の岩井通りより南方の角のところからさかんに石や火焔瓶を投げてくるから私の小隊がこれを追って解散させてくると云って来ましたので、私は『よし行って来い』と之に命じると同時に私の残った中隊員を引連れて裏門前町の岩井通りより北方へ解散せしめるべくつゝ込んで行きました。」との部分があり、同第一三二回公調中の同証人の供述記載中には「これは図面(注、前掲公調添付の図面)の⑧の位置へ一応隊を集結しておりますと、この交叉点の南西の角の方ですね、こちらからまた攻撃を受けたわけです。だからそれ追えといって逃げて行く方向へ追って行ったわけです。」との部分があり、原審第一〇九回公調中の証人山田喜四郎の供述記載中には、「(問)証人は先程(注、裏門前町交差点のところで)証人たちは三、四百名の群衆に取り囲まれた恰好になったと述べたが、証人はその群衆を解散させるようにどのように努力したか。(答)その群衆も隊員が近づいて行くと除々に南北の道路や、電車道の東の方へ退いて行きました。(問)証人たちは南の方へはどの辺まで追って行ったか。(答)南の方へは次の東西に延びる道路まで追って行ったゞけでしたから約二、三十間位だったと思います。」との部分があり、山田(喜)中隊の河田小隊員だった証人小沢正夫の原審第六四六回公調中の供述記載中には「最初北側に上がったら南からいろいろ投げてくるんです、それでそちらへ行けということで南側へ行くんですけれども、あぶなくて行けないんです、そして南側がちょっとやんだと思うと今度は北側からとんでくるということで、両側から警察官のほうをめがけて投げてくるといったような状態だったんです。」との部分があり、同じく河田小隊員だった原審証人小玉房男の尋調中には、「(答)そこらを全部解散させたんで、こんど線路の方へもどりまして少し東へもどったわけです、南へはいる広い道路があったように思います、その道路からの攻撃がひどいもんですから、この道路を通行できるようにしようということで、その道路のほうへ押していったわけです。(問)これも大ぜいで押していかれたんですね。(答)はい、私らの分隊と三、四十人だったと思います。(問)これはずっと南のほうまで押していかれましたか。(答)いや六、七十メートルが最高だったと思います。(問)それからどうしましたか。(答)そこで火焔瓶とか石が大分とんできたですね、その時にその場所で私は火焔瓶をほうった人間を一人見つけて逮捕しました。(問)五、六十メートル南まで押していって、そういう人たちが逃げ込んでしまうと、あなたがたはまた岩井通りへもどったんではありませんか。(答)はい、もどったんです、もどるとまた出てくるんです。(問)するとまた押していくと。(答)はあそうです。(問)大体何回ぐらいおやりになったか覚えがありますか。(答)私らの分隊のやったのは確か二回かそこらだったと思います、……(問)その男が火焔瓶を投げた場所はどこらだったでしょうか。(答)電車通りより少しはいったところか、電車通りあの附近だったと思います。」との部分があり、荘司中隊の中隊長であった証人荘司安一の原審第一五七回公調中の供述記載中には「(答)そのとき私は裏門前町通りの交差点の北側へ着きまして大隊長がどこにおるんだろうと思ってさがしておったんですが、私のさがしておる間に大隊長がこちらの部隊を見つけまして、この部隊はすぐと裏門前町の南の通りから石が飛ぶからあの石を飛ばんようにしろというような指揮をしまして部隊は小隊長ともそちらへ行ってしまった、私はあとからついて行ったと……(問)あなた達が行かれたとき、石なんかぶつけられたんですか。(答)石は飛んで来ましたですが、そう大きな石でなかったのと、さっき申上げましたように、私は車道の中を通らずに進んだもんですから、石はあんまり飛んで来なかったとこういうことであります。」との部分があり、荘司中隊の隊員であった原審証人佐野正広の尋調中には「(問)裏門前町と岩井通りの交差点のところで隊列を整えられて、それからどのようにされましたか。(答)隊列を整えた時分に又石がものすごくとんで来たんです、南西の人が固っているところからとんで来ました。(問)南西と言うと裏門前町と岩井通りの交差点の南西の角ですか、(答)はい。(問)それで。(答)それで群衆を散らせということで、私の分隊、小隊全部出たと思います、そして群衆の方へ前進した覚えでございます。(問)裏門前町の交差点から南の方へ前進したわけですね。(答)はい南の覚えです……(問)追いかけて行く、戻って来る、又追いかけて行くというふうに何回かやった覚えがありますか。(答)数はそうたくさんではなかったですが、二、三回はあると思います、そこのところははっきりしません」との部分があり、元被告人片山博の27・9・10付検調中には「それからこの墓地の近くに畠と書いてゐる附近を通って(ロ)の道に出て(3)の○印まで行きました、このあたりも私が行ったとき沢山の人がゐてその北側の岩井通りにゐた警官隊に向って『税金泥棒』だとか『アメリカの犬』だとか叫んで野次って居りました、私はその警官隊を見てよしやっつけてやれと思って持っていた火焔瓶一個をこの(3)の○印附近でこの警官隊目がけて投げました、……それから私は附近の人達と一緒に、この警官隊の方に向って『アメリカの犬帰れ』等と叫んでののしってやりました。」との部分があり、同被告人の論旨指摘の検調中にも同旨の部分がある。また裏門前町通り交差点より同通りを約半丁位南に下ったところで家具商を営んでいる証人岡本たね子の原審第二三回公調中の供述記載中には、「はっきりした時刻の覚えはないが、家の附近が騒がしくなったので、戸の隙間からふるえながら外の様子を見ていると約四〇分間程にわたって二、三〇人の人が北側にいる警官に押されて南へ下がったり、又北へ押し返したりしていた、その間石が投げられて囲に当ったり、ガラスに当ってガラスの壊れたりする音がしていた。」旨の部分があり、以上の証拠に司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書を総合すれば、裏門前町交差点の南側に群っていた暴徒は、同交差点に到着した浅井、山田(喜)、荘司の各中隊に対し石を投げつけ、同中隊が解散させるため追って来るとすぐ裏門前町通りを南に逃げるけれども、警官隊が追うのをやめて引揚げるとまた同交差点の近くまで引返して石を投げるというようなことを繰返し、その間火焔瓶をも投げつけるなどして抵抗した事実を認めることができる。論旨の指摘する前掲検証調書に、裏門前町交差点附近に火焔瓶の炎上したとみられる跡があった旨の記載のないことが右認定を妨げるものでないことは、前敍の浅井、山田(喜)両中隊に火焔瓶が投げられていないとの論旨に対する判断の際説示したとおりで、原審証人小玉房男の尋調、元被告人片山博の27・8・27付検調は所論にかかわらず十分に信用することができるといわなければならない。また原判決は、暴徒は警官隊に追われるとすぐ逃げるけれども、警官隊が追うのをやめて引揚げるとまた引返して石を投げるなどして、なかなか解散しなかったことを抵抗といっていると解されるから、暴徒は警官隊に追われるとすぐ逃げたという趣旨のことを述べているに過ぎない、原審第一五七、第一六〇回公調中の証人荘司安一の供述記載、原審証人佐野正広の尋調も右認定を左右するものでない。

次に所論は、原判決は、前敍の判示に続いて「又浅井、山田(喜)両中隊の一部と近藤中隊は、門前町通りを北方へ追って数回にわたり解散させようとしたけれども、暴徒は警官隊に『馬鹿野郎』『税金泥棒』『殺されるぞ』等と罵声を浴びせ、激しく投石して抵抗を続け、容易に解散しなかった」と認定しているけれども、原審証人近藤時義、同河田克己、同枝吉末虎、同伊藤肇の各供述記載によれば、暴徒が激しく投石して抵抗を続け、容易に解散しない、という状況でなかった、というのである。

しかしながら原審第一三二回公調中の証人浅井輝正の供述記載中には「私が撃つぞといって、隊員が拳銃を構えたら、この東南の角の方からぐっと東の方へデモ隊と認められる人の群衆が崩れかゝったわけです、崩れかゝったので、ちょっと裏門前町の北へ入る方があいたわけです、そうすると、そっちから石か火焔瓶か投げてきましたので、隊員の三、四名だったと思いますが、⑪の方へ向って私の指揮を待たずに、あれだということで追って行ったわけです、……隊員が三名なり四名なり入りましたのでそれを放っておいてはどうなるかわからんので⑪の地点へ隊員を集めたわけです」との部分があり、山田(喜)中隊の第一小隊長であった原審証人河田克己の尋調中には「(問)あなたが前に検察官の調べを受けた時に、その当時の状況は全部正直に話したというお答があったんですが、その検察官調書の中に、裏門前町通りから投石してくる群衆の中の一部分がおったので、あなたはそのごみ箱のふたをもって、その北の通りのほうへ少し進んで行ったということがあるんですがね。(答)今、思い出しました、南のほうの投石を防いでおったら、後のほうからまた石が飛んで来たような感じというだか、実際その南から飛んで来てそれがはねかえって来たものかあるいはなんだかわからないですが、とにかく自分の後ろから石が飛んで来たようなことになったので、南の方を向いておった盾を北のほうへ入れかえたような記憶が、今よみがえりました。」との部分があり、原審第一一〇回公調中の証人近藤時義の供述記載中には「丁度自分の居た裏門前町通りの左へ行ったところに七、八十人の人が居て、さかんにあの辺で歌を歌ったり、わいわい騒いで居りました、そうして私たちが姿を見せると、石を投げる姿が見えたので、線のところへ出しませんでした、すると大隊長からあすこに居るデモ隊を解散させよという命令を受けた、」(そこでその群衆を解散させるため裏門前町通りを北に入って行ったのであるが、その頃)「攻撃はさかんに受けまして実は私も右膝に何か火箸で叩かれたような感じを受けましたが気が立って居たのでぐずぐずして居たら危いと思って一挙に駈足で行きました。」との部分があり、近藤中隊の第一小隊長であった証人枝吉末虎の原審第二七〇回公調中の供述記載中には「下車してからは、中隊長の命令でそこの北側の歩道に群衆がかたまって、あっちこっちに、ば声をあびせて石を投げたものもありますし、そういう群衆に向って、もう排除と同時に石を投げているものは現行犯として検挙するということで、北へ向って進んだわけです」との部分があり、被告人横井政二の検調中には「その裏門前通の道路には、私等と一緒に来たもの、その通りの北から追はれて来たもの等で道一杯になっておりました、南方電車通りの方を見ると、此の裏門前通りに警官隊が少し押して来ており、十字路(注、仁王門通りの)から少し南方へ寄った左側のラジオや前附近には石をつかんで盛に南方の警官隊に投げておりました、私はラジオやの前の外燈柱のすぐ前の処に於て外燈の光で足許に落ちていたピンポン大の小石一個を拾って、之を道路右側斜前方三十米位の処に押して来ておる警官隊の一人で、木製ゴミ箱のフタおタテ代りに私達の方からの投石おさけている警官を目標に右手で力一杯投げました、」との供述記載部分があり、被告人山田順造の27・8・17付検調中には、「警官がどんどん押して来るので今度は直ぐ北の道へ逃げ込みました、そしたら警察官がその方へ押して来たので、その道は石が沢山あるので私は早速石を拾って約十回余り警官に向って投げつけました、……私が石を十回あまり投げながら馬鹿野郎とか、それでも日本人かとか叫びながら段々北へ下りましたが勿論私の附近には私と同じ様な事をやっている群衆が一杯でした。」との供述記載部分があり、被告人高田英太郎の27・8・7付検調中には「その(注、家屋新築現場)前の道路には人が三十人位居って、直ぐ前の電車道には二十人位と思はれる武装警官がおり、三十人位の人と向い合っておりました、そして警官が三十人位の人に向ってワァーと云って突撃して来ると、その人々は横道や後ろへ散ばって了ふ、すると警官は又電車道へ引き下る、引き下ると同時に三十人位の人々は警官に向って、税金泥棒等とどなって野次を飛ばしたり石を投げつけたりする、すると又警官が突撃して来る、と云う具合で、そうした戦いが二、三回くり返されました、その騒ぎの中で私は、丸太棒の上から警官に向って、殺されるぞと叫びました」との供述記載部分があり、裏門前町二丁目で靴屋をしていた証人吉田栄三郎の原審第二三回公調中には、「当夜騒ぎが始ったのを知って岩井通り四丁目四番地の松山カーテンの近くまで様子を見に行くと、電車通りの真中に警官がずい分固まっており、その警官隊に向って道路の北側に居た群衆の中から投石する者があり、警官が追って来ると逃げるが、警官が戻ると引き返して投石するというようなことを繰返し、そのうち警官隊に追われた群衆は裏門前町通りの方に下がったが、裏門前町交差点から一〇メートル位北に入ったところに固った約五、六十人の群衆の中から、四、五名の者が中署へ行け、というようなことを叫びながら、南の岩井通りにいた警官隊に石を拾っては投げ、拾っては投げしていた」という趣旨の供述記載があり、松本秀一の検調が引用する同人の警調中には、「私の行きました時は裏門前町通りと電車通り(岩井線)の四つ辻のところは人がたくさん居り、それより約百米位北の四つ辻附近に群衆が南の方へ向いて集って居り、この前に出て見ますとその前に五、六十人の人が居り、この人達は拳大の石をみんな持って居り、電車線の南側のところには、この人達の方を向いて二、三十人の警察官が立って居りました、私はこの五、六十人の者の東側で先頭辺りのところで見て居りますと、五、六十人の者はやっちまへやっちまへワッショイワッショイと気勢を挙げながら南の方へ進んで行き、電車通りのすぐ近くまで行って石を警察官の方へ投げました、その人達はそのまゝ電車通りより二、三十歩(約十米位)北のところに居りますので警察の人は早く帰って下さい下さいと七、八回呼んだと思います、それでもこの人達は帰らずに居り、時々石を投げますので、警察の人達はワーッと声を挙げながらこの人達に向って進んで来ました、するとこの人達はすぐ北の四つ辻の少し南のところまで引退りましたが警察の人達は電車通りより少し入ったところまで来ると引返しましたので、又この人達は電車通りのところまで進み、警察の人達に向って石を投げましたが、斯の様な事を四、五回繰返したと思ひます、此処に居りました五、六十人の人は朝鮮人と学生、労働者等でありまして、この間学生がスクラムを組みワッショイワッショイと声を挙げ、朝鮮人や労働者はやっちまへ、中署を焼打ちにするぞと言う様な事を口々に叫んで居りました」との供述記載部分があり、以上の証拠に司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書を総合すれば、裏門前町通り(原判決には門前町通りと記載されているが誤記と認める。)の暴徒が警官隊に激しく投石して抵抗を続け容易に解散しなかった事実を認めるに十分である。原審第一一〇回、第一四二回、第一五一回各公調中の証人近藤時義の供述記載、原審証人河田克己の尋調、原審第二七〇回公調中の証人枝吉末虎の供述記載、原審証人伊藤肇の37・7・24付尋調中の論旨に指摘する部分は、いずれも暴徒は警官が追うとすぐ逃げたというだけであって、前掲各証拠によれば、暴徒は警官隊に追われると直ぐ逃げるけれども、警官隊が引揚げると戻って来てまた投石するというようなことを何回も繰り返し、なかなか完全に退散しなかったことが認められるから、所論の各証拠も暴徒が攻撃を繰り返して抵抗したとの右認定を妨げるものではない。

次に所論は、裏門前町通りの南方或は北方から警官隊に対し石を投げ、罵声が浴びせられたにしても、それは極く少数の者の個々の散発的な行為に過ぎず、群衆全体の意思でなされたものではない、というのである。

しかし原判決も認定しているとおり、浅井、山田(喜)、荘司、近藤の各中隊が裏門前町交差点附近に到着する以前既に同所以西の岩井通り上において多数の暴徒の集団的な暴行脅迫により原判示第一、第二、第四乃至第六のとおりの騒擾状態が発生していたのである。そして原判決の挙げている証拠によれば、当時裏門前町交差点附近に集っていた者の多くが警官隊の解散活動によって右騒擾の現場から移動して来た者であり、裏門前町交差点附近で警官隊に投石したり罵声を浴びせた者がそのように移動して来た者であるときはもちろん、たとえそうでなくても、裏門前町交差点附近から岩井通り上で既に発生していた右騒擾状態を望見し得たことが認められるから、裏門前町交差点附近で警官隊に投石したり罵声を浴びせた者は、岩井通り上において多数の暴徒が集団的に警官隊に火焔瓶を投げる等の暴行をしており、警官隊もそのような暴徒や群衆を解散させながら右交差点附近にやって来たものであることを知っていたと推認せざるを得ない。のみならず、前掲各証拠によって認められる投石の状況等から、投石したり罵声を浴びせた者は、周囲の人々の中に警官隊に石を投げたり、「殺されるぞ」とか「やっちまえ」と叫んだり、あるいはこれに同調する暴徒の多数いることも知っていたと認められる。それにも拘らず同人らは警官隊に敢えて石を投げたり罵声を浴びせたりしているのであるから、投石者等にはこれら暴徒の合同力に加担する意思即ち共同暴行脅迫意思があったと認めるのが相当であり、石等の投擲が決して所論のように、群衆中の極く一部の者により個別的、散発的になされたものとは認められない。なるほど原審第七九回公調中の証人田中國臣の供述記載中には、裏門前町交差点南のところで警官隊に石を投げる姿を見たのは二人だったという趣旨の部分があること所論のとおりであるけれども、右供述記載によれば、その当時は既に午後一一時を過ぎており、裏門前町交差点附近はやゝ小康状態になっていたというのであるから、右供述記載は、原判示の如き状況が終った後の状況を述べたものと解され、右供述記載から裏門前町交差点の南側から投石が極く少数の者による散発的な行為に過ぎなかったとは認められないし、原審第二三回公調中の証人吉田栄三郎の供述記載も、同証人の近くで投石している姿の目についたのが四、五人だったというのであり、それ以外に附近にいた約五、六〇名の群衆の中に投石者はいなかったということまで述べたものとは解せられないから、必ずしも所論に沿うものとはいえないし、原審証人松本秀一の尋調の如きは、同証人が知っているだけでも二、三〇人位の人が投げていた、というのであるから、たとえそれが五、六〇〇人乃至一〇〇〇人位の群衆の中の二、三〇人であったとしても、投石者に共同暴行脅迫の意思があったとの前認定に沿いこそすれ、これを妨げるものとはいえない。

これを要するに、原判示第一章、第二節、第七の事実は、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるに十分であり、原判決に所論のような事実誤認があるものとは認められない。論旨は理由がない。

29  第五点、四、第三、二、(五)「上前津交叉点附近の状況」について

所論は要するに、原判決は、第一章、第二節、第八として「被告人横江護は午後十時三十分頃上前津交叉点南市電停留所附近より、同交叉点西市電停留所附近で警備中の警察官に投石し」と認定しているけれども、原判決の挙げている証拠によっては同被告人が投石した事実は認められないから、原判決には事実誤認がある、というのである。

しかし原判決の挙げている証拠ことに加茂春雄の検調によれば被告人横江護の投石した事実を認めることができることは、控訴趣意(各論)29の同被告人についての判断において説示しているとおりであり、原審第八五回公調中の証人山口康治の供述記載中の論旨指摘の部分も、同証人が同被告人の投石の事実を必ず知り得る状況にあったとは認められないから、右認定を左右するに足りないし、この認定に反する原審第四七八回公調中の同被告人の供述記載も信用できない。また原判決が同被告人の投石を認めた証拠として加茂春雄の検調を掲記し、原審証人加茂春雄の尋調を掲記しなかったのは、同人の検調の方が尋調よりも投石の事実を認める証拠として優れており、且つその証拠で十分だと判断したためと解されるのであり、記録を調べてみても原審の判断を不当とするような事由は見当らない。

次に所論は、原判決は右の判示に続いて「暴徒の一人は午後十時四十分頃同交叉点の南方約三十米の中区春日町三十八番地中署上前津交通巡査詰所に、火焔瓶一個を投入して発火炎上させ」と認定しているけれども、原判決の挙げている証拠によっては、投げられたのが火焔瓶かどうかさえわからず、まして投げたのが暴徒の一人であったなどとはとうてい認められないのに、これを認めた原判決には事実誤認がある、というのである。

しかしながら司法警察員菊家哲助外二名作成の検証調書第三区域(11)中には、「表出入口戸の縦一尺五寸、横三尺位の硝子戸の北側半分が破損し居りて事務室と休憩室の境なる高さ三尺位横三尺位の板壁の角の附近に火焔瓶一個が投擲され居りて、其の附近が黒コゲになり居りて、其の上部の白壁に貼付しありたる名古屋市地図並びにカレンダーは該火焔瓶の為に燃焼し、附近の其処此処は黒色の油の如きものが飛散附着し、瓶の破片が若干飛散していた、」との記載部分があり、その状況を撮影した検証調書添付写真二〇〇、二〇一及び同所より押収した瓶の破片八個があるほか、警察官で、同詰所内に火炎の上っているのを見つけて最初に消しに行った証人天野鉄次郎の原審第八四回公調中の供述記載中には「(問)証人は先程詰所の中に瓶が落ちていたと云う事を言われたが、その瓶は何の瓶だと思ったか。(答)私の想像では火焔瓶だと思いました。(問)すると証人は之迄に火焔瓶を見たことがあるのか。(答)ありません、然し話を聞いていたので直感的にそう思ったのです。(問)その話では火焔瓶とはどんなものだと言う事だったか。(答)牛乳瓶かミカン瓶に濃硫酸を入れたものだと思いました。(問)その火の燃える時はどんな臭がしたか。(答)何か硫黄のような変な臭でした。」との部分があり、原審第一〇八回公調中の証人清水栄の供述記載中には「(問)其の頃に上前津の交通のポリボックスに火焔瓶が投げられたのを証人は目撃しましたか。(答)目撃しております。(問)それでどんな処置をとりましたか。(答)私自身はとりませんが、これは早川大隊は上前津の十字路の西北の方の春日神社の手前の方に多く居たわけです、それで南方々面の警戒が足らない隙に此の人の居ない交番に火焔瓶が投げられて火がぱっと出るのを見たのであります。」との部分があり、これらの証拠を総合すると、投げられたのが火焔瓶であった事実は優にこれを認めることができる。そして原判示からも認められるように、同詰所に火焔瓶の投げられた当時既に岩井通りにおいては、多数の暴徒により警察放送車や乗用車、さらには暴徒を解散させようとした山口中隊に対し、石や火焔瓶を投げつける等の暴行が行われていたのであるが、投込まれた物が被告人らの集団しか携行していないとみられる火焔瓶で、しかもその対象が当夜デモ隊の攻撃目標とされた中署の交通巡査詰所であったことのほか、原判決が第一章、第二節、第八の証拠として第二章、第二節、八に挙げている証拠及び当審の検証調書によれば、当時上前津交差点附近には右第一、第二の暴行の現場附近から移動して来た人達が多数群っており、詰所の近くに暴徒の居ることも可能な状況であったこと、同詰所は右第一、第二の暴行の行われた現場と約三〇〇米余りしか離れておらず、上前津交差点からは右暴行の状況を察知することができ、巡査詰所に火焔瓶を投込む程の者ならば当然右第一、第二の暴行の行われていることを知っていたと認めざるを得ないこと等を考慮すると、詰所に火焔瓶を投込んだ者には右第一、第二の暴行を行っている多衆と共にする意思があったことが認められるのであって、原判決がこれを暴徒の一人と認定したのは相当といわなければならない。

これを要するに、原判示第二節、第八の事実は、所論の点を含め、原判決の挙げている証拠によってこれを認めるに十分であり、原判決に所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。

30  第五点、四、第四「各所に於ける群衆の行動の実態」について

所論一、「デモ隊が崩れた後の群衆の意識」は要するに、原判決は第一章、第一節、第四款、第二の二にデモ隊員の意識として四種類の意識を認定している。仮にその認定が正しいとしても、それ等の意識は全て、デモ隊が行進して行くについての行進中の、警官隊もしくは警察官に対する行為意識であるからデモ隊の分散と共に消滅してしまっているはずである。従ってデモ隊分散後「岩井通り四丁目八番地空地附近」「大須交叉点附近」「大須交叉点以西」「裏門前町交叉点附近」「上前津交叉点附近」の岩井通り各所における暴行、脅迫を、右の各所に集合した群衆の共同意思に基く暴行、脅迫と認めるためには、集合した群衆の間に、警察官に攻撃を加えるという新たな共同意思が、デモ隊分散後発生した事実が判示されるべきであり、原判決がそのような事実を判示していないのは理由不備といわなければならない、というのである。

しかしながら原判決が認定したデモ隊員の意識の(1)(2)(3)は、(1)デモは上前津方面に向うが、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げる、(2)途中で警官隊と衝突して火焔瓶を投げることになるかもしれないと予測しつつ、中署、アメリカ村へ行って火焔瓶若しくは石等を投げる、(3)行進途中に警官隊と衝突することを予想していた、というのであるから、これらの意識、というよりはむしろ意思((3)が単に衝突の予見にとどまらず、多衆の合同力に加わる意思まで意味していることについては、控訴趣意((総論))第一点、一、第三、一、二の論旨に対する判断で説示したとおりである。)は、決して所論のいうような、デモ隊が行進して行くについての、行進中の、警官隊もしくは警察官に対する行為意思のみでなく、警官隊の阻止に会ってデモ隊がデモ隊として行動できなくなったときの行動についての意思をも含むものであり、そのようなデモ隊分散後の行動についての意思はデモ隊の分散によってかえってそれまで条件付、未確定的であったのが、無条件の、確定的なものに強化されこそすれ、決して消滅するものではない。従って右(1)(2)(3)の意識を持った者は、特段の事情がない限り、デモ隊分散後の岩井通り各所の多衆による暴行脅迫に加担しているものと推認しても間違いではない。のみならず、原判決(昭和四四年一一月一一、一二、二五日、一二月二日各宣告)第一章、第二節、第二、第四ないし第八と同(一一日宣告)第一章、第四節、第三の一、二、三、六、七、九、十一、十五、十七、十八、二十ないし二十六、同(一二日宣告)第一章、第四節、二、三、五、六、同(二五日宣告)第一章、第四節、第二の一、四、第三の一、三とを総合すると、原判決は、デモ隊分散後の岩井通り各所における暴行、脅迫が現にその場所で暴行、脅迫を行っている多衆、既に岩井通りの他の個所で暴行、脅迫を行った多衆及びそれらの支援、同調者による集団的な暴行脅迫であり、被告人らもこれに加担する意思のあったこと、すなわち岩井通り各所における暴行脅迫が、これら多衆の共同意思に基く暴行脅迫であったことを具体的に判示しており、共同意思の判示として欠けるところはない。

さらに所論は、デモ隊員であった人達を含むデモ隊分散後の群衆は、警察官の拳銃発射等の暴力を伴う不法な実力行使に畏れおののいて逃迷ったり、こわいもの見たさの野次馬根性で警察官の行動を見物したり、あるいは極く少数の者の火焔瓶や石の投擲に驚いたりしていたに過ぎない。時には警察官の不法な行為に対して抗議の罵声を発した者があったけれども、それは極く一部の者で、しかも警察官に対する攻撃などと呼べる程のものではなく、まして警察官の方でも群衆に対して投石したり罵声を浴びせているのであるから、群衆の側の罵声のみを攻撃とはいえず、このような群衆の行動からはデモ隊分散後岩井通り各所に群っていた群衆の間に共同意思があったとは認められない、というのである。

しかしデモ隊分散後岩井通り各所において多数の暴徒により原判示第二、第四ないし第八のとおりの暴行、脅迫が行われ、それが共同意思に基く集団としての暴行、脅迫であったことは、控訴趣意(総論)第五点、四、第三、同(各論)4、5、10、13、18、25、27、29、34の各論旨に対する判断において説示しているとおりであって、原判決の認定に誤りはない。そして原判決の認定している罵声が、その時の具体的な状況に照らして脅迫に該当することは明らかであって、仮に所論のように警察官の方でも群衆に対して投石したり罵声を浴びせた事実があったとしても、原判決の認定した罵声が脅迫に当ることは否定できない。

以上のとおりであって、原判決の認定は正当であり、原判決には所論のような理由不備事実誤認の違法はない。論旨は理由ない。

所論二「乗用車発火をデモ隊の行為とする不当性」は要するに、原判決は、第一章、第二節、第一において、全体としてはなお進行を続けているデモ隊列の一部より、二台の乗用車に火焔瓶を投げ込んで発火、炎上させたと認定している。これはもし放送車の発火に接続してなされた警官隊の実力行使により、デモ隊が分散してしまったとすると、原判示のようなデモ隊員の意識も消滅することになり、分散後の乗用車に対する攻撃の共同意思があらためて、いつ、どのようにして発生したかを説明しない限り、その認定ができなくなる。そこで原判決は乗用車に対する攻撃がデモ隊がなお進行を続けており、従ってデモ隊員の意識の存続している間になされたとすることにより、その説明を免れようとしたのである。しかし乗用車に火焔瓶の投げられたのが、進行を続けているデモ隊列の中からであったにせよ、デモ隊員は警官隊との衝突ということしか意識しておらず、民間の乗用車に火焔瓶を投げつけるなどということは全く考えていなかったのであるから、乗用車に対する火焔瓶の投擲がデモ隊員の共同意思に基いてなされたとするためには、乗用車に対する火焔瓶の投擲をも容認する意思が、いつ、どのようにしてデモ隊員の間に発生したかが説明されなければならず、そのような説明のない限り共同意思は認定できない、というのである。

しかし乗用車に火焔瓶の投げられた当時デモ隊は既に四散してしまっていたわけではなく、なお全体として行進を続けていたことは控訴趣意(総論)第五点、四、第二の論旨に対する判断で説示したとおりである。また原判決第一章、第二節、第一と同第四節、第三の二十八、三十とを総合すると原判決は、乗用車に対する攻撃を決して所論のようにデモ隊員全体の共同意思に基くものと認定しているわけではなく、警察放送車や乗用車に石や火焔瓶を投げた者及び岩井通り上にいてこれに同調した多衆によって構成される集団の共同意思に基くものと認定しているのであり、騒擾罪の成立に必要な共同意思としては、多衆の合同力による暴行、脅迫に加担する意思があれば足り、具体的な個々の暴行、脅迫を認識することまで必要としないから、所論のように右集団を構成している者の中に乗用車に火焔瓶を投擲することを認容する意思までなかった者がいたとしても、それらの者に、多衆の合同力による暴行、脅迫に加担する意思があった以上、乗用車に対する火焔瓶の投擲も、右集団に属する者の共同意思に基く暴行といえるのであって、そのような共同意思が集団員の間にいつ、どのようにして発生したかまで判示する必要はない。そして乗用車に対する攻撃が共同意思に基くものであることは、控訴趣意(総論)第五点、四、第二及び同(各論)33の被告人林元圭に関する各論旨に対する判断で説示しているとおりであり、原判決に所論のような理由不備もしくは事実誤認の違法はない。論旨は理由がない。

所論三「警察官包囲と火焔瓶投てきの実態」の(一)は要するに、原判決は、第一章、第二節、第七裏門前町交叉点附近の状況の項で、暴徒及び群衆が、浅井、山田(喜)両中隊を「包囲」して攻撃を加えたと認定しているけれども、暴徒及び群衆が両中隊を包囲したことはなく、附近の群衆は怖いもの見たさの野次馬根性的群衆心理で、火焔瓶が燃えるのや、警官隊の実力行使を見ていたに過ぎない。そして警官隊が群衆を解散させるために、六尺棒を使って実力を行使してくれば群衆は逃げ、警官隊が戻ればまたついに行くという行動が繰返されたのである。その際単に群衆が居るというだけで、警官隊が実力を行使して解散措置をとった場合に警官隊のそのような不法行動に対して、抗議をする者がいたとしても当然である、というのである。

しかし裏門前町交差点附近には、三〇〇ないし四〇〇名の暴徒及び群衆が、西方にいた浅井、山田(喜)両中隊を半円形に包囲するような状態で群っていたこと、これを解散させようとした警官隊に対し、そのうちの多数の暴徒が石や火焔瓶を投げて原判示のとおりの抵抗をしたことは、控訴趣意(総論)第五点、四、第三、二、(四)の論旨に対する判断で説示したとおりであって、記録を調べてみても、裏門前町交差点附近に群っていた多衆が、所論のように、単なる見物人であって、警官隊の実力行使に遇えば逃げ、警官隊が戻ればまたついて行くという行動を繰返していたに過ぎなかったとは認められない。所論が原審証人近藤時義の供述記載として摘示している部分は原審第一四四回公調中の同証人の供述記載中にはなく、同第一五一回公調中の同証人の供述記載中にのみ存在するのであるが、これを同証人の他の供述記載部分と併せて読むと、決して所論の事実を認めさせるに足るものではなく、単に裏門前町通りの北方より近藤中隊に盛んに投石してくる七〇ないし八〇名の暴徒集団があり、これを解散させるため同中隊が北進していくと、その状況を見ようとする群衆が寄って来て暴徒と一緒になり、暴徒と群衆との見分けがつかなくなったという意味に過ぎないことが明らかであるし、原審第七二一回公調中の証人高木紀賀の供述記載中の論旨指摘の部分も結局、同証人が見物人として行動したことを認めさせるだけで、所論の事実を認めさせるに足るものではない。

所論三の(二)は要するに、火焔瓶を投げた者の中には、逃げる時火焔瓶を車道に抛出したり、投げたりした者があるかと思えば、証拠になっては危いので処分するつもりで投げつけた者もいるというように、全てが警官隊に向って投げられたわけではなく、相当部分が捨てるために投げられている、のみならず火焔瓶を持っていた被告人の中には、道路や空地の隅や、露地に火焔瓶を置いて来た者さえあるのである。このことからも窺えるように、原判決の暴徒の中にも種々の考え方や行動をとった者があり、火焔瓶の投擲を含む警察官に対する攻撃が、「暴徒」の共同意思に基づくものといえないし、まして岩井通りを中心として、各所にいた「群衆」の共同意思に基づくものとはとうてい認められない。さらに群衆が、全体としてあるいはその大部分が、これら火焔瓶や石を投げる行為に加担するような態度をとっていたとみることができないことも明らかである、というのである。

しかしながらデモ隊分散後岩井通り各所で警官隊に加えられた原判示の暴行、脅迫が、集合した多衆の共同意思に基くものと認められることは、控訴趣意(総論)第五点、四、第三の論旨に対する判断で説示したとおりである。なるほど、火焔瓶を投げた者の中には捨てるために投げた者があり、中には火焔瓶を投げずに道路や空地の隅等に置いてきた者のいること所論のとおりであるけれども、それらの行為は、それらの行為をした者に共同暴行脅迫意思のなかったことを窺わせる事実ではあっても、岩井通り各所における原判示暴行脅迫が集合した暴徒の共同意思に基づくものであったとの右認定を妨げるものではない。のみならず騒擾罪の成立に必要な共同意思としては、多衆の合同力による暴行、脅迫に同意を表し、その合同力に加わる意思があれば足り、必ずしも自ら暴行、脅迫する意思まで必要でないし、自ら暴行脅迫する意思であれば必ずしも警察官に対して暴行脅迫する意思でなければならないわけではないから、火焔瓶を放置し全く投げておらず、また路上に投捨てただけで警察官に向って投げていないからといって、そのことから直ちにそれらの者に共同意思がなかったと断定することは困難であり、この点についての原判決の認定は正当といわなければならない。岩井通り各所にいた群衆が、全体として、あるいはその大部分が、これら火焔瓶や石を投げる行為に加担するような態度をとっていたとの事実は原判決の認定しない事実であるから、たとえそのような事実が認められないとしても、原判決に事実誤認があるとはいえない。各論旨はいずれも理由がない。

所論四は要するに、デモ隊分散後岩井通りを中心とする各所に群っていた群衆というのは、集団としての体をなさなくなるまで完全にバラバラになってしまったデモ隊員と見物人とであり、それが渾然一体となったものなのである。このような群衆全体の間に、警察官に暴行、脅迫を加えるという共同意思が発生した事実はなく、岩井通りを中心とする各所で散見された火焔瓶や石を投げ、警察官に罵声を浴びせるという行為が、群衆全体の意思と無関係になされたものであることはもちろんであるし、さらに、原判決のいう暴徒が岩井通りを中心とする各所を通じて共同暴行脅迫意思に基きそのような行為をしたことを認める証拠もない。原判決は、この群衆の意思と全く無縁な、個々の散発的な、極く少数の者の行動を恰も群衆の行動であるかのように誤認している、というのである。

しかし原判決は、デモ隊分散後の岩井通り各所における暴行、脅迫を、所論のように、各所に群っていた群衆全体の共同意思に基く暴行、脅迫と認定しているわけではなく、そのうちの暴行、脅迫を実行した多衆及びこれに同調した多衆の共同意思に基く暴行、脅迫と認めているのである。そしてデモ隊分散後岩井通り各所において多数の暴徒により原判示第二、第四ないし第八のとおりの暴行、脅迫が行われ、それが共同意思に基く暴行、脅迫であったと認めるべきことは既に所論一の論旨に対する判断で説示したとおりであって、この点の論旨も理由がない。

31  第五点、五「警官隊の実力行使」一「はしがき」について

所論は要するに、集団行動に対し警察権力が行使された場合、該警察権力の行使が違法であるならば、それに対する抵抗及びこの衝突によって生じる混乱、平穏の破壊等の責任は挙げて警察側に存するところとなり、集団参加者には何らの刑事上の責任を生じないのである。ことに本件において、デモ参加者の意識は、原判決も認定しているように、警官隊より実力規制、解散措置を受ければ、という条件付、仮定的なものであったのであるから、当夜のデモが平穏に終るか、大混乱を生じるかは警察側の実力行使、解散措置の有無にかかっていたのであり、その実力行使が正当であり、適法であったか否かが先ず第一に判断されなければならないのである。しかるに原判決は、警察側の、事前に周到に準備された違法な解散措置計画、拳銃等の武器の使用による違法な実力行使、善良な市民を殺し、多数を傷つけ、地域の静ひつを阻害した警察官の組織的暴力について、故意にこれを看過し、何の認定もしていないのは事実誤認の最たるものである、というのである。

しかしながら集団行動に対する警察権力の行使が違法な場合には、それに対する抵抗及びこの衝突によって生じる混乱、平穏の破壊等について集団参加者に刑事上の責任を生じない場合もあるけれども、本件において、警官隊のとった実力行使を伴う解散措置が止むを得ないもので決して違法といえないことは、以下二ないし七の各論旨に対する判断で説示するとおりであるから、原判決が所論の事実を認定していないからといって、原判決に事実誤認があるとはいえない。論旨は理由がない。

32  第五点、五、二「名古屋市警察本部の警備計画について」について

所論は要するに、市警本部は、七、七歓迎大会大会後参加者によって行われる虞のある無届デモに備え、大須球場東方の春日神社境内には、実弾六発を装填した拳銃を携帯し、他に予備弾六発と警杖を持ち、鉄兜をかぶり、編上靴に身を固めた完全武装の警察官約三六〇か三七〇名よりなる早川大隊を、北方の中署には、同じく完全武装の警察官約二五〇ないし二八〇名よりなる村井大隊を、西方の西大須交差点北側には、同じく完全武装の警察官約二〇〇名よりなる富成大隊を、それぞれ配置し、特に早川大隊には大隊副官清水警視の乗込んだ放送車を配備して大須交差点東約三〇メートル附近に出動待機させ、岩井通りを東進してきたデモ隊が同所にさしかかると同時に、放送車はデモ隊の先頭について上前津まで進み、上前津に近づくや、春日神社境内に待構えていた早川大隊が実力を行使して必ずデモ隊を上前津の線までで解散させることとし、その際村井大隊は本町通りを南下して岩井通りに出てデモ隊を制圧し、富成大隊は、東進中のデモ隊を西より攻めつけ制圧する、というように、上前津と伏見通りの間の岩井通り上において、東、北、西の三方よりデモ隊を包囲し、拳銃の発射を含む実力行使によってこれをせん滅する計画を立てた。この警備計画からも窺えるように市警本部は、六日の午後には、デモ隊が上前津を経て金山に向うことを知っていたのであり、しかもデモ行進が平穏であろうとなかろうと、それが公安委員会の許可を受けていないという理由だけで実力を行使してデモ隊を是が非でも解散させる計画であったことが明らかである。

ところで昭和三六年の改正前の昭和二十四年愛知県條例第三十号「行進又は集団示威運動に関する條例」(以下愛知県公安條例と略称する。)は、第一條にデモ行進には許可を要することとし、第五條にその罰則を設けていたが、許可を受けないで現に行われているデモ行進に対し、これを制止し又は解散させることができる旨の規定を設けていなかった。従って本件当時愛知県における無許可デモに対する制止等の措置は、一般犯罪に対すると同じく、昭和二九年法第一六三号による改正前の警察官等職務執行法(以下警職法と略称する。)第五條に基いてしか行えなかったのであるが、同條によれば、同條によって許容される実力行使は「制止」を限度とし、「解散」までは含まれていない。のみならずデモ行進に対し即時強制の実力行使ができるのは、当該デモ行進によって人の生命、身体に危険が及び又は財産に重大な損害を受ける虞があり、しかもそれが明白且つ差し迫った場合でなければならないのである。しかし無許可のデモ行進は、交通秩序等に障害を及ぼすことがあっても、人の生命、身体、財産に危害を及ぼすことはあり得ない。無許可デモに参加する者の一部が火焔瓶等を携帯し、これらの使用に備えて警備体勢をとるとするならば、それは、そのような違法行為が将に行われようとするとき、警職法に基いてその行為のみを制止すべきであり、そのような行為が行われようとするからといってデモ行進そのものまで制止する実力行使を正当化することはできない。無許可デモ行進といえども、無許可であることを理由に、制止及び解散させることのできないことは当然の帰結である。そうだとすれば、七・七歓迎大会後のデモ行進が無許可であることを理由に、これを解散させようとした市警本部の警備計画は明らかに違法であり、人権無視も甚だしいものである、というのである。

よって検討するに、所論は、市警本部が所論の警備計画を立てた当時既にデモ隊が岩井通りを東進して上前津から金山方面に進む予定であったことを前提とし、市警本部がそのことを知りながら警備計画を立てたと主張する。しかし警備計画の立てられた当時デモ隊は中署、アメリカ村を攻撃する計画であり、岩井通りを東進して上前津方面に向うことなど全く予定していなかったことは控訴趣意(総論)第五点、一、第二、二「デモの目的変更について」の論旨に対する判断で説示したとおりであるから、所論は前提を誤っているといわなければならない。のみならず、原判決が第二章、第一節、第三款に掲げている証拠ことに、≪証拠省略≫によれば、市警本部が警備計画を立てた当時同本部には、デモ隊の進路や目標について、デモ隊は中署、アメリカ村を攻撃するらしいという程度の情報しか入っておらず、それもそれ程確かなものでなかったため、同本部はデモ隊の進路が確認できないまま、結局(1)デモ隊が岩井通りを東進し大須交差点を越えてそのまま上前津方面に向う場合、(2)大須交差点で左折し本町(門前町)通りを北上して中署に向う場合、(3)岩井通りを西進し、西大須交差点を右折して伏見通りを北上し、アメリカ村に向う場合の三つを想定し、そのうち可能性の最も高い(1)の場合に対処するため、早川大隊を上前津交差点西北の春日神社に待機させ、まず岩井通りを東進して来るデモ隊に対し大隊副官の清水栄に放送車を使用して繰返し解散を勧告させ、それでもなおデモ隊が東進を続けるときは、大須と上前津の中間地点附近より阻止行動に移り、村井、富成両大隊の応援をも得て上前津の線までに必ず解散させることとし、(2)の場合に対処するため、村井大隊を中署に待機させ、本町通りを北上して来るデモ隊を同署西方にある中郵便局の線までに解散させることとし、さらに(3)の場合に対処するため、富成大隊を、初め中署に、その後西大須交差点北方に待機させ、岩井通りを西進して来るデモ隊を伏見通りの線で解散させることとする警備計画を立てたことが認められるのであって、記録を調べてみても警官隊が上前津と伏見通りの間の岩井通り上において、デモ隊を東、北、西の三方より包囲し、拳銃の発射を含む実力行使によって、これをせん滅する計画であったことなど全く認めることができない。

そこですすんで、市警本部の右デモ隊解散を目的とした警備計画が違法かどうかについて考える。愛知県公安條例第一條は、一定の場所における行進又は集団示威運動は、原則として公安委員会の許可を要する旨規定し、第五條において、第一條の許可を受けず、行進又は集団示威運動を組織し若しくはこれに参加した者を処罰する旨規定していたけれども、現に許可を受けずに行われている行進又は集団示威運動に対し「公共の秩序を保持するため、警告を発し、又はその行為を制止することができる」という現行條例第八條のような規定を設けていなかった。従って第一條に違反して現に行われている集団示威運動を即時強制の方法で解散させるためには、警職法第五條の規定によらなければならなかったのである。所論は、解散は、制止よりはるかに積極的で強力な実力行使を意味しており、制止の概念には解散まで含まれていないから、単に「制止」することができるとしか規定していない同條によっては集団を解散させることはできない、というのであるが、同條の制止とは、犯罪が行われようとするのを実力で中止させることを意味し、その手段については、社会通念上妥当と認められる限り、これを問わないと解すべきところ、犯罪が集団によって行われようとする場合に集団を解散させることも、犯罪を中止させる手段として社会通念上妥当であって制止の概念に含まれているとみられるから、現に行われている集団示威運動が同條の要件を充たす限り、同條によってその集団を解散させることができると解するのが相当である。本件において、原判決の挙げている証拠によれば、七・七歓迎大会後強行する予定のデモ行進についての被告人らの初めの計画は、原判決が第一章、第一節、第二款に詳細に認定しているとおりであって、学生、朝鮮人、自由労務者を中心にデモ隊を組織し、隊員は各自武器として火焔瓶とかプラカード、竹槍等を持ち、デモ隊は球場を出た後岩井通りを東進し、大須交差点を左折して門前町(本町)通りを北上し、途中で二手に分れ、学生、自由労務者より成る本隊は中署に、朝鮮人部隊はアメリカ村に行き、同所に火焔瓶を投げ込む等の攻撃を行った後大須の繁華街に逃込んで解散する、というのであったから、もしこのような計画が実行されると、人の生命、身体に危険が及び、財産に重大な損害を蒙らせる虞のあることが明らかであり、実行される危険が切迫した場合にデモ隊を解散させることができたことは明らかである。もっとも市警本部は前敍の警備計画を立てた当時被告人らに中署、アメリカ村を火焔瓶で攻撃する計画のあることまで確定的に知っていたわけではない。しかし原判決の挙げている証拠によれば、帆足、宮腰両氏の歓迎報告大会後無届デモ行進の行われる虞があったため警備計画を立てるについて、最初は中署が単独で中署員の動員を中心とした警備計画を立てていたのであるが、大会前日の七月六日午後名古屋駅に右両氏を出迎えに行った者らが広小路通りを無許可で集団示威行進し、そのため警備の警察官がこれを解散させるという事件があり、そのとき逮捕された玉置鎰夫の所持していたメモの中に「A←Y部RNo.1七月七日の帆足、宮腰集会における各人の任務について、七月四日発」「この集会参加者全体として二千個の火焔瓶が持たれる、電報としては参加者は全部一個づつの火焔瓶を持って参加せよ、中核隊には更に高度の武器を持たせる」と記載したもの「通A←P、7・2」「党として大会後デモを計画している、電報労働者は分散させず、一つところに集り、Rの指導を受け、デモ隊の一つの中核になるよう準備すること」「Rは7・7、7・13共に軍事方針を出し、中自隊を編成せよ、」と記載したものがあったため、市警本部は中署の立てていた警備計画を急拠前敍のような計画に変更したことが認められるし、また余り確かなものでなかったにせよ、市警本部は大会終了後デモ隊が中署アメリカ村を攻撃するらしいとの情報を入手していたのみならず、当時東京ではメーデー事件、大阪では吹田事件というように、火焔瓶を使用した大規模な集団事件が、また名古屋でも中村県税事務所事件、高田派出所襲撃事件、PX事件等火焔瓶を使用し、あるいは集団で、税務、警察関係の官署や米軍施設を襲う事件が相ついで発生しており、また名古屋に先んじて関西方面で開かれた帆足、宮腰両氏の歓迎報告大会の終った後騒ぎのあったことが伝ってきていたことも認められる。さらに大須附近が名古屋市内有数の盛り場で、夜遅くまで人車の往来があり、近くには中署やアメリカ村等の施設もあって、デモ行進をいつまでも放置しておくときは火焔瓶等の使用による人的、物的事故発生の危険性が極めて高かったことも窺われるのである。市警本部が、以上の情況をふまえたうえで、デモ隊に対し無届デモであることを理由に再三デモ隊の解散を勧告もしくは命令し、それでもデモ隊が行進を続けるとき、東は上前津、北は中郵便局、西は伏見通りの線で強制的に解散させる計画を立てたとしても、その計画を違法とまでいうことはできない。のみならず警官隊が現実にデモ隊に対してとった解散措置は原判決が第一章、第二節、第一ないし第七に認定しているとおりであり、市警本部の立てた前敍の警備計画がそのまま実行されたわけではないから、仮に警備計画が違法であったとしても、そのことの故にその後現になされた解散措置を違法ということはできない。論旨は理由がない。

33  第五点、五、三「デモ隊崩壊の原因と警官隊の実力行使(山口中隊の第一回拳銃発射)」及び五、五「山口中隊の空地に向けての拳銃発射(山口中隊第二回拳銃発射)について」(一)について

所論のうち五、三、(一)は、要するに、原判決は、第一章、第二節、第二において、「春日神社に集結していた早川大隊の大隊長警視正早川清春は、放送車が火焔瓶で攻撃されたことを知って、各中隊に放送車の救出と暴徒鎮圧のため出動を命じた」と認定している。しかし放送車の発火が、十数名いた搭乗員を降ろした後であること、放送車には濡れムシロが予かじめ用意されていたこと、放送車の発火が警官隊の実力行使並びに武器使用の法律上の根拠とされていること、警官隊が裏門前町交差点で最初に実力行使をするという計画だったこと等を併せ考えると、デモ隊の先頭が裏門前町交差点に到達する直前に放送車に火焔瓶が投げ付けられて炎上したのは、警察側が実力行使の計画の中でそのように計画していたからであり、山口中隊の出撃は、放送車の炎上とは全く関係がなく、当初から計画されていた地点でデモ隊を阻止するために出撃したに過ぎない。もし本当に放送車の救出が目的ならば、山口中隊はまず放送車の所在場所に到着し、放送車の内外の安全を確保し、搭乗警官の安否を尋ねるべきであるのに、全くそのような行動に出ることなく、放送車の横を通り過ぎているのであるから、山口中隊が放送車の救出を目的に出動したものでないことは明らかである、というのである。

よって検討するに、市警本部ではデモ隊が岩井通りを東進する場合放送車を使用して大隊副官清水栄に繰返しデモ隊に解散を勧告させ、それでもなおデモ隊が東進を続けるときは、大須交差点と上前津交差点の中間地点附近より阻止行動に移り、上前津の線までに必ず解散させる計画であったこと控訴趣意(総論)第五点、五、二の論旨に対する判断で説示したとおりであるけれども、所論のように、デモ隊先頭が裏門前町交差点に到達する直前に放送車を炎上させることが警備計画に組込まれていた事実は認めることができず、むしろ原判決の挙げている証拠によれば、早川大隊長は、放送車が暴徒より火焔瓶で攻撃されたことを知って、山口中隊に対し、放送車の救出と暴徒鎮圧のため出動を命じたことを認めるのに十分である。即ち早川大隊の大隊長であった証人早川清春の原審第三一四回公調中の供述記載中には、「大須電停附近で放送車がやられているから救いに行けということで出動を命じました。」「(問)放送車がやられたから出動せよというのは、どういう意味なんでしょうか。(答)まず、救いに行けということが一つです、それから続いてのデモがあれば最初の判断では、もう少し大須交差点と上前津交差点の中間辺まで放送車で呼びかけつつできるならば本当のデモ隊の人員を少くできればして、そして中間附近まできたところで出ると、こういう方針だったんですけれども、もっと前のところで放送車が襲撃され、火焔瓶でやられているという状況でございますので、とりあえずその班員の救出をしなければならない、従って更にその線で解散措置をとると、こういう判断をしたわけであります。(問)第一の目的は放送車の救出ですね。(答)はい、第一というのはおかしいですが、含めてですね。(問)そして同時にデモ隊の解散と。(答)出た以上はそこで解散させると、こういう意味でございます。(問)そういう命令を一人一人の各中隊長にお与えになったんでしょうね。(答)そうです。(問)集った各中隊長に一人一人、救出に行けと、そういう意味のことをお伝えになったわけですね。(答)そうです。」との部分があり、同大隊山口中隊の中隊長であった原審証人山口康治の原審第八五回公調中の供述記載中には、「(問)放送車に火焔瓶を投げ込まれたという報告を受けた大隊長はどのような処置をとったか。(答)自動車に乗っていた三ヶ中隊に下車を命じると同時に、私の中隊に対しては直ちに放送車の救援に赴くように命じました。」との部分、同第八九回公調中の供述記載中にも「(問)……証人は春日神社の前を出発する時に大隊長の命令としては清水警視の放送車を救援の為に出発せよという命令を受けたのですか。(答)当面は放送車を救出すると同時に、次の任務は附近を鎮圧されなければならないとの命令を受けています。(問)具体的には早川大隊長はどのような形でどういう言葉で証人に命令しましたか。(答)伝令により放送車に火焔瓶が投げ込まれたと云う事は伝令と同時に西の方に火の手が上り分って居る、やられた、すぐ行って放送車を救出せよ、そして勿論附近を鎮圧し逮捕しなければならんということでした。」との部分がある。弁護人は当審の弁論において、右各供述記載は信用できない、というのであり、(最終弁論要旨(4)三四頁以下)右山口を除く早川大隊所属の各中隊長はいずれも、出動に当って早川大隊長より放送車救出の指示を受けた記憶がない旨述べていること、弁護人が右弁論で指摘しているとおりである。しかし原判決が第一章、第二節、第二の証拠として第二章、第二節、二に挙げている証拠によると、早川大隊の出動した経緯として、春日神社境内で待機していた早川大隊に対し、午後一〇時前頃中署を通じてパトカーの無電で、早川大隊は大須球場の東に配置転換して警備に当るように、との連絡があったが、それが市警本部からの命令かどうかはっきりしなかったため、早川大隊長は、一応何時でも出発できるよう隊員にトラックへの乗車を命じる一方、市警本部に警備計画が変更になったのかどうか照会していた。その回答のないうちに、伝令を介して同大隊長に、演説会が終了したとの情報が送られ、ついで、間もなくデモ行進が始まりそうな状況との情報が送られてきたため、同大隊長は、当初の計画に従い大隊副官清水栄に命じてデモ隊に解散を勧告させるべく、大須電停附近まで放送車を出動させた。その後市警本部より大須球場の出口で分散措置をとるようにとの指令があったが、その頃早川大隊長は自転車で同人の前を通りかかった店員風の青年や、伝令から、放送車がデモ隊に攻撃されていることを聞き、急拠トラックに乗って待機していた隊員に下車を命じ、早く整列の終った中隊より逐次出動させた結果、山口、浅井、神田、山田(喜)の各中隊の順に大須に向って出発し、しかも出発に当って各中隊長らはいずれも大須方面が明るくなって火の燃えている状態だったことを目撃していることが認められるから、早川大隊は放送車の発火炎上とは関係なく、当初の警備計画に従って出動したのではなく、デモ隊による放送車の攻撃という予測していない事故の発生により急拠出動したことが明らかであり、かかる出動の経緯に照らすとき、放送車の被害の拡大することを心配した大隊長早川清春が、少くとも最初に出発する山口中隊の中隊長山口康治に対し、暴徒化したデモ隊を解散させることとともに、放送車の救出を指示することはむしろ当然であり、そのような指示のあった旨の前掲各供述記載は十分信用することができるといわなければならない。そして同供述記載によれば、山口中隊が、早川大隊長の命により、放送車の救出と暴徒鎮圧のため出動した事実は優にこれを認めることができる。なるほど、山口中隊が放送車の救出行為とみられるような行動に出ていないこと所論のとおりであるが、山口中隊が放送車の近くに行った時には既に暴徒の放送車に対する攻撃は終了し、放送車を救出するために特別の行動に出る必要のない状態になっていたことが認められるから、山口中隊が放送車の救出行為とみられるような行動に出ていないことも右認定を左右するに足りないし、当審第一八回公判における証人古田清の証言中には、放送車に火焔瓶の投げられた当時既に警官隊が放送車のすぐ近くまで出動していたことをうかがわせる部分があり、所論に沿うかのようであるけれども、もしそうだとすれば、中隊長山口康治を始め同中隊の隊員らは放送車に火焔瓶の投げつけられる光景を目撃していなければならないのに、そのような事実は認められず、また同中隊は放送車が攻撃を受けた直後にその附近でデモ隊と衝突しているはずであるのに、現場写真綴(1)の写真によってもそのような事実を認めることができないばかりか、古田清の証言中には「(問)それから警官の部隊と群衆とが衝突しているような情景を見た記憶はありますか。(答)えゝ、それはあります。(問)どういう状況を見ましたか。(答)私が今思うと、その時は放送車は衝突地点よりちょっと離れていたように思いますね、というのは放送車は避難していたかもしれませんね、とにかく衝突してごちゃごちゃというような状態になっているのを覚えていますから、その時私達警備に当っていた者はその放送車から、衝突地点よりちょっと離れていたように、一応安全圏というか、そういう所へ移動していたように記憶しています。」との部分があって、右所論に沿う部分の同人の記憶の正確性について疑を抱かざるを得ないのであって、同証言も右認定を左右するものではない。その他原審で取調べた証拠の中に放送車の発火当時既に警官隊がデモ隊のすぐ前面に到達していたことを窺わせるような証拠があるけれども、その信用できないことは控訴趣意(総論)第五点、四、第一の論旨に対する判断で説示したとおりであり、また当審第一六回公判における証人青山富美子(三九二―三六七六以下)、第二〇回公判における証人今西喬、第三八回公判における証人馬場久勝、第三九回公判における証人安達義弘、第五〇回公判における証人丸山清利、第五一回公判における証人西川秀夫、第五六回公判における証人今川仁視の各証言中にも所論に沿う部分がある。しかし証人青山富美子の証言は、同証人が西に向って出動する警官隊を見た位置について、裏門前町交差点附近であったとも、あるいは放送車の発火した所より一〇〇米以上上前津寄りであったとも述べており、そのいずれであったかによって、同証言は所論に沿うものともなり、原判決の認定を裏付けるものともなるのに、その位置が必ずしも明確でない点で所論の事実を認めさせるに足りないし、その余の証人の証言も、証言中同証人らがデモ隊の先頭附近に位置していて放送車内で火が燃え上っていたのを目撃した旨の部分、及び上前津方面から出動してきた警官隊を目撃した旨の部分は信用できるにしても、放送車発火後最初の警官隊がその附近に到着するまでの時間は、原判決の認定によってもせいぜい十分足らずであり、同証人らが二〇年余経った今日でもなお放送車の発火を目撃したのと警官隊を目撃したのが殆んど同時であったか、その間に十分足らず経っていたかというような微細な時間の経過についてまで正確に記憶しているかどうか極めて疑わしく、原審第七九回公調中の証人田中國臣の供述記載と対照してみても、放送車発火当時警官隊が既にすぐその近くまできていた旨の部分はそのまま信用することができない。結局原判決の認定は正当であるといわなければならない。

所論のうち五、三、(二)(但し46・2・17付控訴趣意書第五点、五で訂正されたもの)(三)及び五、五(一)は要するに、裏門前町交差点附近より開始された山口中隊の実力行使により、デモ隊が雪崩をうってくもの子を散らすように逃げ出した時、同交差点の西南に当る岩井通り四丁目一〇番地森田國男方で、通りの群衆に押されてはずれそうになる出入口の板戸を内側から支えていた森田國男が、東北の方角から飛んできた亀垣巡査部長発射の挙銃弾により負傷した事実、伊藤柳太郎、村山悟が岩井通りを東進中前方より飛んできた挙銃弾により負傷している事実、デモ隊分散の態様が、雪崩をうって、くもの子を散らすように逃げている事実、さらには原審で取調べた証人田中國臣ほか多数の証人の証言を総合すると、山口中隊がデモ隊を制圧しつつ西進する際、原判示挙銃発射のほか、東から西方のデモ隊に向けて拳銃を発射していることは明らかである。ところで本件デモ行進に制止措置がとり得るのは、デモ行進が警職法第五條に該当する場合でなければならないのであるが、本件デモ行進は無許可であり、参加者の中に火焔瓶を投げたりする者があったとしても、デモ隊全体は、上前津に向って平穏に行進していたことが明らかであるから、このデモ行進に対しては制止措置すらとり得ないのに、拳銃という殺傷武器まで使用してデモ隊を解散させた山口中隊の実力行使は違法であるから、これを認定しなかった原判決には事実誤認がある、というのである。

しかしながら、山口中隊がデモ隊を制圧しつつ西進する際デモ隊に拳銃を発射した事実の認められないことは控訴趣意(総論)第五点、三、第五の論旨に対する判断で説示したとおりである。所論は右論旨において援用した証拠のほか、さらに、森田國男、伊藤柳太郎、村山悟の負傷の状況、原審証人加藤弘、同谷川浩、同室生昇、同川出信貴、同小島康男、同田中眞治郎の各供述記載も所論の正当性を裏付けるものである、と主張する。そこでまず(1)森田國男の負傷の状況について、検討することとする。≪証拠省略≫によると、燃料商を営んでいた森田國男は当夜岩井通り南側の、同通り四丁目八番地空地西隣の燃料倉庫内よりデモ行進を見ていたのであるが、デモ隊の先頭が同人の目の前を東に通り過ぎて間もなく、今度は東の方から群衆が押し合いながら先を争うように倉庫前の歩道を西に引き返し始め、その人達に押されて倉庫出入口の二枚の板戸が内側に弓なりに曲って今にもはずれそうになったため、戸の真中を内側より手で押して支えていたところ、乗用車が燃え上った瞬間位に、一旦地面に当ってはね返ったいわゆる介達弾(跳弾)と思われる挙銃弾が、右(東)側板戸のほぼ真中(高さ二尺九寸、右端から一尺八寸のところ)附近を貫通して倉庫内に飛込み、貫通箇所より約一尺二寸位左(西)寄りやや上部を手で押していた同人の左肘関節屈曲側ほぼ中央に当ったことが認められるから、挙銃弾が北を向いて戸を押していた森田のほぼ右斜前方即ち東北の方向から飛んできたことは所論のとおりである。所論は、原審鑑定人大野龍男作成の鑑定書、原審証人大野龍男の尋調を理由に、森田の体内から取り出された右挙銃弾は山口中隊の隊員亀垣槓の拳銃から発射されたものと認められるというのである。ところで右大野龍男作成の鑑定書及び同人の尋調によると、当夜空地附近で被弾した申聖浩の体内から取り出された名地検昭和二七年領第九二一八号証第一号(以下証第一号と略称する)の拳銃弾も亀垣槓の拳銃から発射されたものである、というのであるから、右鑑定書等によれば、当夜亀垣は二発の拳銃弾を発射していることになるけれども、亀垣槓の西警察署長宛「けん銃の使用状況報告」書、原審第二五九回公調中の証人亀垣槓の供述記載によると、当夜亀垣の発射した拳銃弾は一発であったというのである。また当審鑑定人松本弘之作成の鑑定書、当審第六三回公判における証人松本弘之の証言によると、申聖浩の体内から取り出された拳銃弾は清水栄の挙銃から発射されたものであり、森田の体内から取り出された拳銃弾はどの拳銃から発射されたのか不明である、というのである。のみならず森田國男に拳銃弾が当ったのは、乗用車が燃上った瞬間位であったこと前認定のとおりであり、右乗用車というのは空地の東北角車道に駐めてあった後藤信一管理の乗用車であったと認められるところ、清水栄作成の無届デモ取締状況報告書、同人の原審第一〇八回公調中の供述記載によると、右乗用車の燃え上って間もない頃清水栄が拳銃の発射されたと推定される前記倉庫の東北方に当る空地北側附近岩井通り車道より西南方の暴徒に向けて拳銃を発射した事実を認めることができるけれども、記録を調査しても亀垣槓が同所附近で拳銃を発射した事実は所論の事実のほかこれを認めるに足る証拠は見当らない。弁護人が当審の弁論において指摘しているように現場写真綴16には、八名の警察官が前記空地東北角に駐めてあった黒色乗用車の近くを西進しており、そのうちの二名は明らかに右手に拳銃を構えており、一名は腰の拳銃に手を当てている姿が見られる。しかも路上数ヶ所で火焔瓶が燃え上っているし、南側歩道には東方に逃げようとしているデモ隊員か見物人らしい姿も見られることを総合すると右の写真が、暴徒を鎮圧するため春日神社より出動した警官隊の西進中の写真であることは間違いないけれども、右写真から、右写真の写された前後頃に写真に写されている警察官が拳銃を発射した事実まで認めることは困難であり、また原審第八五回公調中の証人山口康治の供述記載、同第二五九回公調中の証人亀垣槓の供述記載によると、山口中隊が黒色乗用車横まで西進した頃同車はまだ燃えていたこと、及び山口中隊は中隊縦隊で西進したことがそれぞれ認められるのに、右の写真に写っている黒色乗用車は燃えていないこと、写っている隊員が比較的少ないこと等を考慮すると、右の写真に写っている警官が山口中隊員であるとは認められないから、右の写真及びこれを説明した当審第七六回公判における証人亀垣槓の証言も、山口中隊の隊員が空地北側附近岩井通り車道上で西方に向けて拳銃を発射した事実を認めさせるに足るものではない。以上のような点を考え併わせると、森田國男の負傷はむしろ清水栄の発射した拳銃弾によると認めるのが相当であり、森田國男の体内から取り出された拳銃弾が亀垣の拳銃から発射された旨の前掲大野龍男の鑑定書及び尋調は信用できず、従って森田国男の負傷の状況も、山口中隊が西進しながら拳銃を発射したとの所論の事実を認定する資料とはならない。つぎに(2)伊藤柳太郎の負傷の状況を認める証拠としては、原審第二四四回公調中の証人伊藤柳太郎の供述記載しか見当らない。所論は、右供述記載から、伊藤柳太郎は、岩井通り車道北側を東進中、前方より飛来した拳銃弾により負傷したと認めざるを得ず、その事実から山口中隊が裏門前町交差点より西進中西に向って拳銃を発射したことが推定される、というのであるが、右供述記載自体からも窺われるように、同人の証言は、異常な混乱状態の中で思いがけず遭遇した被弾という重大事故による精神の動揺と、被弾した時から証言した昭和三五年五月一一日までに約八年という時日が経過したことによる記憶の減退とのため、その内容は必ずしも正確ではなく、かなりあいまいなところが多い。ことに被弾した時期、場所、その際の身体の向き、傷の状態等、拳銃弾の飛来した方向を認定するために重要と思われる点について明確さを欠いており(当審第一一回公判における証人柴田高次の証言も、伊藤柳太郎の供述記載によると、当日同人は、白いシャツに半ズボンであったのに、同証人が見たのは、白い浴衣を着ていた、というのであるから、右伊藤柳太郎の供述記載を補強するに足りない。)、右供述記載のみでは、所論のように、同人に当った拳銃弾が東方から西方に向けて発射されたものとは断定できない。西方その他の方向から飛来したものである可能性もあり、清水栄もしくは山口中隊が原判示のように西南方もしくは東南方の空地に向けて発射した拳銃弾が跳弾となって右伊藤柳太郎に命中した可能性も否定できない。むしろ、記録を調べてみても、清水栄の原判示第二節、第一、山口康治外三名の同第二節、第二の各拳銃発射以外に当夜拳銃の発射されたことを認めるに足る証拠のないことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第四、第五の論旨に対する判断で説示したとおりであるから、同人に当った銃弾も、清水栄、もしくは山口中隊が原判示のように西南方もしくは東南方の空地に向けて発射したのが跳弾となったものとみるのが相当であり、同人の負傷の状況も所論の事実を認定するに足る資料とはいえない。(3)村山悟の負傷が清水栄の発射した拳銃弾によるものであることは、弁護人自身が控訴趣意(総論)第五点、七、(三)、(イ)の論旨において認めており、清水栄作成の無届デモ取締状況報告書、原審第一〇八回、第一三四回公調中の証人清水栄の供述記載、同第二九八回公調中の証人岡山義雄の供述記載によれば、同人の負傷は清水栄が空地北側軌道上より西南方で気勢をあげていた暴徒に向けて発射した拳銃弾によると認められ(清水がその時以外に拳銃を発射していないことは第五点、三、第四の論旨に対する判断で説示したとおりである。)、所論のように山口中隊が西進しているとき東方より発射された拳銃弾によるとは認められないから、村山悟の負傷の状況も所論の事実を認める資料とはならない。その他所論の指摘する証拠中原審第七一七回公調中の証人加藤弘の供述記載は、清水栄の拳銃発射の状況を述べたに過ぎない。同第二四七回公調中の証人谷川浩の供述記載は、要するに「空地の反対(北)側歩道上で立止って見ていると、放送車の発火直後その後ろの方から二、三〇人の警官隊が車道北側を一列になって西進してきて、同人の目の前を通り過ぎ、少し西に行ったところで横隊に散開し、その中の三、四名の警察官がその頃なお車道一杯になって東進を続けていたデモ隊後尾の群衆に向って五、六発ではきかんくらい拳銃を撃った、後続の警官隊もつぎつぎにやってきた、デモ隊の先頭部分はこれに対し火焔瓶を投げたりして警官隊とこぜりあいをやっていた、警官隊はデモ隊を前後に分断し、空地に逃げ込んだデモ隊の前半分を包囲したような状態になり、空地に向って集中的に拳銃を発射した、」というのである。谷川浩の右供述記載中には、同人が見ていた位置から考えて当然目撃しているはずの清水栄の拳銃発射について全然記憶していないばかりでなく、山口中隊が空地北側附近に到着する前その附近のデモ隊は清水栄の拳銃発射によって既に崩れていた事実とも矛盾しており、同人の記憶に混乱があるのではないかとの疑があってたやすく信用できない。同第七〇四回公調中の証人室生昇の供述記載は、同人が空地の所で聞いた拳銃の音が果して山口中隊が車道を西進しているとき、しかも東から西に向けて発射した拳銃の音かどうか明らかでない。同第二二回公調中の証人田中眞治郎の供述記載は、空地東側路地にいた暴徒を解散させるため、路地入口附近の岩井通りでこれと対峙していた警官隊のうちの一人が、路地の奥に向って拳銃を発射したという趣意のものであって、山口中隊の拳銃発射に関係のないことは明らかである。同第二七三回公調中の証人川出信貴の供述記載は、ワシノ精機の入口のところに立って見ていると、車道一杯に一列横隊になった警官隊がピストルを撃ちながらやって来て、空地東側路地の入口より少し東のところで一斉射撃をしたというのであるが、一方同人は当然見ているはずの原判示第二節、第二の山口中隊の拳銃発射について全く記憶していない。従って同人の述べている警官隊の拳銃発射の光景というのも結局原判示第二節、第二の山口中隊の拳銃発射の光景であり、唯発射の時期、場所、態様について誤って記憶しているのではないかとの疑があり、必ずしも所論の事実を認めるに十分な証拠ではない。また同第二四八回公調中の証人小島康男の供述記載も、「放送車が発火炎上した後もデモ行進を続けて放送車の近くまで行った時、東の方から多数の警察官が車道全面にわたって突撃のような態勢で突込んできたので南側歩道に上り、空地東側路地の中に二ないし三〇歩逃げ込んだとき、拳銃の発射音を二、三発聞いた」というのであるが、山口中隊が、発火炎上している放送車に近づいてきていたデモ隊列に突込んだ事実はなく、小島康男の記憶には不正確なところがあって、右供述記載から直ちに、山口中隊が西進しながら拳銃を発射した事実を認定することは困難である。

以上のとおり、所論の指摘する証拠によっても山口中隊がデモ隊を制圧しつつ西進する際デモ隊に拳銃を発射した事実を認めることができないから、それが警職法第五條に違反して違法であるか否かを論ずるまでもなく所論の事実を認めなかった原判決は正当であり、原判決に所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。

34  第五点、五、四「清水栄警視の拳銃発射について」について

所論は要するに、原判決は、第一章、第二節、第一において、「清水栄は前記のように放送車より下車して、警護員等と共に放送車を裏門前町交叉点東北角附近に退避させた後、さきに下車した部下の安否を気遣うと共に暴徒を逮捕する目的で、岩井通り車道の北側を百米余西に向い、途中火焔瓶一、二個、石数個を投げつけられて、前記空地北側車道附近まで来ると、その附近では既にデモの隊列が崩れていたけれども、多数の群衆が南側の車道及び歩道上に群がっていて、空地前にあった後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があったけれども、赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し、北側軌道上に進み出た清水栄に対して盛んに投石し、うち一個が同人に当って全治五日を要する右前胸部挫傷の傷害を与えるに至ったので、同人は自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受け、かつ暴徒がなお乗用車に火焔瓶を投入しようとするような勢を見て、これを防止するためには拳銃を発射する以外に方法がないと判断し、午後十時十五分頃右軌道上より、西南方の前記気勢をあげていた暴徒へ向けて拳銃五発を発射したところ、これらは前記空地及び西方に後退した。」と認定している。しかし原審における証人清水栄の証言によると、清水栄が放送車を離れて西に向おうとした時には、放送車に対する攻撃は全くなくなり、デモ隊員は西の方に逃げていたのである。にも拘らず清水栄は部下警察官に「俺についてこい。」と言い残して逃げるデモ隊の後を追い西に向って移動し、岩井通り四丁目八番地空地北側車道附近まで来たとき、多数の群衆が反対(南)側の車道及び歩道上に群り、空地前にあった黒色乗用車の附近では、プラカード、赤旗等をかざして気勢を挙げているのを見て、右自動車を焼打ちするものと妄想速断し、群衆を解散させるため、僅か三ないし四米という至近距離より、拳銃を水平に構え、群衆の中心部目がけて、警告もなしに、また人を殺傷することがないようにとの配慮を全くせず拳銃を発射したことが認められるのであって、原審証人久徳高文、同新村徹、同田中國臣の各供述記載のほか、清水栄の供述記載自体からも発射当時群衆中より乗用車に火焔瓶が投げられて燃え上っていたかどうか疑わしい。さらに、清水栄に攻撃が加えられて同人の生命、身体が危険に曝されていたというような事実はなく、同人が自己もしくは他人の防護のため拳銃を発射したのでないことは明らかであり、もちろん犯人の逮捕もしくは逃走の防止、清水の公務の執行に対する抵抗の抑止のために発射した事実も認められないから、清水の拳銃の発射は警職法七條に違反していて違法であり、その旨認定しなかった原判決の事実認定は誤っている、というのである。

よって検討するに、清水栄作成の27・7・8付無届デモ取締状況報告書中には、「それ故私は自動車後部に廻り尚も火えん瓶を投げたり、左右から石を投げて来たが、けん銃の銃把に手を廻し射つぞと叫んだがデモ隊は同所より順次西方へ行進しつつ石等を左右から投げつけて来た、その頃には続く隊員も群衆の中に一人か二人居たかと思うが、途中で下車した隊員の安否が気付かわれたので、犯人の逮捕と本隊の急援が間もなくあるものと予想されたので赤旗や竹槍を持った暴徒の中心集団を追跡して見取図(ト)に達した際、南側に乗用自動車二台が停車している空地のある地点において、激しく石、火えん瓶を投げ付け反撃して来るのみか、自動車にも放火し到底少人数にては逮捕ができないのみか、群衆に取囲まれて極めて急迫した状態となったので武器であるけん銃を使用する外他に手段がなく、道路をそれまで追行中には到底けん銃使用の余地はなかったが、明らかに暴徒の集団が自動車の停車している地点において自動車に放火しかん声を挙げて更に兇悪な行動に出て来たので、遂にけん銃を手にして暴徒の中心に向けて発砲したのである。然るに最初一、二発発射した際には更に変化がなく続いて赤旗や竹槍等を振りかざしていた中心を射って射撃するに急に空地東の通路や附近人家に逃込むだので射撃を中止し」との部分があり、同人の同日付「けん銃使用発生報告」書中にもこれとほぼ同旨の記載がある。さらに原審第一〇八回公調中の証人清水栄の供述記載中には、「デモ隊が途中で引返しているので、そうした焼夷弾を投げた者を捕えたり、途中で降りた部下の身の安全を確かめたり、さらにはデモ隊が引返したので、副官としてその行先を見届ける考えで、放送車が電柱に衝突して止まるとともに隊員に対し、『俺につゞいて来い』と言って西方へ引返した、引返すとき左右の人家の軒下には相当群衆が見ており、ばらばらに散っているデモ隊員と認められるものもいたので、これを追って行ったところ北側の群衆の中にもぐり込んで捕えることができず、一発か二発火焔瓶を投げ、石も投げて攻撃して来た。デモ隊員を捕えることができないので、今度は一番デモ隊の中心と見られる旗を持って居る者、プラカードを持っている者を追跡して行った、そのうち空地附近に乗用車が二台駐めてあり、東側の自動車に火焔瓶の攻撃があり、その附近にはデモに参加したと思われる人が、正確にはわからないが、三、四〇名ないし五〇名位いて、プラカード、赤旗その他のものをかざす恰好で気勢をあげていた、その集団は歩道でなく車道の自動車の後方を取巻くような恰好で喚声をあげていたので、この自動車もわれわれの自動車と同様にやられるという心配を持った、その時は私個人だけで、部隊との連繋が切れていたので拳銃を使用するほか、そういう気勢を防止できないと考え、丁度そこの南が空地になっていてデモ隊と群衆がわかれており、デモ隊全部を暴徒と考えていたので、三、四米離れた市電の軌道附近から、西南の方向に、立ったまゝの姿勢で、連続して五発拳銃を発射した、最初の二、三発のときには全然手応えなく、四発目、五発目の時になって急にぱーっと散り出した、拳銃を発射する頃同人自身にも火焔瓶や石が投げられ、石が肩のところに当って負傷した」旨の部分があり、原審第一四〇回公調中の同証人の供述記載中には「放送車を降りて西の方に引返しているとき、車道上にはなお相当の人がおり、一般群衆は歩道の方で見物していたから、車道にいるのはデモ隊員だと判断し、捕えようとすると、北側や南側の群衆の中に逃込んでしまって捕えることができず、北へ追って行った時一回、南へ追って行った時三回位どこからともなく投石されたが当りはしなかった、清水は、空地北側附近より、車道南側でわあというような喚声をあげながら自動車を取巻いていた群衆に向って接近して行った、そのとき同人に向って石ころみたいなものを投げつけた者もあった、同人が拳銃を撃ったのは、後ろの方の自動車の中に火焔瓶が投込まれてパッと火が出たので、これはとても同人一人では阻止することができないし、自動車が燃上り、さらに自動車のガソリンの方にも引火して大きな危険の生じることも考えられ、空地と道路との境にある木製の看板に自動車の火が燃移ってしまうというような危険もあり、事態は極めて険悪で、戦争みたいな状態になっておったので、拳銃を使うほかにそうした犯罪を防止する手段はないというので使用する決意をして、第一弾は後部の車輛から火がパッと燃上ったと同時に撃った」旨の部分がある。のみならず乗用車が発火した前後の空地附近の群衆の動静について、伊藤栄の27・8・5付検調中には、放送車の発火によって崩れ始めた「デモ隊は、先頭の一部が南側の歩道や、民家の軒下や第一銀行大須支店東側に在る空地附近にも逃げ込んで喚声や罵声を挙げたり、路上や南側車道に在った乗用車二台に火焔瓶を投げつけるのが見えましたが、其の中に二台の乗用車が燃え出し、……其の頃に東方の警察放送車附近と思ひましたが警官の拳銃の発射音が数発聞えました、と同時に南側の空地附近に居たデモ隊員が南の道路の方へ逃げて行くのが見えたので、其の方面へ向って発射したと思ひました、」との供述記載があり、また原審第七一七回公調中の証人加藤弘の供述記載中には、「放送車の発火によって、デモ隊は先頭の方から崩れてきたけれども、後ろの方が前進してくるため、同人自身は進むことも退くこともできず、だいたい同じ場所(空地北側車道に西向に駐めてあった乗用車の右即ち北側)にいた、すると先頭の方の者も後ろにさがれないため、南側の歩道へ上って行ったようで、その連中かと思うが、その辺にいた警察官らしい人達に対して空地のあたりから火焔瓶を二、三本投げたのを見た」旨の部分があり、これらの供述記載によれば、乗用車発火前後頃、附近の空地の中や路上には、デモ隊の先頭の方から後退して来たとみられるデモ隊員ら多数が、群って喚声や罵声を挙げたり、岩井通りの車道上に火焔瓶を投げつけたりなどしていたことが認められ、前掲清水栄の供述記載中乗用車の附近にデモ隊に参加したとみられる多衆が群り気勢を挙げていた旨の部分の信用できることを裏付けているのである。そして以上の証拠を中心として、その他原判決が第二章、第二節、第一に挙げている証拠をも参酌して検討すると、放送車より下車した清水栄は、さきに下車した部下の安否を気遣うとともに、暴徒の逮捕及びデモ隊の動向を確認するため単身西に向い、途中岩井通りの両側より数回にわたって投石を受けながら空地北側車道附近まで引返して来たところ、南側車道から歩道にかけて、約五〇名位のデモ隊員とみられる群衆が、空地前の車道脇に駐めてあった後藤信一外一名管理にかかる二台の乗用車を取囲むような状態で群り、中にはプラカードや赤旗を持った者もいて、それらをかざしながら盛んに気勢を挙げ、ことに東側の乗用車では、周囲の群衆の中から投げられたと思われる火焔瓶が現に燃えており、直ちに群衆を解散させなければ、その中の暴徒が右二台の乗用車にさらに火焔瓶を投げつけて焼毀する等の行為の出ることが確実とみられたので、清水栄はそのような兇悪な犯行が引き続き行われるのを防止するため、群衆を解散させようとして北側軌道上まで進み出たが、群衆中の暴徒は同人に対しても盛んに投石して抵抗し、うち一個が同人に当って全治五日を要する右前胸部挫傷を負ったうえ、そのまま職務を遂行しようとすればさらに石や火焔瓶を投げつけられて生命身体に重大な危害を受けるのを避けることができず、しかも乗用車の周囲に群っていた多衆も右のような暴行に同調し、それらの群衆を解散させて、乗用車に対する攻撃等犯行の続発を阻止しようとする清水栄の公務の執行に対し集団の力で抵抗することは間違いないとみられたため、自己の生命身体の安全を確保しながらそのような抵抗を抑止し、群衆を解散させるには、拳銃を使用する以外に方法がない状態であったこと、清水栄は右のような事態に直面して、石や火焔瓶の投擲による攻撃から自己の生命身体や二台の乗用車を防衛し、かつ公務の執行としての解散措置に対する抵抗を抑止するため、止むを得ず乗用車附近の暴徒及びその同調者の集団の中心となって気勢を挙げていた部分に向って拳銃を五回連続して発射した結果暴徒等は漸く西方や空地東の路地等に逃げ散ったこと、が認められるのであって、この認定に反する所論のような事実は認められない。所論は、清水の拳銃発射の時は未だ乗用車に火は出ていなかったというのであるが、その時既に火の出ていたことは、控訴趣意(総論)第五点、三、第十一の論旨に対する判断で説示したとおりであり、所論の指摘する原審第二五八回公調中の証人久徳高文の供述記載、同第二六二回公調中の同新村徹の供述記載、同第七九回公調中の同田中國臣の供述記載も右認定を左右するに足りない。また原審第一三四回公調中の証人清水栄の供述記載中には、拳銃の発射は、自己防衛のためでなかった旨の部分のあること所論のとおりであるけれども、それは危険を顧みず犯罪防止に当る警察官の責務にこだわり過ぎた結果述べられたふしがあり、むしろ拳銃発射までの経過によると、清水は前認定のとおり、同人の生命、身体を防衛することをも含めて拳銃を発射したと認めるのが相当である。右に認定したように、清水の拳銃発射は、同人の生命、身体及び他人の財産を防衛し、公務の執行に対する抵抗を抑止するため止むを得ずになされたことが認められるのみならず、さらに前掲清水栄の原審第一〇八回、第一三四回公調中の供述記載によれば、同人は暗くて火焔瓶を投げた者を確認することができなかったが、そこに群っていた者全体が暴徒と認められる状況であったので、止むなく投げた者がいると思われる群衆の中心あたりを狙い、しかも発射前射つぞと警告し、発射の効果をも確認しつつ必要な範囲で拳銃を発射したことが認められるから、発射の方法も相当であり、結局清水栄の拳銃発射は警職法七條本文、但書に該当した適法な行為ということができるから、原判決が所論の事実を認定しなかったのは正当であり、原判決に所論のような事実誤認はない。論旨は理由がない。

35  第五点、五、五「山口中隊の空地の群衆に向けての拳銃発射について」について

所論のうち(二)ないし(五)((一)は第五点、五、三、(二)、(三)の論旨と併せて判断した。)は要するに、原判決は第一章、第二節、第二において、「山口中隊は西進して大須交叉点に達し、群衆を北、西、南へ後退させたが、附近の暴徒は激しく火焔瓶、石等を投擲した。同中隊は反転東進して前記空地前西北方附近に達したところ、前記浅井忠文管理の乗用車は炎上していて、多数の暴徒は北側の歩道及び南の空地附近より同中隊に火焔瓶、石、木片等を投擲し、一部は接近して攻撃を加え、特に空地よりの攻撃は熾烈を極わめたため、同中隊は道路中央で進退に窮し、警部補酒井元一が通院加療約一ヶ月を要する左側下口唇挫創、治癒後知覚神経麻痺の傷害を受けたほか、十一名が三日乃至二週間を要する傷害を受け、二十一名の衣服が損傷するに至ったので、中隊長山口康治は午後十時二十分頃、部下警察職員の生命身体を護り、暴徒を制圧する目的をもって、『うつぞ』と警告を発した後拳銃の発射を命じ、山口康治、巡査部長亀垣槓、巡査山川十紀夫は各一発、同柴田孝雄は三発を、右道路上から東南方の空地に向け、火焔瓶、石等を投擲していた者の足もとをねらって発射した」と認定している。

しかし(1)山口中隊は、一旦大須交差点まで西進し、同所で群衆を西、南、北に追出し、それから約七〇米東に引返して拳銃を発射しているのであるから、拳銃発射地点より西の大須交差点に至る約七〇米間の岩井通り上には群衆はいなくなり、その代りに、山口中隊に相接して西進し、西濃トラック運輸株式会社附近より岩井通り北側歩道附近の群衆を制圧しながら大須交差点まで進んだ浅井中隊がおり、また発射地点より東の裏門前町交差点に至る岩井通り上では、山口中隊自らが西進するとき道路から群衆を追い払ったうえ、その後も同中隊に続いて西進した浅井中隊、神田中隊、山田(喜)中隊が群衆を制圧しており、山口中隊が空地に向けて拳銃を発射したときには、なお神田、山田(喜)の両中隊がいたとみられるから、その頃裏門前町交差点より大須交差点に至る約一八〇米の岩井通り上は鉄兜をかぶり、拳銃、警杖で身を固めた武装部隊三七〇ないし三八〇名がひしめき合い、群衆を制圧しつつあったのであり、決して原判示のように、山口中隊が南北より攻撃を受け、進退に窮し、隊員の生命、身体が危険にひんするというような状況ではなかったこと、(2)警部補酒井元一外一一名が負傷し、二一名の衣服が損傷していたとしても、山口中隊は裏門前町交差点附近より強力な実力行使によってデモ隊を蹴散らしながら大須交差点に達し、その間に最も激しい抵抗を受けているのであるから、右の負傷等はむしろその時に受けたとみるべきであり、山口中隊が空地に向けて拳銃を発射するときに受けたと認めることのできる証拠はないこと、(3)、生命、身体を護るため拳銃を発射したのであれば、現に被害を受けている者が発射しているはずであるのに、拳銃を発射した警官のうち被害を受けたのは亀垣巡査部長のみで、それも足に石が当ったという程度に過ぎず、他の者は何等負傷していない。このことは拳銃を発射する直前に山口中隊に対し生命、身体を護らなければならないような攻撃の行われていなかったことをうかがわせること、(4)拳銃発射当時、南の空地内より熾烈な攻撃が行われていたのであれば、山口中隊長が隊員を南西から北東にかけて横に展開させておくはずがないのに、展開させていたことは、空地よりの攻撃が熾烈でなかったことを裏書しているとみられること、以上の事実を総合すると、山口中隊が拳銃を発射する直前、同中隊に対し空地附近より石、火焔瓶、木片を投げつける等の熾烈な攻撃が加えられて道路中央で退進に窮したり、隊員の警察官が続々と負傷し、その生命身体を護るため拳銃の発射を必要とする状況は全くなかったことが明らかである。また原判決は、山口警部らが暴徒の足もとをねらって拳銃を発射したと認定しているけれども、同人らは銃身を水平に構え、上半身に向けて発射している。のみならず当時空地には、乗用車の火を消していた者や、警官隊の制圧行動に追われて逃込んだ者らが集って、各自がばらばらに勝手な行動をしていたのであり、このような人達に対し無差別的に拳銃を撃ち込んだのである。このように山口中隊の空地に向けての拳銃発射は警職法七條、名古屋市警察吏員けん銃使用及び取扱規程四條に違反した違法なものであるのに、その旨認定せず、原判示のとおり認定した原判決には事実誤認がある、というのである。

よって検討するに、大須交差点より反転東進し、空地前西北方に達した山口中隊に対し多数の暴徒が北側の歩道及び南側の空地附近より火焔瓶、石、木片等を投擲し、一部は接近して攻撃を加え、特に空地よりの攻撃が熾烈を極めたことは、控訴趣意(総論)第五点、四、第三、一の論旨に対する判断で説示したとおりであり、さらに、右のような熾烈な攻撃によって山口中隊は道路中央で進退に窮し、隊員の生命、身体が危険にひんしたことも、右説示の際引用した証拠によってこれを認めるのに十分である。なお所論にかんがみ、検討するに、原判決が第二章、第二節、二、四に挙げている証拠によると、放送車発火後間もなく春日神社に待機していた早川大隊の山口、浅井、神田、山田(喜)の各中隊が相次いで西に向って出動し、途中裏門前町交差点附近から車道上の暴徒及び群衆を歩道に押上げながら西進したこと、山口中隊が拳銃を発射した当時浅井中隊が、所論のように、大須交差点近くの岩井通り北側車道附近に達しており、神田、山田(喜)各中隊も大須交差点から裏門前町交差点の間の岩井通り上に達していて暴徒や群衆を解散させる活動をしていたことはほぼ間違いない。しかし記録を調べてみても、所論のように山口中隊の拳銃発射当時これらの警官隊が裏門前町交差点から大須交差点に至る岩井通り上を制圧していたとは認められない。むしろ原審第一七五回公調中の証人山口康治の供述記載中の「(問)あなたが、こういう地点に来たとき、今言われた群衆の様子、あるいはデモ隊員の様子をもう少し具体的に言ってください。(答)大きい声でわめいておるときに石がどんどんと投げられてくる、火焔瓶はどんどんと抛ってくるということで、それ以上我々が前進するに非常に危険を感じておったと同時に部隊も危くなってきたという状態で、しかしそのまゝ放っておいたならばこちらも沢山被害が出るという状態を考えておった、非常に強い攻撃を受けておったということです。(問)そういう群衆とかいうものはどの辺に、どんな恰好でおったんですか。(答)南側の空地附近から東のほうにも、西のほうにもおったと思います。」との部分、同第二七五回公調中の証人亀垣槓の供述記載中の「(問)証人達の部隊が燃えている自動車のところにおった際に取りかこまれると言って群衆はどの位置におったんですか。(答)四方におりました、多いか少ないかだけで全部四方におりました。(問)南側も北側も東側も西側もですか。(答)おったように思います。(問)証人達に近接してですか。(答)先程言ったように大きく取りかこまれて……」との部分、同第二八三回公調中の証人柴田孝雄の供述記載中の「行くとすぐくるっと囲まれたもんで、前後左右というような状態で、どこからともなく火焔瓶やぼうきれ、石などが飛んで来たような記憶が残ってますね」との部分のほか前掲第二章、第二節、四に挙げている証拠によると、岩井通り上にいた暴徒や群衆は、警官隊の解散措置に会うと、岩井通りを西や東に逃げ、あるいは一旦は南や北に通じる路地や附近の空地、民家の庭先等に逃込むものの、警官隊が引揚げるとすぐまた引返して集団となり、警官隊に火焔瓶や石を投げつける等の暴行を繰返して、執ように抵抗していることが認められるのであって、山口中隊が拳銃を発射する前後頃警官隊は未だ岩井通りを制圧し切っておらず、所論のように山口中隊が熾烈な攻撃を受けても、道路中央で進退に窮したり、隊員の生命、身体が危険に陥入ったりすることのない状態にあったとは認められない。また山口中隊の警部補酒井元一外一一名の負傷についても、原判決が認定しているように、山口中隊は拳銃発射地点で原判示のような攻撃を受けた以外に、裏門前町交差点附近で道路一杯に群って喚声をあげていた暴徒及び群衆を突切り、これらを制圧しながら大須交差点に達するまでに、空地附近で南及び西より火焔瓶、石、瓦等を投擲され、さらに大須交差点においても暴徒より激しく火焔瓶、石等を投擲されていること所論のとおりである。しかし最も激しい攻撃を受けたのは拳銃発射地点附近においてであって、山口康治作成の「けん銃使用状況報告」書中には「因に当時の状況を別添図面にて説明すれば吾々救援隊は上前津を出発し、放送車の炎上するA地点に午后十時十分頃到着し、附近の暴徒をB地点迄圧し、南向の横隊となり、東南方向に圧縮し、十分位にてC地点に対したるに、暴徒の尖鋭分子約五十名位は、F地点の空地に侵入、その一帯を拠点とし、D、E地点にある乗用車は勿論、吾部隊に対し頑強に反撃し、附近は一帯火の海と化し、石其の他の爆発物等により別添第二の如く十二名の負傷や、別添第三の如く硫酸による被服の被害者が発生し、C地点にて今や武器を使用するの外他に制圧逮捕する以外方法なく、自己防衛はもとより一般市民の生命及財産をも保護し得ざるに到り、午后十時二十分頃けん銃の使用を命じ又自からも使用したる状況なり」との部分があり、原審第二一回公調中の証人田中靖浩の供述記載中の「(問)線路の上へ集合した警官はどうしましたか。(答)隊伍を組み直そうとして隊長らしい人が号令をかけていたら、又火焔瓶が飛んで来ました、それで又崩れてしまって警官は服についた火を消したり、地上のをふみ消したりして居ました。(問)癇癪玉のはぜるような音はいつしましたか。(答)それから直ぐでした、尤も直ぐと云っても二、三分経って居りました。」との部分、野崎孝雄作成の「けん銃の使用報告」書中の「暴徒はC地点に於て之を撃退せんとしている我が部隊に対し、更に同時に数十発の火炎びん及び数十個の小石、瓦等を投げ付け、附近一帯はその為火の海と化し、我が部隊は平林部長、平岡巡査、正治巡査等は負傷し、猶も附近に於て負傷者は続出し」との部分、原審第二六四回公調中の証人柴田孝雄の供述記載中の「(問)そのピストルを撃つまでにだれかゞけがをしたとかなんとかいうことはわかったんですか。(答)具体的にはわからないですが、やられたと言ったのか、なんと言ったのか、負傷したときに出します叫び声は聞こえたですね、そういう声を聞いて、同じ隊の中でやられたなということを感じました。」との部分も、右山口康治作成の「けん銃使用状況報告」書の記載の真実性を裏付けるものであり、以上によれば山口中隊の警部補酒井元一外一一名が負傷し、二一名の被服の損傷したのが、山口中隊の拳銃発射地点附近であったと認めることができる。また負傷した酒井元一外一一名が拳銃を発射せず、負傷していない山口康治、亀垣槓、柴田孝雄、山川十紀夫が発射したこと所論のとおりであるけれども、酒井元一ら一二名は現に負傷しているのであるから、たとい同人らは拳銃を発射していなくても、同人らの身体のみならず場合によっては生命も危険に曝されていたことは明らかであるし、山口康治ら四名は負傷していないけれども、亀垣槓の足に石の当ったことは所論も認めており、前掲山口康治作成の「けん銃使用状況報告」書、川口清澄作成の27・7・8付領置調書、技師木村駿藏作成の27・7・15付鑑別結果報告書及び押収してある巡査官服夏上、下によると、山川十紀夫が相当量の火焔瓶の内容液(硫酸)を着衣に浴びていることも認められる。のみならず右山口康治の報告書によると、同人の四名は負傷した酒井元一ら一二名と同じ山口中隊の隊員として行動を共にしていたのであるから、酒井元一らの生命、身体に危害の生ずる危険があった以上山口康治ら四名の生命身体にも危害の生ずる危険があったとみるべきであり、同人ら四名が負傷していないからといって、所論のように、山口中隊が拳銃を発射する直前、同中隊に対し、隊員の生命、身体を防護しなければならないような攻撃が加わえられていなかったと認めることはできない。また≪証拠省略≫によると、山口中隊は大須交差点で反転東進したときから横隊になり、空地附近の暴徒を制圧、解散させようとしていたことが認められる。そのような隊形が空地附近の暴徒から攻撃を受け易い隊形であること所論のとおりであるけれども、反面空地附近の暴徒を制圧解散させるのに都合のよい隊形でもあるから、空地附近の暴徒を制圧、解散させようとしていた山口中隊が、その目的を達成するため、暴徒の激しい攻撃にもかかわらず横隊の隊形をとり続けることも考えられるし、激しい攻撃を受けている最中に隊形を変えることが困難であったためではないかとも考えられるから、山口中隊が拳銃発射当時横隊になっていたからといって、直ちに所論のように、空地からの攻撃が熾烈でなかったと推測することは困難である。結局、山口中隊が拳銃を発射する直前、同中隊に対し空地附近より石、火焔瓶、木片を投げつける等の熾烈な攻撃が加えられ、酒井警部補ら一二名が負傷し、隊員の生命、身体が危険な状態にあった、との原判決の認定は正当であり、所論の事実もこの認定を左右するものではない。

しかも前掲山口康治作成の「けん銃の使用状況報告」書、原審第一七一回公調、同第一七五回公調中の証人山口康治の供述記載を総合すると、前叙のような状況に直面して中隊長山口康治は、自己及び隊員の生命、身体を防護し、公務の執行に対する抵抗を抑止するため、差迫った必要があり、拳銃を使用する以外に他に方法がないと判断し、「撃つぞ」と警告を発した後、隊員に拳銃の発射を命じ、自らも火焔瓶や石を投げている者のいるあたりの空地と歩道との境を狙って拳銃弾一発を発射したことが認められるし、≪証拠省略≫によると、中隊長の発射命令を聞いた隊員の亀垣、山川が各一発、同柴田が三発、いずれも自己及び隊員の生命身体を防護し、公務の執行に対する抵抗を抑止するため必要にして、他に方法がないと判断し、火焔瓶等を投げている暴徒の足許を狙って拳銃を発射したことが認められるのであって、同人らが、所論のように、銃身を水平に構え、空地内に逃込んだ人達の上半身に向けて無差別的に拳銃を撃込んだとはとうてい認められない。当夜警察官の発射した拳銃弾が当って死亡した申聖浩、負傷した森田國雄、伊藤柳太郎、村山悟の傷の部位がいずれも上半身であったこと、所論のとおりである。しかし右の四名のうち森田国男、村山悟に当った銃弾が清水栄の拳銃から発射されたものであること、及び伊藤柳太郎に当った銃弾は、清水栄もしくは山口中隊が原判示のように西南方もしくは東南方の空地に向けて発射したのが跳弾となったものであることは、第五点、五、三の論旨に対する判断で説示したとおりであり、申聖浩に当った銃弾が清水栄の拳銃から発射されたものであることは、後に第五点、五、七の論旨に対する判断で説示するとおりであるから、所論の事実も右認定を左右するものではない。そして右に認定した事実によれば、山口康治ら四名の拳銃発射は、警職法七條本文、但書の要件に該当した適法なものといえるから、原判決が、判示のとおり認定したのは相当であり、所論のとおり認定しなかったからといって原判決に事実誤認はない。論旨は理由がない。

36  第五点、五、六「警杖等による暴行について」について

所論は要するに、当夜警官隊は、実力行使い当って単に拳銃を使用しただけでなく、デモ隊や、デモ隊分散後デモ参加者、見物人、通行人等が集ってできた岩井通り各所の人々の群に対し、警杖を構えて襲いかゝり、誰彼のみさかいなく殴りつけ、突倒し、あるいはこじ回すなどし、はては平穏に検問所を通ろうとした一般通行人や、身を防ぐことすらできない逮捕者に対してまで警杖で殴りつける等の暴行を加え、川本金一、高津満、被告人宮村治、同稲森春雄外多数の者に傷を負わせ、高津満の如きは遂に死亡してしまったのである。これは警杖を武器として使用したものであるところ、武器の使用については、警職法七條に規定する限度内でしか許されない。のみならず警杖を本来の用法に従って使用する場合でも、名古屋市警察吏員警棒、警じよう等使用及び取扱規程四條一項により、必要の限度を超えないようにしなければならないのである。右に述べた警杖の使用は、明らかに法七條、規程四條で許されている限度を超え、警察比例の原則、警察責任の原則に照らしても違法であるのに、その旨認定しなかった原判決には、事実誤認がある、というのである。

よって検討するに、警棒及び警杖は、本来自己防護あるいは警告、指示、制止等のための用具として製作されたもので、人を殺傷するためのものではないから、本来の用法に従って使用する限り、警職法七條にいう武器の使用に当らないけれども、相手を激しく殴打したり、突いたりするのに使用するときは、相手方を殺傷する危険があるから、武器の使用に準じて同條に従ってのみ使用されるべきであり、同條の要件を満たさない警杖等の使用は違法と解すべきこと所論のとおりである。そこでまず所論の指摘する川本金一外三名に対する警杖の使用について検討する。

(イ)  川本金一の負傷時の状況について、原審第二四六回公調中の証人川本金一の供述記載によると、「同人はデモ隊について大須球場を出た後大須交差点のところから北に入り、岩井通りの一本北の通りを東進して裏門前町通りとの交差点まで行ったとき、南の裏門前町交差点(裏門前町通りと岩井通りとの交差点)附近で自動車か何かゞ燃えているようだったので見に行った、交差点のところまで出てみると、少し西の方でバスのような形をした自動車が燃えており、火はだいぶん下火になっていたような気がする。岩井通りの両側歩道にはたくさんの人がおり、同人もこれら群衆の最前部に出て、かなり長い間岩井通りの様子を見ていた、そのうち警官の一隊がやって来て、警杖でつつくような恰好をして群衆を追払いかけた、それで同人も岩井通り北側歩道を東に向って逃げた、交差点をやゝ東に越えたあたりで、倒れていた自転車につまづいてうつぶせに倒れたところを何かで頭を殴られたような感じがした。すぐ起き上って逃げる途中頭から血が流れているのに気付いた、警察官に殴られた以外に負傷の原因は考えられない。」というのである。もっとも同供述記載中には、検察官より「頭を負傷した際に警察官が殴ったところは見ていないわけですね。」と尋ねられて、「はい、自分は東向いておったですから、見えないんですけど、とにかく警察官がすぐそばまできたんですから、もう警察官以外にそういう人はないと思います。」と答えている部分があり、同人は殴ったと思われる警察官の姿さえ身近に確認した形跡はないから、同人が警杖で殴られて負傷したと断定することは困難であるとしても、右供述記載によれば警察官は、逃げる途中倒れて無抵抗な川本金一の頭部を警杖で違法に殴打して傷を負わせた疑があるといわなければならない。

(ロ)  高津満の受傷時の状況について、原審第六六三回公調中の証人林正義の供述記載によると、「同人は、七月七日夜友人の高津満外二名と大須にあるビンゴホールに遊びに行っての帰途、新天地通りと万松寺通りとの交差点で警察官五〇名位が通行人を検問しているのに出会い高津が林ら三名を待たせて一〇米ほど先にいた警察官に近づき、『ぼくたち何にも関係ないから、こゝから出してもらえんか』と交渉したところ、警察官は、『こゝから出してやるから出なさい。』と許可をしておきながら、高津が交渉のなりゆきを見ていた林らの方を振向き、林ら三名を呼ぶと同時位に、背後よりいきなり同人の頭や足を警杖で殴りつけたうえ、『わあっ』と叫んで林らに向って来たので、同人は近くの洋服屋へ飛込んで逃げた、高津はその後ずっと頭が痛いとか、頭がふらふらすると言っていた、」というのであり、また高津満の弟である証人高津弘之の原審第六六五回公調中の供述記載によると、高津満は、その後も痛みを訴え続けていたが、昭和二八年一〇月二五日に外傷性脳溢血で死亡したというのであるから、林正義の右供述記載は、警察官の高津を殴ったのがいかにも唐突で、不自然なところがあり、そのまま信用できないにしても、これらの証拠によれば警察官が警杖で高津満を違法に殴打し死亡するに至らしめた疑はあるといわなければならない。

(ハ)  被告人宮村治の受傷時の状況について、≪証拠省略≫を総合すると、当夜荘司中隊の隊員として出動することとなった奥田豊は、午後一〇時二〇分頃自動車に乗って門前町通りを南下し、大須交差点を少し北に入った附近で車を降り、二、三人で隊を組み、同交差点東北角に向う途中、同交差点東寄りの車道上を交差点の東北角に向って斜に走って来る男(被告人宮村治)がおり、その背後よりこれを追っていた刑事らしい男が「おいその男を捕えろ、今火焔瓶を投げた男だ、」と呼びかけたので、走って来る男を逮捕するため、警杖を構えて接近していったが、その男の勢が余りにも強くて押返されたうえ、その男が奥田の左足の脛を二回程蹴り、胸倉を掴んで暴れる等の抵抗をしたので、警杖を使うとともに附近にいた内田、若林両警察官の応援を得、倒れた後も暴れている同人を押え込んで漸く逮捕したこと、その際同人は、療養に一週間を要する右肩胛部直径一分五厘位の擦過傷、右背部巾三分長サ八分位の擦過傷、左肩に小豆大の擦過傷二個、後頭部に大豆大の擦過傷、左上膊部に二ヶ所大豆大の擦過傷、右上膊上部大豆大の擦過傷、左頸部に巾一分長さ一寸五分位擦過傷三個、右示指第一関節上部に米粒大の擦過傷、右後頸部に腫脹あり、右足下腿前部に長さ四寸位擦過傷を負ったこと、が認められる。右の事実によれば、奥田豊外二名の警察官は、大須交差点の車道上に火焔瓶を抛って逃走しかけた被告人宮村治を逮捕しようとしたところ、暴れて抵抗したため、所携の警杖で殴打し、前叙傷害の一部を生じさせたものと認めるのが相当である。所論は前叙傷害の全部が警杖で殴打したため生じたと主張するが、傷の大部分が比較的軽い擦過傷であり、その程度の傷は同被告人が警察官三名と揉合っていた際生じた可能性があり、全部が警杖で殴打されて生じたものとは認められない。

(ニ)  被告人稲森春雄の受傷時の状況について、同被告人を逮捕した山田(喜)中隊の隊員で、原審証人小玉房男の尋調及び医師曽我敏純作成の診断書によると、小玉房男は、裏門前町交差点西南角附近に群っていた群衆の中からシャツにズボン姿の男(同被告人)が二、三歩前に進み出て、岩井通り車道北側にいた山田(喜)中隊の方に火焔瓶一本を投げたのを目撃し、同僚の警察官一〇ないし二〇名位と逮捕に赴いたところ、同被告人は、附近の群衆とともに裏門前町通りを南に逃げたので、同被告人が腰に手拭をぶらさげていたのを目印に、さらにその後を追って約二、三〇米南に行ってみると、既に同僚の警察官三、四名が先行していて、同所で同被告人やその逮捕を妨げようとした群衆の一部と立ったまま入乱れて乱斗しており、そのうち同被告人が警察官に肩を掴まれて路上に座込んだのを見て放火罪の現行犯人として逮捕したこと、その時同被告人が傷を負っていたので、医師の診察を受けさせたところ、全治約一〇日間を要する左上膊部皮膚裂傷(長さ三糎、巾一、五糎傷口開し少量出血)、右前膊部拇指頭大打撲擦過傷二個所、左前胸部李肋部に拇指頭大打撲擦過傷(疼痛を訴え圧痛甚だし)、右乳房部に小指頭大打撲擦過傷、前額部左上方に拇指頭大の打撲症で、診察した医師はこれらの傷が鈍体による殴打によって生じたと推定したことが認められる。しかも当夜出動した警察官がいずれも警杖を携帯していたことを考慮すると、三、四名の警察官は、警官隊に向って火焔瓶を投げたうえ逃走しかけた被告人稲森春雄を逮捕しようとしたところ、暴れて抵抗したため、所携の警杖で殴打して、前叙傷害の少くとも一部を負わせたものと認めるのが相当であり、右小玉房男の尋調の供述記載中「警杖でポンポン殴ったということはないと思います」旨の部分、原審第四六二回、第七四九回各公調中の被告人稲森春雄の供述記載中、逮捕された後電車通りのところまで連れて行かれ、そこで十何人の警官に踏んだり蹴ったりされた旨の部分はいずれも信用できず、同被告人が、所論のように、逮捕されて中村署に運ばれ、しばらくして漸く気付いた位、激しく警杖で殴打されたとまでは認められない。

所論の指摘する川本金一外三名に対する警杖使用の態様は以上認定したとおりであって、そのうち(ハ)の被告人宮村治、(ニ)の被告人稲森春雄の場合はいずれも、同被告人らが騒擾の率先助勢にみられる罪を犯して逃亡しかけたのを追跡し、逮捕しようとした警察官の職務の執行に抵抗し、特に被告人稲森の場合は、第三者も同被告人を逃がそうとして警察官に抵抗したため、同被告人らを逮捕するには他に方法がなかったということができるから、同被告人らに対する警杖の使用は、適法であったと認めるのが相当である。また(イ)の川本金一、(ロ)の高津満に対する警杖の使用が違法であった疑のあること前叙のとおりであるけれども、右の違法行為があったからといって、直ちに所論のように当夜出動した警察官の多くが警杖を武器として違法に使用していたとまで推認することはできないし、ましてそのことが本件騒擾の成否に影響を及ぼすものでないことは多言を要しない。

さらに所論は、所論に沿う証拠として、証人板垣芳雄、同藤田亀、同田中國臣の原審公判における各供述記載及び写真一枚(証三四五号)を援用する。しかし原審第二五一回公調中の証人板垣芳雄の供述記載中論旨に指摘する箇所というのは「(問)追っぱらうときにどういうかっこうをしてやって来て追ったんですか。(答)棒を持って今にもとびかゝるようにして。(問)棒を振り回してですか。(答)いやそこまではしません、棒を振りかざしてやって来ておったです。」との問答の末尾の部分で、前の部分と併せて読めばとうてい所論に沿うものとはいえないし、原審第二五三回公調中の証人藤田亀の供述記載の信用できないことは、既に第五点、三、第八の論旨に対する判断の際説示したとおりであり、前掲第七四九回公調中の被告人稲森春雄の供述記載によると証三四五号の写真は、連行される途中の同被告人の姿を写したものであることが認められるから、その写真が、所論のように所論で名前を挙げている以外に負傷者のいたことを裏付けるものとはいえない。さらに原審第七九回公調中の証人田中國臣の供述記載中には論旨指摘のとおりの部分があり、たまたま裏門前町交差点附近で情報を集めていた私服の警察官田中國臣が、その附近から岩井通り両側の群衆を西に向って整理し始めた警察官に警杖で二回殴られた事実が認められる。しかし同供述記載によっても、暴徒や群衆を解散させるに当り警官隊が所論のように警杖を必要以上に武器として使用した事実まで認めることはできない。むしろ原審第八八回公調中の証人神田隆次の供述記載、同第二六九回公調中の証人福田武二郎の供述記載によると、右の群衆整理をした警察官というのは神田中隊の隊員と認められるところ、同中隊の第一小隊長であった福田武二郎の供述記載によると、岩井通り両側の群衆の中には、後ろの方に隠れて石や火焔瓶を投げたりする者がいたが、前の方の群衆はおとなしく、警察官が三人一組となり警杖を横に構えて押していくだけでさがっていったことが認められるから、田中國臣が警杖で殴られたのはむしろ例外的な現象であったとみられ、田中國臣の右供述記載も所論の事実を認めさせるものではない。

その他原審及び当審で取調べた証拠の中には、警杖の使用について行過のあったことをうかがわせるものもあるけれども、警官隊による暴徒や群衆の排除行為全体を不法とするほどのものでなく、それが騒擾の成否に消長を及ぼすものでないことは第五点、三、第八の論旨に対する判断で説示したとおりであるから、原判決が所論の事実を認定しなかったのは相当であり、原判決に所論の事実誤認はない。論旨は理由がない。

37  第五点、五、七「拳銃による殺傷の結果について」について

所論は要するに、(イ)村山悟の負傷は、清水栄が、放送車発火直後に放送車の後部より附近のデモ隊列中に向けて発射した拳銃弾か、あるいはその後原判決第二節、第一認定のように、同所より西方に移動し、空地北側附近車道の軌道敷の所より、岩井通り四丁目八番地空地附近の群衆に向けて発射した拳銃弾かのいずれかによるものであり、(ロ)伊藤柳太郎の負傷は、清水栄の拳銃発射と時を接して裏門前町交差点附近から実力行使に移った山口中隊がデモ隊列を崩し、これを追い払うため、西方に向けて発射した拳銃弾によるものであり、(ハ)申聖浩の死亡と森田國男の負傷のうち、申聖浩の死亡は、岩井通り四丁目八番地空地前で、後藤信一の乗用車の火を消していた申聖浩らに対し、山口中隊より原判決第二節、第二認定のような拳銃の発射がなされたため、同人らは急いで空地の奥へ逃込みかけたが、その際同中隊の亀垣巡査部長の発射した拳銃弾が申聖浩の後頭部に当ったことによるものであり、また森田國男の負傷は、右(ロ)伊藤柳太郎と同じく、裏門前町交差点附近から実力行使に移った山口中隊が西方に向けて拳銃を発射した際、亀垣巡査部長が西方の森田方前歩道を逃げまどう群衆、デモ隊員に向けて発射した拳銃弾が当ったことによるものであり、従って清水栄は、放送車発火直後放送車附近のデモ隊列に向けて拳銃を発射し、それと時を接して、山口中隊は、裏門前町交差点附近から西進しながらデモ隊列に向って拳銃を発射したことが明らかであるのに、原判決が単に第二節、第九の一の(ハ)において、「警察官の発射した拳銃弾のため、申聖浩は頭部盲貫銃創により即死し、森田國男は左腕関節部盲貫銃創、伊藤柳太郎は左胸部貫通銃創、村山悟は左上膊左前胸部貫通銃創により、入院加療三週間乃至四十二日を要し、森田國男、伊藤柳太郎は八年後も多少の運動障害を残す傷害を受け」と認定したのみで、右のような事実を認定判示しなかったのは事実誤認に基因する理由不備であり、また原判決が、森田國男の負傷は清水栄の発射した拳銃弾によるものであり、申聖浩の死亡は山口中隊の警察官で拳銃を発射した四名の中の誰かの弾丸によるものであることしか確定できない旨判示したのは事実誤認か、採証の法則を誤った訴訟手続の法令違反である、というのである。

よって検討するに、村山悟、森田國男の負傷は、清水栄が原判示第一章、第二節、第一のとおり、空地北側軌道上より、西南方で気勢をあげていた暴徒に向けて発射した拳銃弾によるものであること、伊藤柳太郎の負傷は、清水栄の右の拳銃発射もしくは山口中隊の隊員四名が、同第二のとおり、空地西北方の岩井通り上より、東南の空地附近に向けて発射した拳銃弾のうちのいずれかによるものであるけれども、誰の発射した拳銃弾によるか確定できないことは、既に第五点、五、三、(二)、(三)及び五、五、(一)の論旨に対する判断で説示したとおりであり、また申聖浩の死亡が清水栄の発射した拳銃弾によるとみられることは後に説示するとおりであって、結局村山悟、森田國男、伊藤柳太郎、申聖浩の負傷もしくは死亡の原因が所論のとおりであった事実は認められず、従って、清水栄が放送車の発火と殆んど時を接して放送車附近のデモ隊列に向けて拳銃を発射し、続いて山口中隊が裏門前町交差点附近から西進しながらデモ隊列に向って拳銃を発射したとの所論の事実も認められない。のみならず申聖浩外三名の傷が誰の行為によって生じたかという事実は、所論によっても、せいぜい警察官の実力行使の態様を推測させる間接事実もしくは情状に関する事実に過ぎず騒擾の罪となるべき事実ではないから、原判決が第二節、第九の一の(ハ)において、申聖浩外三名の死亡もしくは負傷の事実を判示しながら、それが誰の行為によって生じたかまで判示していないからといって、原判決に理由不備の違法があるとはいえない。また事実誤認の点についても、森田國男の負傷が清水栄の発射した拳銃弾によるものであること前叙のとおりであり、森田國男の負傷の原因についての原判決の認定は正当である。そこで申聖浩の死亡の原因について、検討するに、まず(イ)当審鑑定人松本弘之作成の鑑定書、当審第六三回公判における証人松本弘之の証言によると、申聖浩の体内から取出された証第一号の拳銃弾は清水栄の拳銃から発射されたものと認められる、というのである。(ロ)同人の被弾した場所について直接これを認定する資料は見当らない。所論は後藤信一の乗用車の火を消していた申聖浩が、山口中隊の拳銃発射にあい、空地の中へ五、六歩逃込んだところを背後より拳銃弾を撃込まれて死亡した、と主張し、原審第七二三回公調中の被告人趙國來の供述記載を援用しているけれども、同供述記載中には「同被告人ら五、六名で西側の乗用車(浅井忠文管理のもの)の火を消していたところ、東の方から来た一五、六名の警察官が、同被告人らの方に向ってピストルを撃ったので、空地の中へ逃げて入る途中、そのうちの一人が、空地に入って五、六歩も行かないとき、岩みたいな石ころがあって、そこで転んだ、それが誰であったかは知らない、後日空地のところで人が撃たれて死んだ、ということを聞き、あのとき倒れた人がその人ではなかったかと思った、」という趣旨の記載があるだけであり、原審第四五六回公調中の同被告人の供述記載にも、所論に沿う部分は見当らない。ただ林學の検調、当審第五三回公調中の証人山田公平、同第五八回公調中の証人加藤昭治の各証言を総合すると、申聖浩は空地東側の路地を六、七〇米南に入った道路西側にうつぶせに倒れていたこと、が認められるし、また原審第三二三回公調中の証人古田莞爾の供述記載によると、申聖浩の傷の状態からみて、殆んど即死といってよく、被弾後意識的には歩行していないことが認められるので、同人が被弾した場所もほぼその附近であったと推認されること、(ハ)右古田莞爾の供述記載によれば、傷は後頭上部の右側から左側頭にかけての盲貫銃創で、遠射によって生じたとみられること、(ニ)清水栄の拳銃発射は、空地北側軌道上から西南方に向けてであったのに対し、山口中隊の拳銃発射は、空地西北方の岩井通り車道中央附近より東南方のか、空地に向けてであって、菊家哲助外二名作成の検証調書によって認められる附近の地形や障碍物を考慮すると、清水栄の発射した拳銃弾の当った可能性の方が大きいこと、以上の点を総合して考えるとき、申聖浩に当った銃弾は清水の拳銃から発射されたものと認めるのが相当である。原審鑑定人大野龍男作成の鑑定書、原審証人大野龍男の尋調によると、申聖浩の体内から取出された証第一号の拳銃弾は亀垣槓の拳銃から発射されたものである、というのであるが、右大野龍男の尋調及び原審証人早崎淳の尋調によると、大野龍男は弾丸鑑定に当って一般的にはそれ程重視できない綫底痕の傷を重視しているのではないかと思われるふしがあり、銃器の発射痕鑑定に専従した期間も鑑定を行った昭和二八年四月当時には、まだ七ヶ月程度で松本鑑定人の一二年以上に較べて短いことを考慮すると右認定を左右するに足りない。また、森田國男のほか、申聖浩も清水栄の発射した拳銃弾に当ったと認定した場合、証第一号と証第四六四号の拳銃弾が各別の拳銃から発射されたとの結論だった旨の前掲早崎淳の尋調の記載と矛盾することになるけれども、早崎淳の鑑定の結果についての記憶がそれ程確かでないことは同人自身も認めているところであり、右認定を左右するに足りない。ところで申聖浩は、清水栄の発射した拳銃弾に当ったこと右に述べたとおりであるから、原判決が、同人が山口中隊の隊員で拳銃を発射した四名中の誰かの拳銃弾に当ったと認定したのは誤っていることになるけれども、単なる間接事実もしくは情状に関する事実の誤認に過ぎず、判決に影響を及ぼすこと明らかとはいえないから、原判決破棄の理由とはならない。論旨は結局理由ないことに帰する。

38  第五点、六「東税務署に対する攻撃」について

所論は要するに、原判決は、被告人安俊鎬らの東税務署に対する放火未遂被告事件につき、「同署の建物の外側は防火構造になっており、窓にはすべて金網を張りめぐらしてあって、外から火焔瓶を投げつけても建物の内部には入らない状態になっており、外に落ちた瓶から火を発したとしても、火焔瓶の性能から見て建物の壁に燃え移る可能性がないので、建物の焼燬が絶対的に不能であるから、同被告人らの行為は不能犯である」との原審弁護人の刑訴法三三五条二項の主張に対して、「同署の建物の窓に金網が張ってあっても、これを破って火焔瓶が屋内に投入されることは十分に可能であり、屋内に投入されれば、木造建物であるため焼燬の結果を生ずる」として、右主張を却けたのは、判決に影響を及ぼすべき事実誤認である、というのである。

しかしながら、司法警察員松村金平作成の実況見分調書によれば、同署は木造二階建で、外側は防火構造になっており、窓に金網は張られているけれども、西側(正面に向って右側)の硝子窓に張ってある金網は右上角が外れて垂下っていて、その内側の窓硝子六枚が破損し、その破片が屋内に散乱し、屋外の右窓下には火焔瓶が転がっているので、右金網が垂下ったことも、窓硝子の破損も、火焔瓶の投擲によるものと認められるから、金網が張ってあっても、窓硝子を破って火焔瓶を屋内に投入することは十分可能であり、屋内に投入されれば木造建物であるから焼燬の結果を生ずることもまた十分可能であると考えられる。これと同旨の認定の下に、原審弁護人の前記主張を却けた原判決の判断は正当であって、事実誤認の違法は存せず、論旨は理由がない。

Ⅱ  弁護人の控訴趣意書(総論)補説について

所論は要するに、原判決は、第一章、第二節、第十一「結語」において、「以上の次第で、本件は多衆集合して暴行脅迫をなした結果、初めに火焔瓶が投擲された午後十時五分乃至十分頃より、警官隊の前記警備活動と、各部隊が騒擾罪を適用する旨警備本部より通達を受けてデモに参加した者全員の検挙に乗り出したため、諸所に集合していた暴徒が漸く解散して、騒ぎがほぼ静まりかけた同十一時三十分頃までの間、西は伏見通りより東は上前津交差点に至る約六百七十米の岩井通りと、その北約百米、南約二百米の一帯の地域にわたり、公共の静謐を害し、以て騒擾をしたものである」と認定しているが、本件は、帆足計、宮腰喜助の両名を迎えて名古屋市及び愛知県下各地から集まった労働者、学生、市民等が七・七歓迎大会を催した後、日中貿易の促進、朝鮮戦争の即時停止、その他国民の諸権利と生活を守る諸要求をかかげ、またその前日、右両名を名古屋駅頭に迎えて、広小路通りを集団行進したのを不当に弾圧したことに抗議するために、大須球場を出て岩井通りに集団示威行進を展開したのに対し、市警と名地検とが共謀して計画的に不法な弾圧を加えて「名実共に日本一の事件」に仕立て上げたものである。原判決がこのことを無視して、前述の如く本件について騒擾罪を認定したのは事実誤認も甚しい、というのである。

しかしながら本件が市警と名地検の共謀による不法な弾圧によって仕立て上げられたものでないことは、弁護人の控訴趣意(総論)第五点、三、第六の論旨に対する判断において説示したとおりである。なお弁護人は右控訴理由の詳細について、原審における弁護人天野末治、同伊藤泰方、原審特別弁護人浅井美雄の各弁論を援用しているけれども、刑訴規則二四〇条によれば、控訴の理由は控訴趣意書自体に簡潔に明示すべきであり、原審における弁護人の弁論を援用し主張することは許されないと解すべきであるから、右主張は不適法であり、これについては判断を加えない(最高裁、昭和三五年四月一九日決定、集一四巻、六号、六八五頁参照)。結局論旨は理由がない。

Ⅲ  弁護人の控訴趣意各論に対する判断

1  被告人清水清、同渡邊鑛二、同芝野一三、同李寛承、同崔秉祚、同閔南採、同金泰杏、同永田末男、同加藤和夫について

(1)第一「はじめに」第二「原判決における『計画』の変更」第三「原判決における事実の創造」について、

所論は要するに、原判決は、その第一章、第一節、第二款「被告人等の計画、準備」において、「七・七歓迎大会後デモを行ない、中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃することを計画し、準備した」旨認定したが、デモ隊は現実には中署、アメリカ村へ行かなかったので、原判決は右計画とデモ隊の客観的行動との間の矛盾を解消し、両者をつなぎ合わせようとして、第一章、第一節、第四款、第二「デモ隊の目的変更の指令とデモ隊員の意識」、及び第四節「各被告人の行為」、第一「騒擾の首魁」、一、(4)、三、(3)、四、(3)、五、(3)、七、(5)(以上昭和四四年一一月一一日宣告のもの)、第四節、第一、(5)(被告人閔南採について、昭和四四年一一月二五日宣告のもの)、第四節、第一、(7)(被告人金泰杏について、昭和四四年一二月二日宣告のもの)において、「被告人永田末男は市警察の警備が厳重であると判断した結果、デモ隊が球場外へ出て行くと、無届デモであるから、警官隊により解散措置を受け、これに対し多数の火焔瓶を所持するデモ隊員が火焔瓶を使用することを予測しながら、被告人芝野一三に対しデモを上前津方面に向わせることを指令し、同被告人はこれを現地指導部で被告人金泰杏、同閔南採、同崔秉祚、同李寛承等に伝え、同被告人等は協議の上、デモを上前津に向わせ、警察の解散措置を受ければ火焔瓶を使用することを決定して、下部に指令した」旨認定しているけれども、デモの目的変更に関する原判決の右認定は事実を歪曲創造したもので誤である、というのである。

しかしながら右主張が理由がないことは、弁護人の控訴趣意(総論)第五点、一、第二、二の論旨に対する判断において説示したとおりである。

(2)  第四「その他の被告人の行為」一、「被告人清水清」について

所論は要するに、原判決は、同被告人の行為に関して、「(注昭和二七年)七月七日は、大須球場内三塁側スタンドの現地指導部附近に位置し、帆足計の演説の頃、被告人山田順造に対し、『本日は政治デモに変更する、コースは上前津を経て金山に行く』旨指示し」た旨認定している(第一章、第四節、第一、一、(4))。すなわち被告人清水清の、この時点以後のデモについての認識は、通常のデモ行進を行なう以外の何者でもないことは、原判決の右判示自体から明らかである。そこには「共同暴行脅迫意思」につながる如何なる要素もあり得ない。同被告人については、その後の行為としては、ただデモ隊列の側方又は先頭附近を行進したという事実が認定されているだけであるから、結局同被告人の行為は、デモ行進の目的を以てデモ行進をしたということに帰着する。従って同被告人については、他の点を論ずるまでもなく、責任要素としての故意を欠くことは明らかであり、これに対し有罪を宣告した原判決は、理由不備又は理由のくいちがい、法令適用の誤を犯したものであり、破棄を免れない、というのである。

しかしながら、原判決の挙示する証拠によれば、被告人清水清は、原判決第一章、第四節、第一、一の(1)ないし(4)に認定の如く、昭和二七年七月七日の大須球場における帆足計、宮腰喜助歓迎報告大会後、デモを行なって中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃すること等の協議決定に、市V軍事委員として参与し、本件当日の同年同月七日夜は大須球場において、被告人山田順造に対し「本日は政治デモに変更する、コースは上前津を経て金山に行く」旨指示し、以て本件騒擾を首唱画策して、その首魁となったものであることを認めるに十分である。

この場合、原判決第一章、第一節、第四款、第二に認定の如く、本件デモの目的変更の指令が為された結果(前記原判示の如く、被告人清水清は、被告人山田順造に対し、「本日は政治デモに変更する、コースは上前津を経て金山に行く」旨指示して、本件デモの目的変更の指令にも関与している)、本件騒擾の様相が被告人清水等が予め謀議した内容とは異なったものとなったことは、同被告人についての、首魁としての騒擾罪の成立を何ら妨げるものではない。右にいわゆる「政治デモ」とは、所論の如く単に「通常のデモ行進を行う」ことではなくて、中署、アメリカ村を火焔瓶等で攻撃するという純軍事行動たる当初のデモ計画を、「行先を上前津方面とし、警察官より解散措置を受ければ火焔瓶を投げるとの認識の下でのデモ」(原判決第一章、第一節、第四款、第二の二参照)、すなわち少くとも未必の共同暴行脅迫意思を伴ったデモに変更したものに過ぎないことは、控訴趣意(総論)第五点、一、第二、二の論旨に対する判断(一)において詳説したとおりである。

なお所論は原判決の挙示する各被告人の検調は、いずれも証拠能力がない旨主張するけれども、右主張が理由がないことは控訴趣意(総論)第二点、一の第一の論旨について判断したとおりである。

結局原判決には所論の如き理由不備その他の違法はなく、論旨は採用できない。

(3)第四、二、「被告人渡辺鉱二」について所論は要するに、原判決は被告人渡辺鉱二について、その第一章、第四節、第一の二の(5)において、「(注、原判決第一章、第一節、第二款)第七の三認定の通り、七月六日の名大嚶鳴寮での会合で被告人岩田弘等数名に、大会後のデモは七月六日の広小路デモの弾圧に対する中署への抗議デモであること等の指示を与えると共に、中署を攻撃する方法等につき協議決定をし」た旨認定しているけれども、原判決の挙示する関係証拠の内、特に被告人杉浦正康の27・11・6付検調は証明力に乏しく、その他の証拠を総合しても右原判示事実を認めるに足りない。結局右原判示第七の三において認定された、被告人渡辺が七月六日の名大嚶鳴寮での会合で、被告人岩田弘等に指示したという(1)七・七歓迎大会後のデモの目的は、七月六日の広小路デモ弾圧に対する中署への抗議デモである、(2)このデモの軍事的意義は、大衆に自分達の要求を実現する為には警察官を排除しなければならず、それには武器を持たねばならないということを理解させる点にある、(3)警察官の棍棒に対してはプラカードで戦い、不利になれば火焔瓶を投げ、警察官がピストルを発射すれば手榴弾数個を投げる、旨の指示事項、及び被告人岩田等と協議決定したという、(1)大会後デモを行う為、被告人岩田弘と渡辺修が聴衆に対してアジ演説を行なう、(2)アジ演説をきっかけとして、各中核隊がオタマジャクシ形にスクラムを組んで、これに大衆を結集し、場内を二、三回廻り、隊列を結束してから場外へ出る、(3)中署玄関で代表が抗議し、そこで戦闘が行なわれるだろうが、結局は中署到達前に警察官と対峙することになるだろうから、その時被告人渡辺の指示した前記方法により戦う、(4)各指揮者は手榴弾の投擲を合図にデモ隊の解散を命じ、大須繁華街の群衆の中に入る、等の旨の決定事項は、右指示事項(1)を除いては、すべて事実を誤認したものであり、原判決は、この点で破棄を免れない、というのである。

しかしながら原判決挙示の関連証拠、特に被告人杉浦正康の27・11・6付検調の記載によれば、原判決認定の如き右指示及び協議決定がなされたことを認めるに十分である。

所論は次の諸理由から同被告人の右検調の供述記載は信用できないとしている。すなわち

第一に、原判決の認定によれば、名電報細胞員であり同時に民青団愛知県指導部員であった同被告人が、原判示の七月六日の名大嚶鳴寮での名大生の集まり(原判決によれば名大細胞会議)に参加する理由も必要も全くない。

第二に、被告人山田泰吉は原判決挙示の各検調において、被告人渡辺から前記七月六日夜の嚶鳴寮での会議に誰かを出席させるよう指示された時期を、あるいは同日名古屋駅での帆足、宮腰歓迎の際といい、あるいは昭和二七年七月五日の隊長会議の後と述べ、また被告人山田泰吉が、被告人杉浦正康に、右指示を伝えた時期を、あるいは同年七月六日、中署へ抗議に行った後といい、あるいは右抗議に行く前と述べるなど、被告人杉浦が前記会合に参加するに至った経緯が極めて不明確である。

第三に、被告人山田泰吉及び同杉浦正康の検調によれば、右嚶鳴寮での集会は、「手榴弾会議」であったというのであるが、右被告人杉浦自身の供述によってさえ、出席者の顔触れからも話の内容からも全くそのようなものでなかったことが明らかであるばかりでなく、そもそも現実に手榴弾が作製され、あるいはデモ隊の中に持ち込まれたということはなかったのであるから、「手榴弾会議」など存在し得るはずがなかった。

第四に、実際に被告人杉浦正康が右会合に出席していたとするならば、これと同席したはずの被告人岩田弘の第四回検調に「一度も見たことのない労働者風の男がいた」旨の記載があるのであるから、同被告人に右被告人杉浦正康の面通し、もしくは写真による確認をさせているはずであるのに、それが為されていない。

第五に、被告人山田泰吉の27・10・6付検調によれば、被告人杉浦正康は七月六日夜八時からの清風寮における指導者会議に被告人山田泰吉、同張哲洙、元被告人杉浦登志彦と共に出席している。

第六に、被告人山田泰吉、同杉浦正康の各検調に前記嚶鳴寮における会合のことが出て来るのは、すべて被告人岩田弘が、これについて最初の供述をした昭和二七年一〇月五日以降のことである。このことは、右各検調は、被告人岩田弘の「当夜のデモは抗議デモであり、手榴弾は使わず、火焔瓶は最後の防衛のためにだけ使用する」、との旨の中署、アメリカ村への軍事攻撃という予め設定した筋書に合致しない供述に接して慌てた検察官が、誘導、脅迫によってデッチ上げた虚偽のものであることを物語るものである、というのである。

しかしながら、第一に、被告人杉浦が七月六日の嚶鳴寮の会合に出席したのは、原判決第一章、第一節、第二款、第六の一認定の如く七月五日の隊長会議において、七月七日の帆足、宮腰歓迎大会後のデモにおいては中署及びアメリカ村を攻撃するが、武器として手榴弾をも使用すること等が協議決定され、その際、被告人山田泰吉は被告人芝野一三もしくは同渡辺鉱二から「中署を攻撃する際に手榴弾を投げる人を民青団から数人出せ、そしてその代表を一名、七月六日の嚶鳴寮の会合に出席させるよう」指示されていたので(被告人山田泰吉の27・11・14付検調)、右指示に従い、原判決第一章、第一節、第二款、第七の二(1)認定の如く民青団の手榴弾班々長に指名されていた被告人杉浦正康を、代表として右会合に出席させたものである(被告人山田泰吉の27・11・16付検調)。被告人杉浦が右会合に出席した経緯が右の如きものである以上、日共名電報細胞員で民青団名古屋地区指導部員でもある同被告人が(同被告人第一回検調)、名大生も参加した右会合に出席したことに何ら奇異な点は存しない。

第二に、被告人杉浦を嚶鳴寮における七月六日夜の右会合に出席させるよう被告人芝野もしくは同渡辺から指示を受けた日時、場所及び右指示を被告人杉浦に伝えた時期について、被告人山田泰吉の各検調記載の間に齟齬があることは所論指摘のとおりであるが、これは同被告人が、その27・11・14付検調で「前回には手榴弾会議に正康(注、被告人杉浦)を出せということを六日の駅頭デモの際兵藤(注、被告人渡辺鉱二)から言われたと述べたのは間違いであります」と述べている如く単純な記憶違いと解すべきであって、この程度の錯誤は、あり得ることであり、同被告人が殊更これらの点につき虚偽の申立をする理由も必要も考えられない。まして、このことから直ちに同被告人の右各検調の供述全体の証明力に疑を挾み、また被告人杉浦が嚶鳴寮における右会合に出席した事実を否定するのも失当である。

第三に、被告人山田泰吉及び杉浦正康が、嚶鳴寮における右会合においては手榴弾に関する協議が行われるものと考えていたことは前記認定のとおりであり、さればこそ民青団の手榴弾班長に指名された被告人杉浦が右会合に代表として出席したわけであるが、実際には上級機関による方針の変更により右会合において手榴弾については余り討議されなかったのである。この間の事情は被告人杉浦の27・11・6付検調における「討論が始まってから、デモの編成について話が出たので、私は手榴弾会議に班長として出席したわけである、従って兵藤君(注、被告人渡辺鉱二)の原則的な説明は当然としても、討論は手榴弾の打合せに入るものと思っていたが、その点には触れずに、デモの編成等に進んだので、私は『僕は民青の手榴弾の班長として出席したのですが、この会議はデモの編成等という根本的な大きな会議なのですか』と発言したら、兵藤君を初め二、三の人達から、最初は武装解除の為、相当な手榴弾を投げる計画であったが、それが先に説明があったように数個しか投げないことに事情が変ったから、このまま続けましょう、むし返す必要はないでしょうと口々に言ったので、私は了解して、そのまま黙って討論に参加しました」との供述記載により明らかである。

第四に、被告人岩田弘が被告人杉浦正康を面通し、もしくは写真により確認していないことも、同被告人の右会合に出席した事実を否定する根拠となるものではない。

第五に、被告人山田泰吉が、その27・10・6付検調において「七月六日夜、帆足、宮腰歓迎デモから清風寮に帰り同所において午後八時頃、原判決第一章、第一節、第二款、第七の二(2)認定の民青団指導部会議を開き、右会議に被告人杉浦正康が出席した」旨述べていることは所論のとおりであるが、被告人山田泰吉の27・11・24付検調によれば、右供述は同被告人の記憶違いであり、事実は、七月六日夜、帆足、宮腰歓迎デモから清風寮に引き揚げて後、原判決第一章、第一節、第二款、第七の二(1)認定の如く被告人山田泰吉は被告人杉浦正康を手榴弾班長に指名して、前記の嚶鳴寮における会合に出席させた上、被告人山田泰吉、同張哲洙、元被告人杉浦登志彦等は、右歓迎デモに際して吉田昭雄が逮捕されたことにつき中署に抗議に出かけた後、清風寮に引き揚げてから前記の原判示第七の二(2)の指導部会議を開いたもので、右会議には被告人杉浦正康は前記の嚶鳴寮における会議に出席していたため、参加していないことが認められる。

第六に、被告人山田泰吉、同杉浦正康の各検調に嚶鳴寮における前記会合のことが出て来るのが、被告人岩田弘が、これについて最初の供述をした同人の27・10・5付検調以降のことであることは所論のとおりであるけれども、このことから直ちに所論の如く、被告人山田、同杉浦の右検調を検察官の誘導、脅迫による虚偽のものと断定するのも失当である。

結局右第一ないし第六のいずれの点からしてもまた右の諸点を総合考察しても、被告人杉浦正康の右検調について、その証明力を疑うには足りない。

所論の援用する被告人岩田の27・10・4付、第二回、第四回、第五回各検調中には前記認定に反する記載が存するけれども、同被告人は、その27・10・4付検調において、「私は騒擾事件の被疑者として逮捕された時、警察や検察庁の取調官に対して事実を黙秘して来たのは、第一に大須事件を最初から騒擾事件であると認定して取調をしたことであります。これを騒擾として多数の人を検挙したのに反感をいだいておるのです。黙秘権を行使した第二の理由は、もし私が事実を詳細申し上げると、私と共に心を合せて所謂学生運動をして来た人の名が出ることになるので事実を申し上げなかったのであります。以上のような理由で今日まで黙秘権を行使したり、又事実を曲げたりして来たのでありますが、現段階において今までのような態度で果してよいものかどうか、考慮に考慮を重ねた結果、これ以上事実を歪曲することは益のないことであり、一日も早く客観的な事実を明らかにして審理の促進と公正な裁判の一助にもしたいと思う心境になりましたので、これから正直に事件のことについて申し上げます。然しどうしても申し上げにくい点は申し上げられないのですから私の立場を理解し余り追及しないで下さい」と述べ、その第四回、27・10・23付検調において「私は去る十月四日、五日、六日と三日間にわたって今回の大須事件のことについて検事より取調を受けた際、自分で進んで事実を申上げておきましたが、その事実の一部については如何に私の行動に関係したことでも個人関係のことは他人に迷惑をかけるのではないかと思って申上げなかったのでしたが、それでは却って誤解を招く虞もあるので、この際補足的に申上げます。それは七月六日午後八時頃、名古屋大学嚶鳴寮南寮四号室において七、八人の学生や労働者が集ったことがあることと七月七日大須球場で私の所に来てY部のレポがデモのことについて種々指示したのでしたが、そのレポは誰であったかということについてであります。」と述べていることに徴し、また被告人山田、同杉浦正康の前記各検調の供述記載と対比すると、所論の援用する被告人岩田の前記各検調の供述記載は全面的に信用しがたく、原判決の前記認定を左右するに足りない。

なお所論は、原判決の挙示する各被告人の検調は、いずれも証拠能力がない旨主張するけれども、右主張が理由がないことは控訴趣意(総論)第二点、一の第一の論旨について判断したとおりである。

(4)第四、三「被告人加藤和夫」について

所論は要するに、原判決が、第一章、第四節、第一の六において、認定する被告人加藤和夫の所為中には、同被告人が被告人水谷謙治に対し「デモ行進をすれば警察の弾圧が予想され、警察と戦うことになるから、ピケ組織をつくり、警備状況の調査報告をせよと指令した」旨の部分があるが、警察といかに戦うかが具体的に判示されていない以上、この判示から被告人加藤和夫に騒擾加担の意思があったとは認められないし、また被告人加藤和夫が、被告人永田末男、三輪秀清らとともに「中署、アメリカ村を攻撃させる目的をもって」ビラを印刷させた旨の部分もあるが、デモ隊は中署、アメリカ村へ行かず、行こうともしないのであるから、この目的は問題とならず、結局原判決は、被告人加藤和夫が警察の警備情報を集めたことと、ビラを印刷させたという罪とならないことを判示しているに過ぎず、原判示から被告人に騒擾の故意があったことは認められないから、原判決には事実誤認がある、というのである。

よって検討するに、原判決の挙げている証拠によると、原判決が、第一章、第一節、第二款被告人等の計画、準備の項で判示しているとおり、本件は、日共市V軍事委員の被告人芝野一三、同渡辺鉱二、同清水清、同金泰杏等が、昭和二七年六月二八日と七月二日の二回にわたって会合し、七月七日に大須球場で宮腰、帆足両氏の歓迎大会が行われるのを利用し、大衆を動員してデモの形式で中署に抗議を行ない、その際予想される警察の排除措置に対しては、手榴弾や火焔瓶を使用すること、等を決定し、さらに同月五日には、同被告人等の外、名電報細胞、名大細胞、民青団等の代表者を加えたいわゆる隊長会議が開かれ、その席上、七・七歓迎大会を利用し、名古屋の労働者階級の力を示すため軍事行動をとり、球場に近い中署、アメリカ村を攻撃する、デモ隊は岩井通りを東進して大須交差点を左折北上し、本隊は中署を、朝鮮人部隊はアメリカ村を攻撃する、武器は火焔瓶、手榴弾、プラカード、竹槍とし、包帯代用として手拭を携行する、七・七歓迎大会当日は会場である大須球場三塁側スタンドに軍事部を置き、そこを連絡の中心とする、警察の警備力を分散させるため、朝鮮人が別動隊を編成して市内の巡査派出所を攻撃する、警察の動きを探るため、学生の見張を立てて中署及び球場附近に配置し、負傷者対策として朝鮮人側で救護班を編成すること、等が確認決定され、これらの事項は必要に応じて、党の下部組織や県祖防委、民青団名古屋地区委員会及びその下部組織に順次流され、これを受けた各組織では、その役割に応じた具体的な行動内容を協議決定するとともに、プラカード、火焔瓶、アジビラなどをつくり、また七・七歓迎大会当日の七月七日には、当日の行動全般を指導する地下指導部、現場における行動を指導する現地指導部、地下指導部と末端の情報収集者との間にあって、情報の連絡を任務とする中間機関を設けるなど、日共名古屋市Vが中心となって計画、準備されたうえ、原判決が第一章、第二節で判示しているとおりの騒擾が行われるに至ったものであるが、被告人加藤和夫は、原判決が第一章、第四節、第一の六に判示しているとおり、同党名古屋市VS部キャップとして、(1)七月二日頃前衛書房において、被告人水谷謙治に対し、七・七歓迎大会後に一大デモ行進を行なう予定で、デモ行進をすれば警察の弾圧が予想され、警察と戦うことになるから、当日までにピケ組織を作って、大須球場を中心に、中署、アメリカ村附近の警察の警備状況等を調査して報告せよ、などと指令し、(2)同月六日には右被告人水谷に対し、七・七歓迎大会当日明和細胞が中心になって集めた警備情報を中間機関に報告するよう指令し、(3)伊藤育夫らに「会場の同志諸君」と題し、「中日貿易をやらせないのはアメ公と吉田だ、敵は警察の暴力だ、中署え行け!! 敵の正体はアメ公だ、アメリカ村え行け、武器は石ころだ!! 憎しみをこめて敵に力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街え散れ」と書いたアジビラを印刷させ、(4)翌七日午前一一時過頃から午後八時頃までの間、中間機関として、被告人水谷謙治、分離組被告人安藤宏から、警備情報の報告を受け、それを地下指導部に報告し、また同被告人安藤宏に情報の収集について指示したほか第一章、第一節、第二款、第六の四判示のとおり、(5)同月五日午後六時頃から野村俊造方で開かれた火焔瓶製法講習会にも出席して権竜河より火焔瓶の製法を教わっている事実を認めることができる。このような本件の経過や、被告人加藤和夫の党内における地位、本件えの関与の仕方等を総合すると、同被告人には、七・七歓迎大会に出席している多衆をデモに参加させたうえ、中署、アメリカ村に抗議に行き、火焔瓶や石を投げつけるが、その間警察が強制的にデモを解散させようとした場合には、デモに参加した多衆をして、その合同力を恃んで、警察官に火焔瓶や石を投げつける等の暴行を加えて抵抗させる意思のあったことを推認することができ、被告人加藤和夫に騒擾の故意のあったことは明らかであって、原判決が所論のように、第二款、第三の二(2)において、警察といかに戦うか具体的に判示していないことも右認定を妨げるものではなく、また騒擾罪は、多衆集合して暴行、脅迫をなすことによって成立するところ、被告人加藤和夫が、前叙のとおりの意思で騒擾の計画、準備に参画し、それに基いて本件騒擾が行なわれた以上、現実の騒擾が、当初計画、準備した中署、アメリカ村の攻撃と、発生の場所や態様において異っていること所論のとおりであっても、被告人加藤和夫の意思と、現実に発生した騒擾とは多衆集合して暴行した点で一致しており、同被告人に本件騒擾について故意がなかったとはいえない。原判決のこの点の認定は正当であり、論旨は理由がない。

(5)  第五「訴訟手続の法令違反」について≪省略≫

2~38≪省略≫

Ⅳ  各被告人の控訴趣意に対する判断≪省略≫

Ⅴ  被告人方甲生、同朴柄釆、同閔南採に関する法令適用の誤について

職権で調べると、原判決は、被告人方甲生は昭和二四年九月二八日名古屋地方裁判所で窃盗罪により懲役二年に処せられ(同年一〇月四日確定)、同朴柄釆は同二六年八月一六日同裁判所で恐喝、学校教育法違反罪により懲役八月に処せられ(同月三一日確定)、いずれも原判示犯行当時右刑の執行を受け終っており、同被告人らの原判示の罪がこれらの前科と再犯の関係にあるものとして、刑法五六條一項、五七條を適用処断している。しかしながら当審第一三回公判において取調べた「指紋対照氏名索引照会について」と題する書面によれば、被告人方甲生の右前科の刑執行終了の日は昭和三〇年一一月一六日であり、同朴柄釆の右前科の刑執行終了の日は同二八年七月一二日であったことが認められるから、同被告人らの原判示の罪は右の前科と再犯の関係にないことが明らかである。

また原判決は、被告人朴柄釆の原判示騒擾率先助勢罪と外国人登録令違反罪とを刑法四五條前段の併合罪として処断している。しかしながら右外国人登録令違反罪は、同被告人の前叙窃盗(恐喝ではない。)学校教育法違反罪の裁判確定前の犯行であるから、その罪と刑法四五條後段の併合罪の関係にあり、右確定裁判後の犯罪である騒擾率先助勢罪とは同法四五條前段の併合罪の関係にないことが明らかである。

次に原判決は、被告人閔南採には、昭和二六年一月一二日名古屋高等裁判所で住居侵入罪により懲役六月に処せられ(同二七年一二月二〇日確定)た確定裁判のあることを認定したうえ、この罪と原判示騒擾首魁及び外国人登録法違反の罪につき刑法四五條後段、五〇條、四五條前段、四七條本文、一〇條を適用処断している。しかしながら、原判示外国人登録法違反の事実を原判決挙示の証拠と対照してみると、原判決は、同被告人が昭和二七年九月二九日より同年一〇月二八日までの間に、外国人登録証明書を居住地の市町村の長に返納して、新たに登録証明書の交付を申請しなければならないのに申請することなく、右期間をこえて同二八年八月頃まで本邦に在留した事実を認定しているものと解される。そうだとすれば、右確定裁判を経た罪と同法四五条後段の併合罪の関係にあるのは騒擾首魁の罪のみであり、外国人登録法違反の罪は継続犯であるから確定裁判後の犯罪として、右騒擾首魁の罪と同法四五條前段の併合罪の関係にないことが明らかである。

Ⅵ  結論

原判決中被告人方甲生、同朴柄釆、同閔南採に関する部分の法令適用にⅤに述べたとおりの誤があって、その誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、刑訴法三九七條一項、三八〇條により、原判決中被告人方甲生、同朴柄釆に関する有罪部分及び同閔南採に関する部分を破棄し、同法四〇〇條但書により、さらに判決する。

原判決の確定した事実に法令を適用すると、被告人方甲生の原判示騒擾の率先助勢の所為は、刑法一〇六條二号後段に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で同被告人を懲役六月に処し、同法二五條一項を適用してこの裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

同朴柄釆の原判示所為中外国人登録令違反の点は、同令四條三項、昭和二四年政令三八一号外国人登録令の一部を改正する政令附則二項、五項三号、外国人登録法附則三項、刑法六條、昭和四七年法律六一号による改正前の罰金等臨時措置法二條に該当するところ、右は前叙確定裁判を経た罪と刑法四五條後段の併合罪であるから同法五〇条により、まだ裁判を経ない右外国人登録令違反の罪について裁判することとし、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で懲役一月に処する。また原判示騒擾の率先助勢の点は、刑法一〇六條二号後段に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、同法六六條、七一條、六八條三号により酌量減刑した刑期範囲内で懲役四月に処する。なお同法二五條一項を適用して、この裁判確定の日から一年間右各刑の執行を猶予する。

同閔南採の原判示所為中騒擾首魁の点は、刑法一〇六條一号に該当するところ、右は前叙確定裁判を経た罪と同法四五條後段の併合罪であるから、同法五〇條により、まだ裁判を経ない右騒擾首魁の罪について裁判することとし、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で懲役一年一〇月に処する。また原判示外国人登録法違反の点は、昭和三一年法律九六号による改正前に外国人登録法一一條二項、同法附則五、八項、同法一八條一項一号、刑法六條、昭和四七年法律六一号による改正前の罰金等臨時措置法二條に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で懲役一月に処する。なお刑法二一條を適用して、原審の未決勾留日数中八〇日を騒擾首魁の罪の刑に算入する。

その余の各被告人の本件各控訴は、理由がないので、刑訴法三九六條によりこれを棄却し、被告人方甲生、同朴柄釆、同閔南採の原審及び当審の訴訟費用、その余の被告人の当審の訴訟費用は、同法一八一條一項但書により、これを負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高澤新七 裁判官 斎藤壽 裁判官 塩見秀則)

略語表

日共=日本共産党

市V=名古屋市ビューロー

民青団=日本民主青年団

名電報=名古屋電報局

北鮮=朝鮮民主々義人民共和国

祖防委=祖国防衛委員会

県祖防委=祖国防衛愛知県委員会

市祖防委=祖国防衛名古屋市委員会

東三地区祖防委=祖国防衛東三河地区委員会

西三地区祖防委=同  西三河地区委員会

民愛青=在日本民主愛国青年同盟

七・七歓迎大会=昭和二七年七月七日、大須球場における帆足計、宮腰喜助歓迎報告大会

名地検=名古屋地方検察庁

市警本部=名古屋市警察本部

中署=中警察署

公調=公判調書

尋調=証人尋問調書

弁録=弁解録取書

検調=検察官に対する供述調書、27・9・14付検調は昭和二七年九月一四日付検察官に対する供述調書

警調=司法警察員に対する供述調書

二四〇―一〇七から一〇九=記録二四〇冊、一〇七丁から一〇九丁

最高裁決定、集一四巻、一二号、一、八二六頁=最高裁判所決定、最高裁判所刑事判例集第一四巻、第一二号、一、八二六頁

<以下省略>

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